「アブン兄ィ!! おやっさん!! 誰か、助けてッ……!!」
タックの手を爪が食い込むほど強く握り締めながら、リリスはひたすら走った。
途中、刺のある植物の蔦が、何度となく服を切り裂き、身体を傷つけたが、それを気にしする余裕はない。
逃げなきゃ!
すぐ後ろにいる、わけの分からないやつらから!!
捕まったら……、あたし達、どーなるの?
「ねえ、リリス! リリス!」
息を弾ませながら、タックが叫んだ。
状況が飲み込めていないのか、その声はどこか楽しげですらある。
「すごい、あれ!! あれって何!? 僕、あんなの初めて見た!!」
「黙って走りな!」
振り返りもせず、リリスは怒鳴った。
「お化け!? お化けなの、あいつら!?」
「知らないってば!! 走れと言ったら走るの!!」
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……ッ!!
二人を追いかけて来るのは、胸が悪くなるような下卑た笑い声。
人間の頭を持つ狼のような姿をした、怪物どもだ。
じょ、冗談じゃないよ……!!
見えない手に胃がきりきり締め上げられるのを感じながら、リリスは思った。
どうして、あたし達がこんな目に遭うの!?
と、
「わっ……!?」
小さく叫び声をあげながら、前のめりに倒れるタック。
小石にでも蹴躓いたらしい。
「いってぇ~……」
「もう!! タック、しっかりしなよ!!」
泣き笑いのような顔を浮かべ、リリスはタックを抱き起こす。
そのまま走り出そうとするが、幼い子どもとは言え、非力な少女にとっては、軽い荷物ではなかった。
四苦八苦していると、夜空を覆う雲間を裂いて、月光が差し込んできた。
その明りに周囲の様子が、ゆっくりと鮮明になってゆく。
くっ、とリリスは薄い唇を噛みしめていた。
いつの間にか、周囲を怪物どもに取り囲まれていることに気が付いて。
その数も、一匹や二匹ではない。
「子どもだなぁ、旨そう……」
「二人もいるぅ。どっちも、いい匂いィ」
「俺、女の子の目と耳を食う」
「じゃあ、俺は頬っぺたと喉の肉がいい」
「俺は男の子だ。アソコを丸かじりしてぇ」
人の顔を持つ狼達は、くぐもった声でヒソヒソ囁き合っていた。
こいつら、あたし達を群れに追い込んだんだ。
と、腕に抱えていたタックがカクッと首を傾げた。そして、そのまま動かなくなる。どうやら、気を失ったらしい。
そんな彼を心底、うらやましいと思いつつ、リリスはスカートのポケットに片手をしのばせる。
手に触れたのは、投擲用のナイフの柄。
今、リリス達を守ってくれる唯一の武器は、このか細い刃物一本だけだった。
「あ、あたし達に近寄らないでッ!!」
少しでも自分を大きく見せようと――、そのナイフを振りかざし、リリスは叫ぶ。
心臓がバクバク音を立てているのを感じながら。
「あんた達なんかに食べられてたまるもんか!! あっちに行って!! さもないと――」
リリスの言葉が終らぬうちに、トトッと軽やかな足音を立てて、怪物が一匹、走り寄ってくる。
ガチガチと打ち鳴らされる、トラバサミのような牙。
た、戦わなきゃ。
さもなくば、逃げなきゃ。
しかし、リリスにはそのどちらも出来そうになかった。
眼前に迫り来る、『死』にリリスは、ただ、震え上がっていた。
と――、
「……ッ!?」
リリスの耳元を掠め、その真横に躍り出たのは漆黒の突風。
片手に握りしめた銀のステッキを、今にも飛びかからんと身を屈めていた獣の背中に深々と突き立てる。
毒々しい、真紅の花が闇の森に咲いた。
「誰かと思えば――、あの時、酒場にいた娘か」
ぐいッ、とステッキを捻じり込みながら、硬直したリリスを振り返ったのは、鴉を模した仮面だった。
「一体、こんなところで何をしている?」 淡々とした仮面の男の問いかけにリリスは、リリスは身をすくませてしまう。
その瞳が一瞬、地獄の炎のような、暗い輝きを帯びたような気がして。
と、仮面の男の背後から新たな怪物が二匹、飛び掛かってくるのが見えた。
「危ないッ……!!」
リリスが声をあげるよりも、仮面の男の反応は早かった。
仕留めたばかりの怪物の背中から銀のステッキを抜き放ち、電光石火の速さでそいつを振り払う。
ブゥンと風を切り、鞭のように大きくしなるステッキ。
その一撃が怪物どもの頭をほぼ同時に打ち砕き、ゲアッ、と醜い断末魔を迸らせる。
「あ、あんたって一体……?」
「私はヴァロフェス。そう、名乗ったはずだ」
言い捨てるのと同時、仮面の男――、ヴァロフェスはステッキを構え直す。
そして、群がる怪物の群れを目がけ、黒い竜巻のように襲い掛かってゆく。
そこから先は、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
ヴァロフェスが振う銀のステッキは、血に飢えた牙のように、怪物どもを容赦なく打ちすえ、切断し、刺し貫いていた。
そのたびに血反吐が撒き散らされ、骨と肉片が宙に舞った。
人の顔を持つ狼達も、そのおぞましい牙や爪を突き立てんと盛んに飛び掛かるのだが、仮面の男はまるで幽霊のようにひらり、ひらりとそれをかわし、改めて蜂の一撃をやつらに見舞う。
「逃げ、なきゃ……」
気を失ったままのタックを背中に担ぎ、リリスは呻いていた。
これ以上、ここにいたくない。
いや、いてはいけない。
今、あたしが見ているのは、この世の光景じゃない……。
異形の者同士の殺し合いから目を反らし、リリスはヨロヨロと歩き始めた。
しかし、
「あっ……」
カクン、と膝から力が抜けた。
タックを背にしたまま、前のめりに崩れ落ちそうになる。
と、
「慌てるな」
ふわっ、とその身体を抱きとめられ――、リリスは目をパチクリさせる。
その顔を覗き込んだのは仮面の男、ヴァロフェス。
「もう、逃げる必要はない」
「…………」
仮面の下に見える、形のよい唇が穏やかに言葉を紡ぐのをボンヤリと眺め――、ボッとリリスは顔を赤らめてしまう。
初めてだった。
ジョパンニやアブン以外の男にこんな間近で接されるのは。
「あ、あんた、一体、何者なの?」
「お前のような普通の娘とは、何の関係もない世界の住人だ」
短く言って、仮面の男は、リリスをタックもろとも――、しかし、絹をあつかうように丁寧に抱き上げていた。
ふと、リリスは東の空が朝陽に白々と染まり始めたことに気がつく。
それは一晩中、待ち焦がれた光だった。
その途端、緊張の糸が切れた。
どっ、と疲労感が溢れ、猛烈な睡魔が襲いかかってくのを感じた。
「あたし、まだ、生きてるんだ……」
夢見心地で呟いたリリスの言葉に、ヴァロフェスがふっと微笑む。
それは酷く寂しげな微笑みだった。
「お前の悪夢は、もう、終わったのだ」
思いのほか優しい声に導かれ、重くなったリリスの瞼は、ゆっくりと閉ざされてゆく。
「ゆっくり、おやすみ……」