目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第18話 マスター

「空いてる席にどうぞ」


マスターの柔らかく低い声が心地いい。

花音とぼくは、窓際の席に座った。ここからだと海がキラキラと輝いているのがよく見える。


「特等席だね」


花音が言った。店内は古めかしく、昭和の匂いがした。タバコのせいかもしれない。だけどぼくはだんだんとその匂いを懐かしいと感じてきた。父親が昔、タバコを吸っていたからかもしれない。


花音はナポリタンを、ぼくはカレーピラフを注文した。


「ねえ、優一のお母さんもさ、この店に来てるような気がしない?」

「え?」

「だってさ、この街、商店街ってここだけでしょ?」


確かにそうだ。地図で見る限り、あとは住宅が立ち並ぶだけの街だ。


「訊いてみない? あのマスターに」

「うん、いいね」


そう言ったぼくに花音は、顎で「行け」と合図した。


「え? ぼく?」

「そもそも恵斗だよ? 言い出したの」


ぼくは仕方なく、キッチンで調理をするマスターのところへ行った。


「あ、あの」


緊張していたせいか、声が裏返る。マスターは手際よく、ナポリタンとカレーピラフを同時に調理していた。


「ん?」

「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど」

「今手が塞がってるから、もう少し待ってくれよ」

「あ……わかりました」


ぼくが席に戻ると、「なんて? なんて?」と花音が身を乗り出してきた。


「今、手が塞がってるってさ」

「ああ、そっか」


残念そうに花音は肘をついた。ぼくはテーブルに置かれたピッチャーからコップに水を注いだ。


「あの時、コップの水、無くなってたよね」


花音がポツリと言った。ぼくは驚いた。


「気づいてたの?」

「気づいてた。でも、そんなの気のせいかもしれないって思って」

「そっか」

「正直、怖かった」


花音は目を伏せてそう言った。ぼくの前で、強がらない花音を、初めて見せてくれたような気がする。ぼくは「怖い」と言った花音を、さっきよりも近くに感じた。


しばらくしてナポリタンとカレーピラフをマスターが運んできた。ケチャップとカレーの匂いが混ざり、子供の頃に食べたお子様ランチを思い出した。


「で、俺に何か用かい?」


スプーンを持ちかけていたぼくは手を止める。


「あ、あの、訊きたいことがあるんです」

「訊きたいこと?」

「はい。この街のこと、いやこの街の人に詳しいですか?」


ぼくは回りくどい言い方をした。単刀直入に訊くと、答えてくれない気がしたからだ。個人情報を知るには、回りくどいぐらいの方がいいと思った。と、そんなぼくをよそに、花音が口を開いた。


「中務さんってご存知じゃありませんか?」

「中務?」

「旧姓なので、今は違うとは思うんですが、高校生の娘さんがいる人なんです。多分、10年以内にこの街に引っ越してきたと思うんですけど」


マスターは腕を組み、あごひげを触った。


「どういう関係だい?」


知っているなとぼくは思った。花音が続けてマスターに言う。


「中務さんの息子さんと同級生だったんです」

「息子? 息子って……確か」

「いなくなりました」


マスターはますます神妙な顔つきになり、言っていいものかどうか悩んでいるように見えた。


「息子さんのことは、この街でも知れ渡っているよ。ただ、そこをほじくられたいかどうか、俺には判断できないな」


やはり知っている。優一のことも、優一の母親のことも。


「名前だけでも教えていただけませんか?」


花音が食い下がる。


「わたしたちには、大切な友達だったんです」

「お母さんと会ってどうするつもりだい?」

「話をしたいだけです」

「うーん……」


マスターはそのまましばらく、黙って、そのあと口を開いた。


「まずは腹ごしらえをしろ。その間、考えておく」


間髪入れず、カノンは笑顔で答えた。


「ありがとうございます」

「まだ教えるとは言ってない」


マスターは困った顔をして、キッチンへと戻っていった。きっと教えてくれる。道が開けたような気がした。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?