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 百年ほど昔、大きな戦に敗れた貴族が、数多の家臣らとともにこの森に逃げ込んだらしい。つまり、村人達は、その末裔というわけだ。

 その長たるルー家の屋敷は、元貴族のものとしては、さほど大きい物ではなかった。

 しかし、木造建築の美しいその建物には、至る所に細かな彫刻が施され、ただ、派手なだけの成金趣味にはない、落ち着きのようなものがあった。

「…………」

 落ち着きなく、リリスは視線を左右に動かし続ける。

 通されたのは、やはり、派手ではないが、手の込んだ調度品の数々が置かれた客間。

 家人に勧められるまま、腰かけた柔らかな肌触りの椅子は、普段、固い床や地面の上で寝転がっている旅芸人の娘には、少々、居心地が悪いものだった。

 ううっ、早く帰りたい。

 こんな家、あたしには場違いだよ……。

 内心、リリスが弱音を吐きかけた時だった。

「――ごめんなさいね。わざわざ、来てもらって」

 物音一つ立てず、客間に入って来たのは穏やかな面持ちを浮かべた、一人の淑女。

 この屋敷の女主人――、ルー夫人だ。

「あ、あの、奥様……!!」

 思わずリリスは立ち上がっていた。

「あたしは、その、ジョパンニ一座の」

「リリスさん、でしょう? 覚えていますよ、勿論」

 女性の優しい口調に、何だかこそばゆくなって、リリスは俯いていた。

 そんなリリスの様子にクスッと小さな笑みを漏らし――、

「失礼なことをしてごめんなさいね」

 そう言って、ルー夫人は表情を曇らせる。

「へっ? 失礼?」

「あなた達は善意で子ども達を探す手伝いをしてくださっているのに、私ったらあなた達の誇りを傷つけるようなことをしてしまって」

「い、いや!! 誇りとか、そんな大げさな話じゃないよ!! ……ないです」

 言い直し、冷や汗をかきながらリリスは再び、椅子に腰を下ろす。

 この人の前では、乱暴な言葉遣いをするべきではない。

誰に命じられたわけでもなく、リリスはそう思った。

「あたし達って、人様に芸を見て頂いてナンボじゃん、いえ、ナンボじゃないですか? だから、何にもしないうちにお金を頂くっていうのは仁義に反するって言うか……」

 例え、芸への報酬だったとしても、さっきのは貰い過ぎだけど。

 正直なところ、リリスにはその使い道が全く浮かばなかった。

アブンなど、死んでも気づかない程、酒をがぶ飲みするに決まっていた。

 基本、日銭しか持たない旅芸人にとって、あんな大金は手に余るのだ。

「やっぱり、奥様や村の人達には、あたし達の芸、ちゃんと見て欲しいし……」

「よかった」

 ほっと安堵の吐息を漏らすルー夫人。

 その柔らかな手が、膝の上で固くなっている、リリスの小さな手に触れる。

「実を言うと――、少し、怖かったの。あなたに嫌われてしまったんじゃないかって」

「え、あたしが奥様を嫌う?」

 思いがけない言葉にリリスは目を丸くしてしまう。

「そんな訳ないよ。……ありません。だって、奥様が助けてくれなきゃ、あたし達、この村から追い出されていたかも知れないし。それに、これ」

 そう言って、リリスは懐から一枚のハンカチを取り出す。

 それは先日、ルー夫人が止血のため、リリスの傷口に当ててくれたハンカチだった。

「これ、お返ししますね。……何とか、汚れは落とせたから」

「あら、それは差し上げたつもりだったのよ?」

「ううん。こんな綺麗なハンカチ、あたしになんか、似合わないもん」

あっ、とリリスは思わず声をあげていた。

 たった今、自分が致命的なミスを犯したことに気がついて。

「ごめんなさい、奥様。あたし、バカだ」

「え? 何? どうしたの?」

「このハンカチ――、いい匂いをしていたのに、あたし、水で洗っちゃった……」

「あら、そんなこと」

 ガックリと俯くリリスを見て、今度はルー夫人が目を丸くする。

「また、香水を拭きかければいいんだから。気にしないで?」

「でも……」

 リリスが顔を挙げた時、ルー夫人の瞳が潤んだ。

 透明な涙が一筋、白い頬を伝って落ちる。

「えっ、えっ……? どうしちゃったの?」

 突然のことにリリスは動揺してしまう。

