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第2章 ミステリー作家失踪事件

第17話 依頼人が来る前にはシャワーを浴びよう

 まだイノシシの臭いがかすかに残る探偵事務所にて。

 本のページをめくる音だけが響いている。


 夏も近づいてきた頃。

 助手の格好はクールビズに変わっていた。

 スーツのジャケットは、涼しそうなYシャツを着こなしながら、愛おし気に活字を追いかけている。



「なに、よんでる、の?」



 突然、探偵――銀髪の美少女の顔が肩に乗ってきて、助手はビクリと驚いて、おもわず椅子から落ちそうになった。



「ちょっと、あまり近寄らないでください」

「なん、で……?」



 探偵の純粋な瞳に見つめられて、助手の目が泳ぐ。



「汗臭いんですよ。常にレインコートなんて着ているから蒸れているじゃないですか」

「んー。でも、あめ、めんどう」

「それはいいですけど、小まめに汗ぐらい拭いてください。なけなしの金で汗拭きシートを買ったじゃないですか」

「あれ、すーすー、きらい」



 子供っぽく頬を膨らませる探偵に対して、呆れた視線を送る助手。




「そうは言いましてもね。消臭効果とかを考えるのが、これが一番いいんですよ」

「わたしの、におい、きらい、なの?」



 上目づかいで言われて、助手は頬を赤らめて、タジタジになった。

 しかし、すぐに気づく。

 こいつがこんなことを言う訳ない、と。



「……探偵さん、その言葉、誰に教えられました?」

「まま」



 助手はがっかり半分、予想が当たった嬉しさ半分で、苦笑いを浮かべた。



「あー。一ノ瀬さんですか。ってか、いつからママって呼ぶように?」

「き、のう」

「いや、そんなに簡単にママを増やさないでくださいよ」

「うーん、まま、ひとり、ふえても、なー」

「え、もしかして、ママがいっぱいいたんですか?」

「ぱぱ、まま、いっぱい。いきてる、まま、はじめて、だけど」



(どういう環境で育ったのか、とうとうわからなくなってきたぞ?)



 しかし、今考えても仕方がないことだと、すぐに思考を切り替える。



「それよりも、探偵さん。本当に汗臭いですよ。言いましたよね。今日は依頼人が来るって」

「におい、かんけい、ある?」

「大アリですよっ! 体臭はエチケットです。依頼人に逃げられないためにも、キレイにしてもらわないといけません」

「……ぶぅ」

「膨れてもダメです」



 さらに不機嫌そうな顔になった探偵は、助手になぜか汗拭きシートを手渡した。



「じゃあ、じょしゅ、ふいて」



 言うや否や、探偵はレインコートを脱いで、白い肌をあらわにした。




「いや、オレ相手は恥ずかしいんじゃなかったんですか?」

「まえ、みられない、なら、おーけー」



(信用が重い……!)



 助手は精神を落ち着けるように、長い息を吐く。

 こうなっては話を聞かない。自分が折れないと進まない。彼はそれを重々理解していた。


 意を決して汗拭きシートを袋から取り出し、探偵の小さな手を拭き、肩に向けて滑らせていく。



(やばい。心臓がやばい)



 毛の一本もなく、きめ細やかな肌。柔らかい感触。微かに漂う甘い香り。なにもかもが、助手にとっては刺激的だった。



「……よく汗疹あせもできませんね」



 気分を紛らわせるために、口を動かす。



「あせ、も?」

「汗をかきすぎると、肌がかゆくなったり赤くなったりしませんか?」

「あー。ない、かも」



 両方の腕を拭き終わると、今度は背中に取り掛かる。



(小さくて、かわいい)



「傷ひとつありませんね」

「きず、つく、よわい、から」

「どんだけ自分の力に自信があるんですか」

「せかい、なんかいか、すくった、し」

「……その話、すごく聞きたいような気がしますが、やめておきます」

「その、ほうが、いい」



 背中が終わると、助手は「ゴクリ」と生唾を飲んだ。


 腕。肩。背中。

 それ以外は、異性が拭くにはデリケートな箇所ばかりだ。



「あの、後は自分で拭けますよね?」

「ぜんぶ、ふいて、くさいん、でしょ?」

「……もしかして、臭いと言ったこと、怒ってます?」

「…………」



 探偵は何も答えない。

 しかし、沈黙が答えだ。



(身から出た錆びかぁ)



 助手は過去の軽率な自分を恨みながら、探偵の背面から手を伸ばして、正面を拭いていく。



(このあたり、胸だよな?)



 とにかく、手から伝わる感覚から意識を遠ざけようと、頭を真っ白にしていく。

 途中、何かが引っかかったような気がしながらも、頭の中で母親の顔を浮かべて耐え続けて、なんとか拭き終えた。


 しかし、まだ終わりではない。



「下もですか?」

「した、も」



 ここから数分、助手の記憶は曖昧だ。


 なにせ、助手は肋骨と脚フェチである。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 疲労困憊になった助手は、倒れ込むように錆びたパイプ椅子に座った。



「……はぁ。もう一度本でも読んで、精神統一しましょう」



 探偵は満足げに、まだ赤い助手の顔を見ている。

 どこか小悪魔のように見えなくもない。



「それで、それ、なに?」

「ミステリー小説です」

「みす、てりー? てりーさん、の、ほん?」

「違いますよ。推理メインの小説です」



 探偵は納得したのか、ポンと手を叩いた。

 まるで、さっきまでのことがなかったみたいにいつも通りだ。



「はえー。たんていの、べんきょう?」

「現実と物語では完全に別物ですよ。これはただの趣味です」

「へー」



 探偵は興味をなくしたのか、スマホを弄り始めた。

 まだまだ拙いタッチ操作だが、どこか楽しそうだ。


 助手はその姿に安心してから、活字の世界へと沈んだ。


 この十数分後、探偵事務所のドアが叩かれるまで。

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