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第四話 エスメリア・ルー

「私は一体、何をしたんだ……?」

 轟音を響かせながら、腐った膿のような輝きを放つ空。

 硫黄の臭いをふくんだ生暖かい風。

 炎に包まれて燃え上がる街並み。

 崩れ落ち、瓦礫をまきちらかした塔。

 広場の赤い石畳の上に、累々と横たわる人々の屍。

男も、女も、そして子供も、皆一様に顔を恐怖で凍りつかせたまま絶命していた。

 一匹の蛆が、兵士と思しき男の額をゆっくりと這っている。 「これは一体……。私は一体、何をしたんだ?」

 眼前に広がる凄惨な光景を凝視しながら、少年は同じ言葉を繰り返す。

 しかし、少年の記憶は混乱の極みにあった。

 まず、覚えていることと言えば、少年と彼の母親を罵倒する、民衆の叫び。

 父殺し、そして国王殺しの二重の大罪を母に言い渡す、剣のように鋭い裁判官の宣告。

 そして――、火刑に処された母の身も凍るような断末魔。

「そ、それから、それから私は……」

 おぞましい記憶が鮮明な映像となり、激しい吐き気を少年に催わせる。

 頭を抱え、少年はその場にしゃがみこんでいた。

 そこらじゅうに横たわる、死者の、魂の宿らない瞳が、次々に少年を射抜いていた。

 よくも、殺したな。

 よくも、奪ったな。

 命を。

 幸せを。

 光を。

 よくも、よくも、よくもよくもよくも、よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも!!