 何かに耐えかねるような表情を浮かべた後、両手でその顔を覆うルー夫人。

 か細いその肩が小刻みに触れ、小さく漏れ聞こえて来たのは――、嗚咽だった。

「お、奥様……?」

「ごめんなさいね」

 うろたえるリリスにルー夫人が小さく首を振る。

 彼女は何とか泣きやもうと努力しているのだが、全く、上手くいっていなかった。

「あなたを見ていると、娘のことを思い出してしまって、つい……」

 ふと、リリスは暖炉の上に飾られた、大きな肖像画に気がつく。

 それは家族の肖像だ。

 幸せそうな微笑みを浮かべている女性は、ルー夫人その人。

 隣に立つのは、彼女の夫であろう、如何にも温和そうな品の良い男性。

 そして、二人の間に挟まれるようにして、はにかんだ微笑みを浮かべているのは、ルー夫人によく似た顔立ちの女の子だった。

 胸に温かなものが込み上げると同時――、リリスは一抹の嫉妬を覚えていた。

 この世知辛い世の中、こんなふうに笑える子どもは少ない。

 それは優しい両親に守られ、何不自由ない生活を送っている子どもだけが浮かべることのできる笑顔だった。

「私のソフィアも、生きていればあなたと同じ年頃だったの……」

「え?」

 驚き、リリスは視線をルー夫人に戻す。

「娘は夫と一緒に池で舟遊びをしていて――、船が転覆してしまったの」

 ルー夫人の顔には、深い苦悩と悲痛の色。

 息を吐き出すようにして、一言一言、言葉を続ける。

「私には、何もできなかった。あの子は、ソフィアは私に何度も、何度も、助けを求めていたのに……」

 リリスは言葉を失っていた。

 不幸とは、彼女にとって縁を切りたくとも切れない鬱陶しい知り合いのようなもので、ただ黙って受け入れるしかない事柄の一つだった。

 しかし、そう言ったことから全く無縁でいられる人達もいる、と考えてきた。

 例えば、それは目の前にいる、ルー夫人のような身分の違う人々だ。

 生まれつき幸せであることが当然の人々……。

 しかし、その幸せは永遠に失われた。

 ルー夫人の夫もまた、溺れたせいで肺炎となり、この世を去ってしまった。

 娘を失った妻をたった一人、この屋敷に残して。

「見苦しい姿を、ごめんなさいね」

 すすり泣きながら、また、ルー夫人が言った。

「子ども達がいなくなって、私と同じ想いをしている村人達のことを思うと夜も眠れなくて……」

「だ、大丈夫!! 大丈夫だよ、奥様……!!」

 リリスは思わず、ルー夫人の手を取っていた。

「ああ見えて、うちの芸人達は、かなりの修羅場を潜って来たキレモノ揃いなの。アブン兄ィなんか、槍の達人だって、いつも豪語しているし。とにかく、村の子達のことはみんなに任せておけば大丈夫。……だから、奥様も元気出して?」

「そうね。そうだったわね」

 懸命に語りかけるリリス。

 白い指先で涙をぬぐいながら、ルー夫人は小さく頷く。

「私がこんな泣きごとを言っていては、あなたのお父様に失礼ね」

「おやっさんは――、あたしの父親じゃないよ」

苦笑し、リリスは言った。

「あの人は、路地裏で死にかけていたあたしを拾ってくれた恩人なの。……芸を仕込んでくれて、育ててくれているんだから、まあ、親みたいなもんかな」

「じゃあ、本当のご両親は?」

「親父は知らない。顔も見たことないもの。母ちゃんは、あたしがちっちゃい頃、病気になって仕事が貰えなくて――、食べるものがなくて死んじゃった」

 言葉を切り、リリスは笑って見せる。

 少々、引きつってはいたが、ちゃんとした笑顔だった。

「その辺りのことは、あんまり覚えてないんだけどね」

 と――、ルー夫人が立ち上がった。

 リリスのもとに静かに歩みより、彼女の小さな顔をそっと胸に抱きしめる。

「あっ、奥様……」

「私ったら自分の話ばかりして」

 声を震わせながら、リリスの髪を撫でるルー夫人。

「辛い思い出があるのは、あなただって同じなのに……」

 うん、とリリスは小さく頷いていた。

 そして寒さに震える小鳥のような、か細い女性の体を抱きしめ返す。

 胸にジンワリと温かいものが込み上げると同時、鼻の奥がツーンとして来て、リリスは唇を噛みしめねばならなかった。



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