「空いてる席にどうぞ」
マスターの柔らかく低い声が心地いい。
花音とぼくは、窓際の席に座った。ここからだと海がキラキラと輝いているのがよく見える。
「特等席だね」
花音が言った。店内は古めかしく、昭和の匂いがした。タバコのせいかもしれない。だけどぼくはだんだんとその匂いを懐かしいと感じてきた。父親が昔、タバコを吸っていたからかもしれない。
花音はナポリタンを、ぼくはカレーピラフを注文した。
「ねえ、優一のお母さんもさ、この店に来てるような気がしない?」
「え?」
「だってさ、この街、商店街ってここだけでしょ?」
確かにそうだ。地図で見る限り、あとは住宅が立ち並ぶだけの街だ。
「訊いてみない? あのマスターに」
「うん、いいね」
そう言ったぼくに花音は、顎で「行け」と合図した。
「え? ぼく?」
「そもそも恵斗だよ? 言い出したの」
ぼくは仕方なく、キッチンで調理をするマスターのところへ行った。
「あ、あの」
緊張していたせいか、声が裏返る。マスターは手際よく、ナポリタンとカレーピラフを同時に調理していた。
「ん?」
「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど」
「今手が塞がってるから、もう少し待ってくれよ」
「あ……わかりました」
ぼくが席に戻ると、「なんて? なんて?」と花音が身を乗り出してきた。
「今、手が塞がってるってさ」
「ああ、そっか」
残念そうに花音は肘をついた。ぼくはテーブルに置かれたピッチャーからコップに水を注いだ。
「あの時、コップの水、無くなってたよね」
花音がポツリと言った。ぼくは驚いた。
「気づいてたの?」
「気づいてた。でも、そんなの気のせいかもしれないって思って」
「そっか」
「正直、怖かった」
花音は目を伏せてそう言った。ぼくの前で、強がらない花音を、初めて見せてくれたような気がする。ぼくは「怖い」と言った花音を、さっきよりも近くに感じた。
しばらくしてナポリタンとカレーピラフをマスターが運んできた。ケチャップとカレーの匂いが混ざり、子供の頃に食べたお子様ランチを思い出した。
「で、俺に何か用かい?」
スプーンを持ちかけていたぼくは手を止める。
「あ、あの、訊きたいことがあるんです」
「訊きたいこと?」
「はい。この街のこと、いやこの街の人に詳しいですか?」
ぼくは回りくどい言い方をした。単刀直入に訊くと、答えてくれない気がしたからだ。個人情報を知るには、回りくどいぐらいの方がいいと思った。と、そんなぼくをよそに、花音が口を開いた。
「中務さんってご存知じゃありませんか?」
「中務?」
「旧姓なので、今は違うとは思うんですが、高校生の娘さんがいる人なんです。多分、10年以内にこの街に引っ越してきたと思うんですけど」
マスターは腕を組み、あごひげを触った。
「どういう関係だい?」
知っているなとぼくは思った。花音が続けてマスターに言う。
「中務さんの息子さんと同級生だったんです」
「息子? 息子って……確か」
「いなくなりました」
マスターはますます神妙な顔つきになり、言っていいものかどうか悩んでいるように見えた。
「息子さんのことは、この街でも知れ渡っているよ。ただ、そこをほじくられたいかどうか、俺には判断できないな」
やはり知っている。優一のことも、優一の母親のことも。
「名前だけでも教えていただけませんか?」
花音が食い下がる。
「わたしたちには、大切な友達だったんです」
「お母さんと会ってどうするつもりだい?」
「話をしたいだけです」
「うーん……」
マスターはそのまましばらく、黙って、そのあと口を開いた。
「まずは腹ごしらえをしろ。その間、考えておく」
間髪入れず、カノンは笑顔で答えた。
「ありがとうございます」
「まだ教えるとは言ってない」
マスターは困った顔をして、キッチンへと戻っていった。きっと教えてくれる。道が開けたような気がした。