「――――ッ!!」

 返す言葉一つなく、少年は固く耳を塞ぎ続けた。

 死霊の如く恨み辛みを吐きつける声は、やがて、狂った嘲笑へと変わってゆき、渦巻き、やがて霧散していった。

「お、王子様……?」

 か細く、かすれた声が少年の背後から聞こえた。

「そ、そ、そこに、い、いらっしゃる、のですか?」

「イルマッ……!?」

 少年は振り返り――、山と積まれた瓦礫の下から、白くか細い腕が突き出ていることに気がつく。

「い、今、助けるッ!!」

 血を吐くような勢いで少年は叫び、瓦礫の山をかき分け始める。

 すぐにも、爪が割れ、指先からは血がおびただしく零れ落ちたが、少年には痛みを感じる余裕もなかった。

 やがて――

「…………ッ!!」

 自らが掘り出した、少女の変わり果てた姿に少年は息を飲んでしまう。

 うっすらとソバカスが浮かぶ、可愛らしい頬からは血の気がすっかりと失われ、周囲の死者と同じく蒼白だった。

春の青空のように、生き生きとした輝きを放っていた瞳は、血の色に濁り、ほっそりとした少女の足は無残に押しつぶされ、醜い肉の塊と化していた。

「許しておくれ、イルマ」

 がくん、とその場に膝をつき、絞り出すような声で少年は呻く。

 自分の人生にはもっとも不要だと思っていたもの――、涙が後から後へと溢れ出て、止まらなかった。

「私はお前の助言を聞き入れるべきだった。私の愚かで浅はかな行いが、母を死に追いやり、お前までこんな……」

 悔恨の言葉を呟き続けながら、少年は己の心の奥底に絶望が沼のように広がってゆくのを感じていた。

 その沼は、少年の魂を引きずり込み、決して逃すことはないだろう。

 未来永劫に渡って。

 と、

「……よかった」

 少年がイルマと呼んだ少女の唇から弱々しい声が紡ぎだされる。

 はっとして少年は、少女の、イルマの顔を見つめ直す。

 そこに信じられないものがあった。

 少女は全身に致命傷を負い、血まみれになりながらも、静かな微笑みを湛えていた。

 それは酷く弱々しく、消え入りそうなほど儚いものだったが――、確かに少女は微笑んでいた。

「本当によかった……」

 もう一度、イルマは同じ言葉を繰り返す。

 もはや何も映らない瞳で少年の顔を真っすぐに捉え、ゆっくりと片手を差し伸べて来る。

「…………ッ!!」

 震える指先が少年の頬に優しく触れた。

 この手だけだった。

 この手だけが、私に触れてくれた。

 呪われ、忌み嫌われ、闇に押し込められ続けた怪物に触れてくれたのは。

 嗚咽の声を漏らしながら、少年はズタズタの血袋のようになった少女の手を握り締める。

 そこから急速に体温が失われてゆくのを感じながら。

「やっと、いつもの王子様に戻ってくれましたね……」

 ふふっ、と哀しげに笑うイルマ。

「お、王子様が、あのまま、ど、どこかに飛び去ってしまうんじゃないかって、あ、あたし、不安で不安で……」

 そこまで言って、イルマは深い溜め息をついた。

 そして、そのまま、動かなくなる。

「イ、ル、マ……」

 もう一度、少年は少女の名を呼び掛けていた。

しかし――、答えはない。

「ああああああああああああああああああああああああああああああっ……!!」

 少年は絶叫する。

 少女の亡骸を抱きかかえたまま、どす黒く染まり始めた天空に向かって。

 絶叫し続けた。

 そうすることで、己の魂が粉々に砕け散ることを望んで。

「――素晴らしい」

すぐ後ろから、男とも女ともつかない穏やかな声が聞こえた。

 ギリッ……。

 歯を食いしばりながら、少年は振り返っていた。

「流石は、あの御方の力を受け継がれた御子。感服いたしました」

 死臭立ち込める瓦礫の山の上に、その人物はいた。

 真珠のような柔らかい光沢を放つ、長い白衣を頭からすっぽりと被った男が。

 いや、男か女か、それは定かではない。

 何しろ、少年は何一つ知らなかった。

 赤子の頃から傍にいる、この宮廷魔術師の素顔さえも。

「しかし――、また、人の姿に戻られるとは、少々、お戯れが過ぎますな」

「マクバ……」

 絞り出すような声で、少年は魔術師の名を口にする。

 それは少年にとって、この世界の全てとでも言うべき存在だった。

 城の地下に閉じ込められ、誰一人寄りつかなかった少年のもとを訪れ、読み書きを教え、武術を仕込んでくれた人物。

 少年の世話係としてイルマを寄こしたのも、この魔術師だ。

 しかし――

「マクバ。あなたに聞きたいことがある」

 少女の遺体をそっと横たえ、少年は唸るような声で尋ねた。

「どうぞ、王子。何なりと、お答え申し上げましょう」

「あなたは私を騙していたのか? あなたを生涯唯一の友と信じていた、この私を破滅させたのか?」

「おお、それは心外な」

