一座は、二台の馬車を森からゆったりと流れ落ちる川辺に止めた。
その川の上には、石造りの大きな橋が架けられていた。随分と昔に作られた物であるらしく、踊る妖精の彫刻が施された欄干は苔むしている。
橋を渡った向こう岸には、黄緑に彩られた緩やかな丘陵地帯が広がっており、その上に人家らしき家屋が点々と佇んでいた。
風が運ぶ瑞々しい草の香りに混じってパンを焼く匂いや家畜の匂い――、生活の香りが漂っていた。
手早く着替えを済ませ、リリスは馬車から飛び降りた。
「なんっつう、ド田舎だ……」
顔をしかめながらアブンがボソッとつぶやくのが聞こえた。
「人も少なさそうだし。おやっさん、本当にこんな村で興業、打つんスか?」
「もちろんだとも」
高帽子を目深にかぶり、うなずくジョパンニ。
「こういう娯楽のない村こそ、我々、芸人が必要とされるんだ。それに、今はどこでも春祭りの季節だ。……きっと、ここの人達も歓迎してくれるさ」
「まあ、酒場さえありゃ文句ないですけどね」
溜め息をつくアブンの肩をポンと叩き、ジョパンニは使い古した手回しオルガンを胸に抱える。
「みんな、疲れているだろうが――、元気よく頼むぞ」
少々、調子の外れた陽気なオルガンの音が丘の上に響き渡る。
一座は村に続く坂道を、ジョパンニを先頭に、飴菓子を積んだ荷車を引いたグレコーとザブ、リリス、そしてアブンと列をなして進んでゆく。
「お初にお目にかかります、皆様。ジョパンニ一座がやって参りましたーっ」
手にしたチラシを宙に撒き散らし、家々に向かって呼びかけるリリス。
何か、変だな……。
ニコニコ微笑みながらも、ふと感じた違和感にリリスは内心、首を傾げる。
そろそろ、旅芸人一座の到来に気がついた子ども達が家から飛び出して来てもいい頃だ。
そんな子ども達につられ、大人達も苦笑いを浮かべながら出てくる。
これまで訪れたどんな村や街でも、そんな感じだった。
しかし――、
「おい、リリス」
すぐ後ろからアブンが小声で言った。
「どうなってんだよ? 誰も出て来ねーぞ?」
「一座の芸人達は、みんな、恥ずかしがり屋で照れ屋さんばかりです」
それには答えず、リリスはさらに大きな声を張り上げていた。
「だけど、皆様の笑顔のためならば、たとえ火の中、水の中――」
口上を続けながら、ふと、リリスは近くの民家に目を向けた。
羊の囲いの中で飼い葉桶を抱えながら、ボーッとした表情を浮かべている男の子と目があった。
「かわいい、おぼっちゃま。初めまして」
トトッと足音を鳴らし、リリスは男の子に駆け寄っていた。
ニッコリと微笑みかけながら、柵越しにチラシを手渡そうとする。
「私、ナイフ使いのリリスと申します。どうぞ、お見知りおき下さいな」
「トーマスッ!!」
金切り声を張り上げながら、納屋から飛び出して来たのは男の子の母親と思しき、中年の女だった。
「こんな連中とお喋りするんじゃないよッ!! 何かされたら、どうするんだい!?」
「でも、母ちゃん……」
「お黙りッ!!」
ポコッと男の子の頭に拳骨を落とす女。
それから息子の手を取り、引きずるようにして家の中に入ってしまう。
「…………」
リリスは唖然とし――、しばらくの間、口をポカンと開いていた。
もう、十年近くもの間、ジョパンニ一座の芸人として、あちこちを旅しているが、こんな扱いは初めてだった。
「い、一体、何だって言うの?」
ピシャリと閉ざされた家のドアを見つめながら、リリスは口を尖らせる。
傷ついたような口調になってしまうのを禁じ得なかった。
「人を化け物みたいに――、酷いよ」
「まあ、こういうこともあるさ」
オルガンの演奏を止め、ジョパンニが肩をすくめて見せる。
「みんながみんな、お祭りを楽しめる訳じゃないからな。あんまり気にするな、リリス」
「うん……」
「親はともかく――、子どものほうは芸をはじめれば見に来てくれるさ」
しかし、ジョパンニの楽観的な予想は外れた。
