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第18話 親友

「沙羅ちゃん、大丈夫なの!? この人と一緒なんて……! 何かされたんじゃ……!?」


 息を切らして追いついてきた少女――椎名美希さんは、僕の腕を掴み、隣に立つ蓮くんを睨みつけるようにして言った。その大きな瞳には、僕への心配と、蓮くんへの明確な警戒心とが、ありありと浮かんでいる。クラスでも素行が悪いと評判で一匹狼な彼と一緒にいる僕を見て、何か良からぬことを想像してしまったのだろう。


 僕は、彼女の剣幕に少し驚きつつも、慌てて誤解を解こうとした。


「ち、違うよ、椎名さん! 彼は……蓮くんは、わたしを助けてくれたんだ!」

「え……?」


 僕の言葉に、椎名さんは目を丸くする。僕は、今日学校で起こったことを、できるだけ簡潔に説明した。

 休み時間、姫野莉子に校舎裏へ連れて行かれ、水をかけられたこと。

 そこに偶然蓮くんが通りかかり、体操着を貸してくれ、今、家まで送ってくれている途中であることを。


 僕の話を聞くうちに、椎名さんの表情から険しさが消え、驚きと、そして安堵の色が広がっていった。蓮くんは、その間、腕を組んで壁にでも寄りかかるように、黙って僕たちのやり取りを聞いている。


「そ、そうだったんだ……。ごめんなさい、相葉くん、疑ったりして……」


 椎名さんは、蓮くんに向かって小さく頭を下げた。彼は「……別に」と短く答えただけだった。


 しかし、安堵したのも束の間、椎名さんの表情はすぐに再び曇った。今度は、深い後悔と罪悪感の色を浮かべて。


「……沙羅ちゃん、また……あんな酷い目に……。ごめんね、私……また、何もできなくて……」


 俯き、か細い声で呟く彼女の肩が、小さく震えている。


「椎名さんが謝ることじゃないよ。それに、わたしは大丈夫だから」


 僕は、できるだけ優しい声で言った。だが、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は潤み、強い決意のような光が宿っていた。


「ううん、謝らせて……! 私……沙羅ちゃんに、ずっと、ずっと謝りたかったことがあるの……!」


 その切羽詰まったような声に、僕は息を呑んだ。彼女が何を言おうとしているのか、全く見当もつかない。ただ、それが彼女にとって、非常に重い告白であることだけは伝わってきた。


「私たち……」


 椎名さんは、一度言葉を切り、震える唇で続けた。


「小学校の頃から、ずっと一緒だったんだよ……? 一番の、親友だった……。いつも一緒にいて、たくさん笑って、くだらないことで喧嘩もしたけど……それでも、ずっと、一番の友達だって、思ってた……」


(親友……? 僕と、この子が……? 小学校から……?)


 初めて聞く事実に、僕は言葉を失う。だから、彼女は僕のことを「沙羅ちゃん」と呼び、あんなに心配そうな、そしてどこか寂しそうな目をしていたのか。


「なのに……」


 椎名さんの声が、涙でさらに震え始める。


「中学に入って……姫野さんたちに、沙羅ちゃんがいじめられるようになって……私は……怖くて……。自分が同じ目に遭うのが、怖くて……。沙羅ちゃんのこと、避けちゃった……。話しかけられても、知らんぷりしたり……無視、したり……。沙羅ちゃんが、一番辛い時に、一番苦しい時に……そばにいてあげられなかった……! 友達なのに……! 本当に……本当に、ごめんなさい……!!」


 堰を切ったように、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。しゃくり上げながら、何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。長い間、彼女の心を苛んできたであろう、深い後悔と罪悪感。それが、痛いほど伝わってくる。


 僕は、目の前で泣きじゃくる彼女の姿に、強く心を揺さぶられていた。小学校からの親友。一番の友達。それを、いじめという理不尽な暴力が引き裂いた。

 僕には、その時の沙羅の気持ちも、そして、恐怖から友達を見捨ててしまった椎名さんの苦しみも、本当の意味では分からない。記憶がないのだから。


 だが、今、目の前で涙を流している彼女の痛みは、本物だ。そして、今日、彼女は勇気を出して僕に声をかけ、心配してここまで追いかけてきてくれた。その事実は、何よりも雄弁に、彼女の今の気持ちを物語っているように思えた。

