「それで蓮くん。最初から話していた通り、この濡れた服をどうにかしたいんですけど……何か着替え、ありませんかね? このままだと風邪をひきそうですし、さすがに授業にも出られないので」
僕は、改めてお願いをした。僕としては、彼が持っているそのスクールバッグの中にタオルの1つでも入っていないかと思ってのことだった。
「はぁ? だから持ってねえって……あ、いや……」
蓮くんは、言いかけて、自分の肩にかかった黒いスポーツバッグに目をやった。そして、少しだけ逡巡するような素振りを見せた後、諦めたように大きなため息をついた。
「……これしかねえけど。俺ので良ければ、だけどな。サイズ合うか知らねえけど」
そう言って、彼はスポーツバッグの中から、くしゃくしゃになった自分の体操着を取り出して、僕に差し出した。
「え、いいんですか!? ありがとうございます! 助かります! 恩に着ます、蓮くん!」
僕は、深く考えずに、満面の笑みでそれを受け取った。これで着替えられる。早くこの冷たくて重い制服から解放されたい――その一心だった。
そして、僕は、何の躊躇もなく、その場で――校舎裏の、薄暗い日陰の中で――濡れて身体に張り付いたブレザーのボタンに手をかけた。
(よし、早く着替えないと。風邪ひくしな……)
完全に、自分が今、女子中学生の身体であるという現実を忘れていた。頭の中は、ただ『この場で濡れた服を脱いで、乾いた服に着替える』という、男だった頃には当たり前だった、ごく自然なプロセスしか描いていなかったのだ。
ブレザーを脱ぎ捨て、次に濡れたブラウスの小さなボタンに手を伸ばす。1つ、2つ……。下着であるブラトップが露わになりかけた、その時だった。
「ばっ……! ばか!! おいっ!!! てめっ、何やってんだよ!!!」
突然、すぐそばで、裏返ったような、悲鳴に近い蓮くんの怒声が響き渡った。
「!?」
驚いて顔を上げると、そこには、顔をトマトのように真っ赤にして、信じられないものを見るような目で僕を睨みつけている蓮くんがいた。
彼はほとんど反射的に僕の前に回り込み、僕がブラウスを脱ごうとしていた手を、乱暴に掴んで制止した。
「ここで脱ぐなアホ!! 見えるだろうが!! 男の前だぞ!!」
(え……? 男の前……? あ……)
掴まれた腕の熱さと、彼の剣幕に、僕は一瞬、キョトンとしてしまった。そして、数秒遅れて、ようやく自分が何をしようとしていたのかを理解した。
(……そうか。僕、今……沙羅――女子中学生なんだった……)
目の前にいるのは、男子生徒。そして僕は、その前で平然と服を脱ごうとしていた。男だった頃の感覚が、完全に抜けきっていなかったのだ。
「あ……いや、その……ごめん……?」
とりあえず謝ってみるが、蓮くんの動揺と怒りは収まらない。
「ごめんじゃねえよ! 普通気づくだろ! バカなのかお前は!?」
「いや、だって、早く着替えないと……」
「場所!! 場所考えろっつーの! 女子が! 男の前で! ホイホイ服脱ぐなっつってんだ!!」
彼は、照れと怒りでますます顔を赤くしながら、僕を睨みつける。その剣幕に、僕は少しだけ反省した。
(……なるほど。たしかに、これはマズかったな……。完全に無頓着だった……。危うく、ただの変な奴、いや、それ以上にヤバい奴になるところだった……)
蓮くんは、これ以上ここで問答していても埒が明かないと判断したのだろう。「チッ……!」と大きく舌打ちすると、掴んだ僕の腕を、今度は半ば強引に引っ張り始めた。
「え? ちょっ、どこ行くんですか!?」
「いいからこっち来い!! ここよりマシな場所連れてってやるよ!」
僕は、わけがわからないまま、しかし抵抗することもできず、彼に腕を引かれるまま、校舎裏から一番近いであろう、おそらく普段はあまり使われていない体育用具室へと連行された。
薄暗く、少しカビ臭い用具室の隅に押し込まれるように促され、蓮くんは、まだ少し息を切らしながら、そして顔の赤みを隠すようにそっぽを向きながら言った。
「い、いいか! 絶対にここで着替えろよ! 終わったら……終わったら声かけろ! 外で、ちゃんと待っててやるから!」
そう言い捨てると、彼は慌てたように用具室から出ていき、ドアをピシャリと閉めた。
一人、薄暗い用具室に残された僕は、ようやく落ち着いて考えることができた。
(……さっきの蓮くん、ものすごい慌てようだったな……。まあ、僕があんな行動取ったら、当然か……。それにしても……女子っていうのは、本当に色々と面倒だな……。いちいち気にしないといけないことが多すぎる……)
自分の無頓着さに呆れつつ、僕はため息をついた。気を取り直して、蓮くんから借りた体操服に袖を通す。Tシャツもハーフパンツも、やはりぶかぶかだ。
そして、生地から微かに漂ってくる、男子特有の匂い。少女になったことで鼻が敏感になっているせいか、以前よりもはっきりと感じられる。
(……これ、男子中学生の匂い、か……意外と不快感はないもんだな)
ふとそんなことを思った。
それから僕は濡れた制服をどうしようか、という新たな問題に目を向けた。とりあえず、固く絞って、畳んで持っていくしかないか。
着替えを終え、僕は用具室のドアを少しだけ開けて外を窺った。蓮くんは、少し離れた壁に寄りかかり、腕を組んで、まだどこか気まずそうに立っていた。
僕が出てきたのに気づくと、彼はちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。顔の赤みは、もう引いているようだ。
2人の間になんとも言えない、気まずいような――妙な空気が流れる。
「あの……蓮くん、ありがとうございました。本当に、助かりました」
とりあえず、またしても心からの感謝を込めて、深く頭を下げる。
「……おう。……で、その濡れたやつ、どうすんだよ。それ持って教室戻る気か?」
彼は、ぶっきらぼうながらも、現実的な問題を指摘してくれた。彼の言う通りだ。このびしょ濡れの制服をどうするか。
「貸せよ――教室までは俺が持っていってやるよ」
そういうと彼は、僕の手から濡れた制服を奪い取り、自身の服が濡れるのも厭わず小脇に抱え込んだ。
(……今時の中学生って――こんなにスマートなんだ。少なくとも僕が中学生だった時はこんなことできなかったと思う……)
再三の感謝の気持ちに加えて、僕は妙なところで蓮くんに感心を覚えたのだった。