村の中央、――井戸のある広場にたどり着いても、観客になってくれそうな村人は誰一人として現れなかった。
「やっぱり、この村おかしいな」
「確かに」
太い腕を組みながら首を傾げるグレコーにザブが頷く。
「誰も姿を見せないというか――、引き籠っているというか……」
「ビビってやがるンだよ」
舌打ちし、苛立たしげにアブンが言った。
「お前ら二人、顔もガラも悪すぎだ」
「何だと!! アブン、人のことが言える面だと思ってんのか!?」
「やかましいんだよ、この肉達磨が!!」
早速、小突き合いの喧嘩を始めた二人に白い目を送りながら、リリスはジョパンニに尋ねていた。
「おやっさん、これからどうするの? もう一度、村を回ってみる?」
「う、うーむ」
さすがに困った表情を浮かべ、顎に手を当てて考え込むジョパンニ。
と――、
「おい、いたぞッ……!!」
突然、警戒を孕んだ低い怒声が聞こえた。
ドキッとしてリリスが振り返ると、広場の入り口に大勢の村人がつめかけていた。
その数は三十人ほど。全員、男だ。
その手には鍬や鎌、鋤などが握りしめられており、しかも、異様な殺気に眼をギラギラさせている。
「な、何? この人達……」
その眼差しに射ぬかれ、リリスは後退りしていた。
ジョパンニ達、一座の男達も何事かと目を白黒させている。
と、
「あっ、お前だなッ!!」
村人の一人がリリスの顔を指差し、声を荒らげた。
「この悪魔ッ!! よくも俺の息子をかどわかそうとしやがったなッ!!」
「あ、あたしが……、何?」
「ちょっと待ちなさい。リリス」
男の剣幕にたじろぐリリスを庇うようにして、ジョパンニが前に進み出る。
人の良さそうな笑顔を作りながら言った。
「みなさん、何か誤解があるようですな。我々は、ただの旅芸人でして、この子はうちの看板娘でして……」
「おい、動くんじゃねえ!!」
その顔に突き付けられる、鍬の切っ先。
「呪いをかけようたって、そうはいかねぇからな!!」
「の、呪い? 一体、何のお話です?」
目を丸くするジョパンニには構わず、ジリジリと一座との間合いをつめて来る村人達。
「こいつら、やっぱり占い師――、あのババァの使い魔か」
「ああ、間違いねえ。森の方から来たんだ」
「小娘のスカートめくって調べてみろ。正体が小鬼なら、尻尾が生えているはずだ」
し、尻尾!?
「いい加減にしなよ」
あまりの言い草にリリスは、顔を真っ赤に染めていた。
「黙って聞いてりゃ、なんなのさ!? さっきから訳の分かんないことばっかり」
言ってくれちゃって、と鼻息を荒らげかけた時だった。
「きゃっ……!!」
ゴツンッと鈍い音がして、額に衝撃。
悲鳴を上げる間もなかった。
思わず当てた掌にヌルッとした感触がこびりついた。
誰かに石を投げつけられたらしい。
「リ、リリス!!」
まるで自分が怪我をしたかのように、アブンが悲痛な声をあげる。
「お前、血が出てるじゃねえか!! 大丈夫かよ!?」
大丈夫、とリリスは答えたかった。
しかし、口から漏れ出たのは苦痛のうめき声だけだった。
「……上等だ、てめぇら」
猛獣のような唸り声を発しながら、アブンは村人達を睥睨する。
その片手には、槍がしっかりと握りしめられている。
「こうなったからにゃ腕の一本や二本は覚悟しろよ?」
「手伝うぜ、アブン」
ボキボキと拳を鳴らしながら、その隣に立ったのはグレコーだった。
「大切な妹分を傷つけられたんだ。黙っていられるかよ」
「ま、しょーがないデスね」
渋々と言った表情でザブも身構える。
「こ、こいつら!! とうとう、本性を現しやがったな!!」
怯んだ様子を見せながらも、村人達は避けようとしなかった。
「かまわねぇ!! このままふん縛って、どこかの木に吊るしちまえ!!」
「馬鹿、その前に拷問だ!! 子ども達の隠し場所をはかせるんだよ!!」
「そうだ!! うちの娘を返せ!!」
ま、まずいよ……!!
