花音とぼくは、子供のように手を振って別れた。
帰り道、優一の家の前を通った。黒い鬱蒼とした木々が、雨に打たれて鈍い音を立てていた。明かりはやはり見えない。誰もいないのだろうか。
ぼくは家に着くと、そのまま風呂場へ行きシャワーを浴びた。その間に、どうやら父親が帰ってきたらしく、脱衣所に出ると、炊飯器のスイッチを入れる音がした。
「あー帰ってたな。濡れただろう」
「親父、傘持ってたの?」
「いつも車に積んであるのがあるからな」
「そっか」
「ああ、でも気持ちよかったなあ、雨」
父親はぼくの顔を見て笑った。
「良いことでもあったのか?」
「いいや、逆だよ」
ぼくはその日あったことを父親に話して聞かせた。
「でもなあ、山を片っ端から探すなんて無茶じゃないか?」
父親が腕を組んだ。
「でも、やるしかないだろ。ぼくは見つけてやりたい。見つけたいんだ」
「まあ、お前は頑固なところがあるから、やり通すとは思うよ。だけどな恵斗、一人では無理だ」
「分かってる。花音と二人でやるんだ」
「二人でも足りないよ。俺も手伝うとして、三人。山は小さいとは言え、人間を拒むようなところがあるからな」
父親の言う通り、三人でもなかなかきついだろう。
「でも親父、ぼくはそれでもやるからね」
「そう言うんだろうけどさ」
父親はぼくの前に、湯気の立った味噌汁を置いた。ぼくはこうして、父親の手料理を食べている。それがどれほどありがたく、大切な時間なのだろう。改めてぼくは、今まで父親にとってきた態度を申し訳ないと思った。
食事が終わり、ぼくは自分の部屋へ入った。
「優一に、会いに行くか」
ぼくは腕時計を取り出し、文字盤を見た。例の如く、時計の針は周りだし、数字がぐにゃりと歪み始めた。ひどい眩暈と同時に、ぼくは目を瞑り、そして開けた。
「それで? ぼくはいたかい?」
優一が尋ねた。
「今日はまだだよ。その代わり、お母さんと会ったよ」
「え?」
優一が真顔になる。
「お母さん? それで? それで?」
優一が前のめりになった。
「柚葉ちゃんにも会ったよ」
「それで? それで?」
「優一は多分、お父さんに殺されて、あの山にいる。あ、でも生きている可能性は、ないわけじゃないよ」
「いや、生きてはないだろう。ぼくに変な期待を抱かせようとしなくていいよ恵斗」
優一は、少し大人びて見えた。時間の狭間の中でも、彼の心は確実に時を重ねているのではないか。そう思った。だとしたら、この十年という長い時間の中で、彼は何を思い、考えてきたのだろう。そう思うとゾッとした。子供だから耐えられているとも言えるのではないか。大人になったぼくには、到底できることではない。一途というか、真っ直ぐな気持ちは、時として残酷だ。
「柚葉、大きくなってるんだろうね」
「そりゃあね。もう高校生だ」
「ぼくより大きくなってるんだよね。それだけはさ、なんか寂しいな」
分かる。とは言えない。ぼくには兄弟もいないし、ましてやどこにも閉じ込められてはいないのだ。
「みんな、元気ならそれでいいか」
優一は、無理矢理に笑って見せた。
「ぼくたちで、山を探すよ。見つけてやるよ、優一の死体」
「うん」
こんな会話をするなんて、子供の頃には考えられなかった。全ては守られている、ぼくはそう感じていた。ぼくはいまだに、守ってもらっている。それが小っ恥ずかしかった。
「ねえ恵斗。今日はこれで終わりにしよう」
「え?」
「ぼくはやっぱり、一人でいいや」
それは覚悟だったのだろうか。生きている可能性を、消されてしまったことで、落胆しているのではないだろうか。
「優一がそうしたいのなら、ぼくは帰るけどさ、でもまた来るよ」
「うん。待ってる」
ぼくは小さな優一を置いて、元の世界に戻った。ぼくの部屋には、あの頃のままのカーテンが、色褪せたまま吊り下がっている。勉強机も傷だらけで、そこにある。足りないものはない。そう思った。