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第六章 君には、重すぎるんだよ

第22話 避けてるわけじゃ、ない

 鏡の前でまばたきをするたび、瞼の腫れが鈍く疼く。


 昨夜あふれた涙と同じ重さが、まだ目の奥に残っている気がした。


 春学期も半ば。ツツジが濃い朱を膨らませるキャンパスを、学生たちの笑い声が跳ね回る。けれど俺の靴裏は鉛のように重く、地面へ吸いこまれそうだった。


「叶翔っ! ど、どうしたの……? 目、パンパンじゃん」


 翌朝、キャンパス内で教室に向かう途中、早速芽衣に見つかった。新緑の薄緑色がキャンパスを明るく彩っている。鳥たちのさえずりが爽やかな朝の空気に混じり、春も半ばに差し掛かっていることを感じさせた。その風景とは裏腹に、俺の心の中は重たい霧に覆われたようにどんよりとしていた。


「ん……。ちょっとね……寝不足」


 朝起きた時には、目も開けられないほど腫れていたのを、冷やしてようやく目が開くようになったのだが、それでも腫れはひかなかった。目元が重たいのは、胸の中の重みと連動しているようだった。


 それは、陽翔に放った『無理』だという言葉。彼を突き放した俺の弱さだ。


 キャンパスを楽しそうに行き交う人たちを横目に、そっとため息をついた。


 ――俺は、陽翔さんにこれからどう接したらいいんだろう……。


 陽翔は俺のことを好きだと言ってくれた。俺も同じ気持ちだ。だけど――。


 過去のトラウマが何度も頭をもたげてくる。好きだった人に告白した時の、あの、嫌悪感に満ちた顔。「ゲイはキモい」と言われて名前を晒されたこと……。


 陽翔はそんな人ではないとは分かっている。彼の表情やしぐさ、眼差しを見れば本気であることも伝わってくる。


 でも……。


『やっぱり男と付き合うのは無理でした』


 そう言われるのが怖い。そう言われたら、またあの時みたいに心が壊れるんじゃないかと思うと胸が痛くなる。怖くて壊れたくなくて。自分の心が臆病で小さいということをあからさまに感じてしまう。


 大勢の学生が教室へと行き交う中、陽翔の姿が目に入った。桜の若葉が揺れるその先に、明るい金色の髪が春の光を受けて輝いていた。明るくて、いつも真っ直ぐで、見つけたらすぐわかる人。


 --……いた……。


 俺は思わず木の影に身を潜めて、陽翔が通り過ぎるのを息を潜めてじっと待っていた。目で彼を追いかけてしまっている自分がいる。だが、直接会う勇気が出ない。行動と気持ちがちぐはぐ過ぎて心が苦しい。


「何やってんのよ? なんで陽翔さん避けてんの? なんかあった?」


「……」


 ――避けてるんじゃない。ただ、会ってしまったら、あの時の顔を思い出して、心が壊れそうになるから……。


 必死に心の中で言い訳をしている自分がいた。決して俺は、逃げているんじゃないんだ……、と。でも本当は、逃げていることも分かっている。それが自分を責める気持ちに繋がっていた。


「何か困っていることがあったら、なんでも話してよ? あたし達、友達なんだから」


 芽衣が俺の肩をポンポンと優しく叩いた。その温かな手の感触が、少しだけ心を和らげる。


「……うん。今はちょっと言えないけど……。ありがとう」


 俺が目を伏せて礼を言うと、「授業に遅れるから、早く行くよっ!」とグイグイ手を引っ張りながらその場を離れた。


 芽衣は俺が話すまで深く追求することなく、その後も優しく見守ってくれていた。この気遣いも、俺をさらに罪悪感で苦しめた。


 授業が始まる前、スマートフォンが震えた。画面を見ると陽翔からのメッセージだった。


『今日のお弁当、頑張ったよ! 俺の好きなものいっぱい入れたけど、気に入ってもらえたらいいなー。お昼に会えるのを楽しみにしてるね。中庭で待ってるから』


 昨日、俺があんな態度をとってしまったのに、律儀に今日もお弁当を作ってくれていたようだ。画面の端にはニコニコとした顔文字も添えられていて、どこか明るさを取り戻した様子が伝わってくる。返信することなく、未読のまま画面を閉じると胸の奥がチクリと痛んだ。


 ――ご飯一緒に食べようって、あんなにうれしそうに言ってたのに……。


 しかも、俺は昨日、陽翔にひどいことを言った。無理って、俺の方が陽翔を傷つけてしまったはずなのに……。彼は何も言わずに、また笑顔で接してくれようとしている。その優しさが逆に胸を締め付けた。


 でも、今はあの目を見れない。きっと優しくされてしまうと、また期待してしまうから。


 昼休み、自然と足は中庭に向かっていた。体が勝手に動き、一歩、また一歩と陽翔の方へ向かっていく。そこにはすでに陽翔がいて、テーブルの上にお弁当箱がふたつ置いてあった。春の柔らかな陽光が彼の金色の髪を輝かせていた。


 俺は陽翔のところに向けて一歩踏み出すことができずにいた。膝がガクガク震えていて、そのまま茂みの影に座り込んでしまった。背筋を伝って冷たい汗が流れ落ちる。


 陽翔は俺を待ちながらずっとスマートフォンをいじっていたが、二十分ほど過ぎた頃、微かに肩を落とし、寂しげな表情で弁当箱の蓋を開けて食べ始めた。いつもの明るい笑顔は消え、寂しさが滲み出ている。どことなく箸を運ぶ手も元気がない。もうひとつの弁当箱の蓋は開けられないまま紙袋の中に片付けられた。


 その姿を見ていると、胸が引き裂かれるように痛かった。


 次の日もその次の日も、陽翔からはお弁当を作ったというメッセージが届いた。それでも俺は中庭に行けなかった。陽翔のことを考えると、苦しくて仕方がなかった。会いたいのに会えない。会えないのに会いたい。矛盾した思いが心をかき乱す。


 午後の授業が始まる前、芽衣がこそっと耳元でつぶやいた。


「最近、陽翔さん、元気ないよ」


 ――全部、俺のせいだ……。


 俺は胸が苦しくなり、胸元をギュッと握りしめた。シャツの布地が握りしめられ、しわが寄る。心が自分自身を責め立てているのを感じた。


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