 頭巾に顔を隠したまま、白衣の魔術師は、マクバはククッと声を押し殺し、嗤う。

「私は今も昔も――、この世界が死に絶えるその日まであなた様の友人にして、もっとも忠実な下僕ですとも」

「ふざけるなッ!! この呪われた噓つきめッ!!」

 少年は鋭く叫び、地面に突き立っていた一振りの剣を攫み取る。

「貴様は、貴様だけは絶対に許さぬッ!! そこから降りて……、私と戦え!!」

「申し訳ありませぬがお断りします、王子」

 やれやれ、とでも言うかのように溜め息をつくマクバ。

 そのたおやかな手が、さっと頭上にかかげられる。

「最早、この国に用はありませぬ。不完全とは言え、あなた様という存在が生み出された今となってはね」

 その言葉と同時――、魔術師の足元を青白い炎の輪が取り囲む。

 炎の輪は、白衣を焼くことも焦がすこともなく、魔術師の頭に向かって、スルスルと昇ってゆく。そして、爪先から消滅してゆく魔術師の身体。

 魔法だ、と少年は悟った。

 白衣の魔術師は、望む時、望む場所に瞬時に移動できると聞いたことがあった。

「ま、待て、マクバ!! 逃げる気か、卑怯者ッ!!」

「いいえ、王子」

すでに胸元まで消えかかった白衣の魔術師が楽しげに答える。

「再び世界をさすらう時が来たのです。あなた様のお父上、我が主の命じるままに」

「父、だと?」

 歯軋りしながら、少年は瓦礫の山を登り始めた。

 せめて一太刀、今日と言う破滅の日を仕組んだ怨敵に浴びせてやろうと考えて。

「血迷ったか、魔術師!! 私には父親などいない!!」

「いいえ。いらっしゃいます」

きっぱりとマクバが断言した。

「我が主は、常にあなた様の傍にいらっしゃいます。人の世は不純で満ちている故、その御姿を目にすることは叶いませぬが――、そこかしこに我が主は存在します。王子、あなた様も本当はご理解なさっているのでは?」

「だ、黙れっ!!」

 哀れむように首を傾げるマクバに向かって、ヴァロフェスは走った。

 そして、青い炎の輪に消えてゆく、白衣の魔術師の頭を断ち割らんと、気合いの声をあげながら剣を勢いよく振り下ろす。

 しかし、次の瞬間――、

「ぐっ……!?」

 不可視の力に弾き飛ばされ、少年の身体は石畳の上に激しく叩きつけられていた。

「……悔しいのならば私を追いかけてみることですな。今のあなた様に、この私を捕まえることなど到底、不可能ではありますが」

 地面で苦悶の呻きをあげながら、少年は勝ち誇ったような白衣の魔術師の声を聞く。

 あの悪魔め、笑いたければ笑うがいい。

 今のうち、好きなだけ。

 奥歯を噛みしめ、少年は死せる少女に誓う。

 何年、いや、何十年かかろうと――、必ず、復讐を果たす。


「…………」

 薄闇の中、木の枝の上でヴァロフェスは目を覚ました。

彼の動きに驚いたのか、近くで眠っていた小鳥達が騒がしく飛び立つ。

「よお、お目覚めかい? ……もう、朝だぜ」

 頭上の木の枝から、底意地の悪そうな声が聞こえた。

「結局、俺一人で見張ってやったんだ。感謝しろよな」

 ヴァロフェスが顔をあげると、そこには一体の木偶人形が、木の枝に、背中を引っかけられて吊るされていた。

「なあ、ヴァロフェス。一つ聞かせろよ」

 人形は吊るされたまま、両目をクルクルと回す。

「イルマって誰のことよ? ……昔の女か?」

 けけけっ、と下卑た声で笑い立てる。

 それを無視して、ヴァロフェスは胸元に手を当てた。

 しかし――、

「…………?」

 指先が空しく宙を掻いた。

 ……ない。

 この十年間、肌身放さず持ち歩いていたものがそこにはなかった。

 ヴァロフェスは微かに口元を歪ませていた。

 その眼下では、ゆっくり夜が明けてゆく村の姿があった。

 宝石のように鮮やかな緑の丘陵地帯に朝日が差し込んでいる。

 農家からは鶏の鳴き声が聞こえ、羊の群れが放牧されるのが見える。

 起床したばかりの住人達の息遣いや話し声が、風に乗って、微かに聞こえてくる。

「なぁ、本当にこの村にいるのかよ? ……アレがさ」

 枝に吊るされたまま、木偶人形――、オルタンが言った。

「俺様にゃ、どこにでもある、フツーの村にしか見えねえけどな」

「いや、間違いない」

 村を凝視したまま、ヴァロフェスは言った。

「村全体に死臭が漂っている。――《叫ぶ者》特有の腐臭がな」

「ふーん。臭い、ねぇ……」

 穴のない鼻をヒクヒクさせ、オルタン。

「ま、どのみち俺には関係ないけどな。死なない程度に頑張ってくれや、兄弟」

「無用な心配だ」

 ふっ、とヴァロフェスの口元に浮かんだのは自嘲の微笑み。

「やつらと同じく――、私もまた、すでに死人だからな」



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