まだイノシシの臭いがかすかに残る探偵事務所にて。
本のページをめくる音だけが響いている。
夏も近づいてきた頃。
助手の格好はクールビズに変わっていた。
スーツのジャケットは、涼しそうなYシャツを着こなしながら、愛おし気に活字を追いかけている。
「なに、よんでる、の?」
突然、探偵――銀髪の美少女の顔が肩に乗ってきて、助手はビクリと驚いて、おもわず椅子から落ちそうになった。
「ちょっと、あまり近寄らないでください」
「なん、で……?」
探偵の純粋な瞳に見つめられて、助手の目が泳ぐ。
「汗臭いんですよ。常にレインコートなんて着ているから蒸れているじゃないですか」
「んー。でも、あめ、めんどう」
「それはいいですけど、小まめに汗ぐらい拭いてください。なけなしの金で汗拭きシートを買ったじゃないですか」
「あれ、すーすー、きらい」
子供っぽく頬を膨らませる探偵に対して、呆れた視線を送る助手。
「そうは言いましてもね。消臭効果とかを考えるのが、これが一番いいんですよ」
「わたしの、におい、きらい、なの?」
上目づかいで言われて、助手は頬を赤らめて、タジタジになった。
しかし、すぐに気づく。
こいつがこんなことを言う訳ない、と。
「……探偵さん、その言葉、誰に教えられました?」
「まま」
助手はがっかり半分、予想が当たった嬉しさ半分で、苦笑いを浮かべた。
「あー。一ノ瀬さんですか。ってか、いつからママって呼ぶように?」
「き、のう」
「いや、そんなに簡単にママを増やさないでくださいよ」
「うーん、まま、ひとり、ふえても、なー」
「え、もしかして、ママがいっぱいいたんですか?」
「ぱぱ、まま、いっぱい。いきてる、まま、はじめて、だけど」
(どういう環境で育ったのか、とうとうわからなくなってきたぞ?)
しかし、今考えても仕方がないことだと、すぐに思考を切り替える。
「それよりも、探偵さん。本当に汗臭いですよ。言いましたよね。今日は依頼人が来るって」
「におい、かんけい、ある?」
「大アリですよっ! 体臭はエチケットです。依頼人に逃げられないためにも、キレイにしてもらわないといけません」
「……ぶぅ」
「膨れてもダメです」
さらに不機嫌そうな顔になった探偵は、助手になぜか汗拭きシートを手渡した。
「じゃあ、じょしゅ、ふいて」
言うや否や、探偵はレインコートを脱いで、白い肌をあらわにした。
「いや、オレ相手は恥ずかしいんじゃなかったんですか?」
「まえ、みられない、なら、おーけー」
(信用が重い……!)
助手は精神を落ち着けるように、長い息を吐く。
こうなっては話を聞かない。自分が折れないと進まない。彼はそれを重々理解していた。
意を決して汗拭きシートを袋から取り出し、探偵の小さな手を拭き、肩に向けて滑らせていく。
(やばい。心臓がやばい)
毛の一本もなく、きめ細やかな肌。柔らかい感触。微かに漂う甘い香り。なにもかもが、助手にとっては刺激的だった。
「……よく
気分を紛らわせるために、口を動かす。
「あせ、も?」
「汗をかきすぎると、肌がかゆくなったり赤くなったりしませんか?」
「あー。ない、かも」
両方の腕を拭き終わると、今度は背中に取り掛かる。
(小さくて、かわいい)
「傷ひとつありませんね」
「きず、つく、よわい、から」
「どんだけ自分の力に自信があるんですか」
「せかい、なんかいか、すくった、し」
「……その話、すごく聞きたいような気がしますが、やめておきます」
「その、ほうが、いい」
背中が終わると、助手は「ゴクリ」と生唾を飲んだ。
腕。肩。背中。
それ以外は、異性が拭くにはデリケートな箇所ばかりだ。
「あの、後は自分で拭けますよね?」
「ぜんぶ、ふいて、くさいん、でしょ?」
「……もしかして、臭いと言ったこと、怒ってます?」
「…………」
探偵は何も答えない。
しかし、沈黙が答えだ。
(身から出た錆びかぁ)
助手は過去の軽率な自分を恨みながら、探偵の背面から手を伸ばして、正面を拭いていく。
(このあたり、胸だよな?)
とにかく、手から伝わる感覚から意識を遠ざけようと、頭を真っ白にしていく。
途中、何かが引っかかったような気がしながらも、頭の中で母親の顔を浮かべて耐え続けて、なんとか拭き終えた。
しかし、まだ終わりではない。
「下もですか?」
「した、も」
ここから数分、助手の記憶は曖昧だ。
なにせ、助手は肋骨と脚フェチである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
疲労困憊になった助手は、倒れ込むように錆びたパイプ椅子に座った。
「……はぁ。もう一度本でも読んで、精神統一しましょう」
探偵は満足げに、まだ赤い助手の顔を見ている。
どこか小悪魔のように見えなくもない。
「それで、それ、なに?」
「ミステリー小説です」
「みす、てりー? てりーさん、の、ほん?」
「違いますよ。推理メインの小説です」
探偵は納得したのか、ポンと手を叩いた。
まるで、さっきまでのことがなかったみたいにいつも通りだ。
「はえー。たんていの、べんきょう?」
「現実と物語では完全に別物ですよ。これはただの趣味です」
「へー」
探偵は興味をなくしたのか、スマホを弄り始めた。
まだまだ拙いタッチ操作だが、どこか楽しそうだ。
助手はその姿に安心してから、活字の世界へと沈んだ。
この十数分後、探偵事務所のドアが叩かれるまで。