「奥様っ!」
大きな声をあげながらリリスは、ルー夫人の寝室に飛び込む。
まずノックをするのが礼儀だが、今のリリスにそんな余裕はない。
「あら、リリスさん? それにお人形さんも……」
鏡台の前に腰をかけていたルー夫人が振り返り、驚いたように目を丸くする。
「どうしたの? そんな大きな声を出して」
「ど、どうしたのって……」
穏やかな、あまりにも穏やかな反応にリリスは戸惑う。
「狼が、化け物達がこのお屋敷の外にウヨウヨいるの!! だから、早く隠れなきゃ!!」
「そう。心配して迎えに来てくれたのね。……優しい子」
「お、奥様?」
そっと立ち上がったルー夫人にリリスは首を傾げてしまう。
何だか……、様子がおかしい。
「と、とにかく、あたし達と一緒に……」
行こうよ、とその手を取りかけ――、リリスは絶句していた。
レースがあしらわれたドレスの袖から、か細い、ルー夫人の手首が覗いていた。
その手首に、リリスは信じられないものを、いや、信じたくないものを見た。
「ど、どうして?」
全身から血の気が引くのを感じた。
目の前が真っ暗になってゆくような感覚にとらわれながら、リリスは手にした木偶人形を床に落としてしまう。
「どうして? どうして、奥様にそんな傷があるの? だって、それは……」
そこから先、リリスは言葉を続けられなくなる。
と、ルー夫人の袖がそっと捲くられ――、滑らかな白い肌の上に痛々しく焼きついた鎖の跡が露わになる。
「ダメね。私ったら」
「……え?」
「あそこまで痛めつけた相手に反撃されるなんて、夢にも思わなかったわ」
ふふっ、とルー夫人は悪戯がばれた幼い子どものように笑った。
「油断大敵というやつね」
バタンッ……!!
呆然とするリリスの後ろで開けっ放しだったドアが独りでに閉まった。
「お、おい!! 小娘ちゃん!!」
床に投げ出されたまま、オルタンが悲鳴のような声で言った。
「何だかよくわかんねーけど――、逃げたほうがいいんじゃねぇのか!?」
しかし、リリスは動かなかった。
いや、動けなかった。
まさか、そんな。奥様みたいな女の人が。
「お願い。どうか、そんなに怯えないで」
「あ……」
震えるリリスの身体を優しく包み込む柔らかな抱擁。
しかし、その手は氷のように冷たく――、とても生きた人間の体温とは思えなかった。
「奥様。あ、あたし……」
「ねぇ、リリスさん? 私と一緒にお客様をお出迎えして下さらない?」
「お客……、様?」
「そう。とても、とても大切なお客様なの」
リリスに頬をすりよせるルー夫人の顔に夢見るような表情が浮かぶ。
「私の娘を――、ソフィアを取り戻してくださる御方よ」
その瞳には、金色の光が宿っていた。
と――、部屋の隅でモゾリと何か動くものがあった。
サァーッと言う、衣擦れの音。
真珠のような光沢を放つ、白衣を揺らしながら、それはゆっくりと立ち上がった。
「ひっ……!?」
ルー夫人の腕の中で小さく悲鳴をあげ、身を強張らせるリリス。
あたし、知ってる……!!
狂気じみた想いがリリスの心を鷲掴みにする。
あたしは、こいつを知っている。
あたしは、こいつと言葉を交わしたことがある。
そうだ。
初めてこいつと出会ったのは、疫病で死んだ母ちゃんが、まるでゴミみたいに他の沢山の死体と一緒に焼かれた時だった。
泣くことしかできなくて、泣くことにも疲れ果てて、ボンヤリしていたあたしのすぐ傍にこいつはいた。
食べるものがなくて街の路地裏で死にかけた時も。
おやっさんに拾われてすぐ、酷い熱病に患わされた時も。
生まれて始めて乗った船が嵐に見舞われ、長時間、遭難した時も。
「嫌ッ!! 何なの、これッ……!!」
あり得ない記憶の断片にリリスは悲鳴をあげてしまう。
しかし、突然、この場に現れたはずの白衣の魔術師が常にリリスの傍に居続けたことは、紛れもない真実だった。
「やあ、リリス」
まるで親友に接するかのような親しげな口調で魔術師が言った。
「こんな風に直接、言葉を交わすのは久しぶりであるなぁ」