傷口を押さえたまま、リリスは思った。
ジョパンニが間に入って止めようとしているが、アブン達も村人達も、すっかり冷静さを失ってしまっている。
このままじゃ、死人が出ちゃうかも知れない……。
と、その時だった。
「――おやめなさい!!」
女性の声が広場に響いた。
凛として、威厳すら感じさせるその声に人々の動きがピタ、と止まる。
見ると、いつの間にか広場には、黒い馬車が止まっていた。
馬車と言っても、一座が所有する粗末な幌馬車ではない。貴族が乗るような、豪華な黒塗りの二頭立てだ。
恭しい態度の御者が開いた扉から、声の主と思しき女性が姿を現す。
年の頃は三十代半ばと言ったところか。
飛びぬけて美しい顔立ちの持ち主ではなかったが、今、リリス達を取り囲んでいる村人達には全く感じられない、気品のようなものが感じられた。
ほっそりとした身体を包むのは、清楚な、落ち着いた雰囲気の白いドレス。
その胸元には、高価そうな宝石がブローチとして縫い止められていた。
「……これは一体、何の騒ぎですか?」
村人達を振り仰ぎながら、女性は静かな声で言った。
「こんな大勢で人様を取り囲むなんて。穏やかな話ではありませんよ?」
「い、いえ、奥様。これには理由がありまして」
悪さを見咎められた子どものように恐縮する村人達。
「こいつら無断で村に入り込んで来やがったもんで。それで、つい……」
奥様、と呼ばれた女性は、ジッとその村人を見つめていた。
その眼差しは責めるようなものではなく――、酷く哀しげだった。
「す、すいません。こんな騒ぎを起こすつもりじゃ……」
「あなた方の不安や苛立ちは、痛いほどよく分かります」
小さく溜め息をつき、しどろもどろになった村人に女性は言葉を続ける。
「だけど――、だからと言って、確たる証左もなく、人様を悪人呼ばわりしてはいけません。傷つけるようなことも、勿論」
物静かだが、グゥの音もでないほど正論な女性の言葉に、村の男達は、ペコペコ頭を下げながら、蜘蛛の子を散らすかのように広場から去っていった。
「何なんだ、あいつら」
ペッと唾を吐き、アブンが毒づく。
「コロッと態度を変えやがって。その癖、俺達には一言の詫びもなしかよ」
「……申し訳ありません。旅の方々」
と女性が小さく頭を下げる。
「今、この村には恐ろしいことが起きておりまして……。それでみんな、殺気立っているのです。どうか、平にご容赦を」
「あんた、誰だよ?」
ジロッと女性を横目で睨みつけるアブン。
「ひょっとして村長さん? だったら、もう少し村のやつらを躾けてくれねぇと」
お前は黙っていろ、とばかりにその口を塞ぐグレコーとザブ。
ふと、リリスに向き直った女性が目を丸くした。
「あなた……、怪我をしているの?」
「えっ?」
スッと近づいてくる女性にリリスはたじろぐ。
「診せてごらんなさい」
「え、いいよ。こんなの、放っておけば治るもん……」
「いいえ、いけないわ。きちんと手当をしなければ。傷跡が残ったりしたら、大変よ?」
慌てて手を振るリリスを優しくたしなめ、女性は一枚の綺麗なハンカチを取り出す。
香水を染み込ませているのか、そのハンカチからはとてもいい香りが漂っていた。
「…………」
何だかボンヤリとした気分になりながら、リリスは傷口を拭いてくれる女性の顔を間近に見つめていた。
そう言えば――、とリリスは思った。
あたしが怪我をした時、母ちゃんもこんなふうに手当てをしてくれたっけ……。
ふっ、と女性がリリスに微笑みかける。
眩しいほど優しいその微笑みにリリスは気恥ずかしくなり、頬を赤らめて顔を伏せていた。
「もし、よろしければ――」
ジョパンニ達を振り返り、女性が言った。
「このまま、私の館にお出で願いませんか? こちらのお嬢さんの傷によく効く、薬草があるのです」