 僕は、静かに、そしてできる限り温かい声で語りかけた。


「椎名さん……」


僕の声に、彼女は顔を上げる。涙で濡れた瞳が、不安そうに僕を見つめている。


「過去がどうだったとしても、今日、わたしのことを心配して、こうして声をかけてくれた。勇気を出して、ここまで来てくれた。それだけで、すごく嬉しいんだ。……ありがとう、椎名さん」


 僕は、できるだけ優しい笑顔を向けてみた。ぎこちない笑顔だったかもしれないけれど、僕の偽りのない気持ちだった。


 僕の言葉を聞いて、椎名さんは、しばらくの間、ただ呆然と僕を見つめていた。そして、次の瞬間、さらに大きな声で泣き出してしまった。


「……沙羅ちゃん……! うわぁぁぁん……! ごめんね……! ありがとう……!」


 今度の涙は、先ほどまでの後悔の涙とは違う、もっと温かい、安堵と喜びが入り混じった涙のように見えた。僕は、少し困ったように眉を下げながらも、彼女の小さな背中を、そっと、優しくさすってあげた。言葉はなくても、その温もりが、少しでも彼女に伝わればいいと思った。


 その様子を、少し離れた場所で、蓮くんが腕を組んで黙って見ていた。相変わらず表情は読みにくいが、その視線は、以前のような冷たさではなく、どこか仕方がないな、とでも言うような、わずかな呆れと――もしかしたら、ほんの少しの優しさが含まれているようにも見えた。


 しばらくして、ようやく涙が収まってきた椎名さんが、まだ少し鼻をすすりながら、しかし、吹っ切れたような、少し照れたような顔で僕に言った。


「……あのね、沙羅ちゃん」

「……うん?」

「もし、よかったら……でいいんだけど……。その……昔みたいに……『ミキちゃん』って、呼んでくれないかな……?」


 少し恥ずかしそうに、しかし、確かな期待を込めて、彼女はそう提案した。


(ミキちゃん……)


 その響きに、僕は一瞬戸惑う。彼女との過去の記憶は何もない。いきなりそんな風に呼ぶのは、なんだか躊躇いもある。

 だが、目の前の彼女の、潤んだ瞳の奥にある、切実な願いを感じ取ると、断ることはできなかった。


 僕は、少しぎこちないながらも、はっきりと頷いた。


「……うん。わかった、ミキちゃん」


 その瞬間、彼女の顔が、ぱあっと花が咲いたように輝いた。


「ありがとう、沙羅ちゃん!」


 壊れてしまった友情が、記憶喪失という奇妙な状況を経て、今、新たな形で再び結ばれ始めた。そんな確かな手応えを感じていた。


「あのね、沙羅ちゃん、私、決めたの! もう、逃げない! 私、沙羅ちゃんの力になりたい! だから、何でも言ってね!」


 ミキちゃんは、力強くそう宣言した。信頼できる協力者ができた瞬間だった。


「……話は終わったか?」


 不意に、後ろから蓮くんの声がした。いつの間にか、彼は僕たちのすぐそばまで来ていた。


「暗くなる前に帰んぞ。ほら、行くぞ」


 彼は、そう言って、僕とミキちゃんを促すように、再び歩き始めた。


 夕暮れの光が、帰り道を茜色に染め始めている。僕は、隣を歩くミキちゃんと、少し前を歩く蓮くんの背中を見ながら、今日1日の出来事を反芻していた。最悪の始まりだと思った復学初日。だが、今はもう、1人ではない。


 これから始まるであろう戦いと、日常。それはきっと、困難で、面倒なことばかりだろう。それでも、この2人となら、あるいは――。


 僕は、小さな希望の欠片のようなものを胸に抱きながら、少しだけ軽くなった足取りで、家路を急いだ。

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