二限と三限のあいだ――二時間の空白を埋めるように、俺は図書館の最奥へ足を運ぶ。
机の前に腰掛けて、スケッチブックを開く。何度も撫でて馴染ませた厚紙の感触は、掌にだけ許された秘密の温度を宿している。
鉛筆を寝かせ、紙を撫で――浮かびあがった輪郭は、バンドのボーカル風の青年。目鼻立ちのはっきりとした、まるでモデルのような整った顔立ち。髪の毛は金色に近い茶色で、朝日を浴びたような輝きを放っている。マイクの代わりに、赤い薔薇の花を一輪持たせた。
その表情はいつもの人好きのする明るいものではなく、静かに熱のこもった優しい視線をこちらに向けている。どこか儚げで、見る者の胸を締め付けるような、切なさを湛えた瞳だった。
ラフが仕上がり、絵の顔の部分に愛おしそうに指を滑らせた。冷たいスケッチブックの上で、指先だけが熱を持っているように感じる。
――陽翔さん、この前、寂しそうな顔してたな……。
いつもの眩しいほどの笑顔ではなく、熱っぽく俺を見つめる目。その瞳にいつも引き込まれそうになり、その度に俺は目を逸らした。本当は目を合わせて、自分の気持ちを伝えたいのに、それができない自分が情けなくて仕方がない。
「このイラストになら、いくらでも目を合わせることができるのになぁ……」
スケッチブックの上で肘をついて手を組み、その上に額を乗せた。陽翔を避けるようになってから、ため息ばかりが出る日々が続いていた。胸の奥に重たい石が積み上げられていくような感覚だ。
次の授業まではまだ時間があるので、急いで絵を仕上げることにした。鉛筆の線を消しゴムで軽く擦り、適度な加減で影を入れていく。線一本一本に、言葉にできない想いを込めながら。
授業終了後、キャンパスの桜の木の新緑がサワサワと爽やかな風に揺れ、夕暮れの光が葉の間から漏れていた。俺は芽衣と木の下のベンチに腰掛けていた。周囲には他の学生の声や笑い声が遠くに聞こえる。
バッグの中からスケッチブックを取り出し、今日の空き時間で書いたイラストを芽衣に見せた。手が少し震えていることに自分でも気づく。
「……これ、見てくれる?」
ページをめくって、イラストを見せる。芽衣は目を見開き、息を呑んだ。
「これって……」
芽衣がゴクリと唾を飲み込むのが見えた。彼女の瞳が驚きと何かを理解したような色に変わる。
「陽翔さん……、だよね? 創作垢にアップする予定なの?」
俺はこくんと頷いた。心臓が早鐘を打っている。
「うん。これから、アップしようと思ってる」
「でも、この陽翔さん、いつものライブの時のギラギラ感とか、普段の明るい表情じゃないね。きっとこれ、叶翔の目から見た『陽翔さん』の表情のような気がする……」
――俺から見た、陽翔さん。
夕暮れの中、ベンチに一人空を仰ぎ、寂しそうな表情をしていた陽翔を思い出した。あの時、彼の肩には誰にも見せない孤独が乗っていた。人気者なのに、なぜか一人で佇む背中が、胸を締め付けるほど切なかった。
「……俺だけが、見た、陽翔さんの顔だから」
ぼそりと聞こえるか聞こえないかわからないぐらいの小さな声で呟いた。喉の奥が熱くなる。
ずっと描きたかった。陽翔のみんなの前で笑顔を振り撒き、騒いでいる時の顔ではなく、寂しげで儚げだがどこか熱のこもった瞳。俺が好きになったのは、眩しい笑顔の陽翔ではなく、あのまっすぐな目だったんだ。他の誰も知らない、彼の本当の表情。
「……叶翔の気持ち、ちゃんと"描けた"んだね」
芽衣がにっこり笑いながら、俺を覗き込んできた。彼女の声には温かさと理解があふれていた。
「それって、もう、陽翔さんに"恋してる"ってことでしょ?」
スケッチブックを閉じながら、俺は少し微笑みながら小さく頷いた。頬が熱くなるのを感じる。自分でも驚くほど素直に頷いていた。
「叶翔の絵はさ、いつも気持ちがこもってるじゃん。どの絵も、嬉しい、楽しい、誇らしい、辛い、悲しい、どんな気持ちも伝わってくるもん。この陽翔さんの絵からは『愛』しか伝わってこない。ホント、素敵な絵だなぁ」
芽衣は、創作アカウントにアップされるのを楽しみにしてるね、と言い残し、その場を立ち去った。
芽衣が去った後、再びスケッチブックを開いて陽翔のイラストを見つめた。夕陽に照らされた絵の表情が、より一層深みを増して見える。そういえば、陽翔も俺のアカウントをフォローしていた。そのことを思い出すと、胸が締め付けられるような痛みと、どこか期待に似た感情が混ざり合う。
――これをアップしたら、俺の気持ちに、気づくかな?
そんなことを思いながら、絵をスマートフォンで撮影し、創作アカウントにアップロードした。不安と期待が胸をざわつかせ、投稿ボタンに触れる指先が震えていた。