山々の間を吹き抜ける風が、悠真の髪を撫でていく。ウィンドの背に乗り、眼下に広がる森と丘陵の絨毯を見下ろす景色は息を呑むほど美しかった。
「すごいな…こんな景色、今まで見たことがない」
悠真は思わず呟いた。カメラマンとして様々な場所を訪れてきたはずなのに、生き物の背に乗って空を飛ぶ体験は、当然ながら初めてだった。
「よくやってるぞ、ウィンド」
白い仔馬の首筋を優しく撫でると、ウィンドは嬉しそうに小さく鳴いた。飛行を始めてからまだ日は浅いが、その姿は生まれながらに空を支配する生き物のようだった。
首にかけた魔石が青く輝き、悠真は方向を確認する。魔石の示す先には、昨日見た映像の山々と峡谷が広がっていた。
「あれだ…あの方向だな」
ウィンドの背中を軽く叩くと、白い仔馬は理解したように進路を微調整した。二人の影が大地を滑るように進んでいく。
――――――
飛行を始めてから約二時間が経った頃、魔石の輝きが一段と強まった。
「ウィンド、少し下がってみよう」
悠真の言葉に応じ、仔馬はゆっくりと高度を下げていく。眼下に現れたのは、深い森に囲まれた小さな峡谷だった。峡谷の奥には、光を放つ水面が見えている。
「あれが聖なる泉…かな」
着陸できそうな開けた場所を見つけ、ウィンドを誘導する。仔馬の蹄が柔らかな草地に触れると、周囲は不思議なほど静かだった。鳥のさえずりも、虫の音も聞こえない。
「何だろう…この感じ」
悠真は周囲を見回しながら、ウィンドから降りた。魔石は今や激しく脈打つように輝いている。
「行ってみよう」
二人で慎重に峡谷の奥へと進んでいく。道なき道を進むにつれ、森の中から柔らかな光が漏れ始めた。やがて木々の間から、一面の水面が見えてきた。
「これは…」
悠真の言葉が途切れた。目の前に広がる泉は、まるで星空を映し出したかのように輝いていた。水面から立ち上る微かな霧が、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「本当にあったんだ…聖なる泉」
ウィンドが興奮したように前へ出ようとするのを、悠真は手綱で軽く制した。
「待て、まずは様子を見よう」
二人が泉の岸辺に立つと、水面がゆっくりと波打ち始めた。やがて中央から一筋の光の柱が立ち上がり、悠真が以前見た水の精霊が姿を現した。
「来てくれたのですね…」
透き通るような女性の声が、悠真の心に直接語りかけてくる。
「あなたが…水の精霊?」
「そう呼ばれています。この泉を守護する存在です」
精霊は悠真とウィンドを交互に見つめ、微笑んだ。
「ペガサスの子を連れてきてくれて、ありがとう。あなたは私の導きを理解してくれました」
悠真は首を傾げた。
「導き?あなたが俺に見せてくれた映像…あれは何だったんですか?」
精霊は水面近くまで降りてきて、透明な手でウィンドの鼻先を優しく撫でた。
「この子は特別な存在。森と空を結ぶペガサスの血を引く仔馬です。かつてこの峡谷には多くのペガサスが暮らしていましたが、この泉が汚れ始めてから、姿を消していきました」
「汚れ始めた?」
悠真は泉を見つめた。確かに美しく輝いているものの、よく見ると水の一部が濁り、光を失っている部分があった。
「この聖なる泉は、周辺の森や湖、川の命の源。しかし最近、何者かが水源を塞ぎ、泉の力が弱まっています」
精霊が水面に手をかざすと、上流の方に岩の崩落で塞がれた水路の映像が浮かび上がった。
「このままでは峡谷の生命が危機に…」
「なるほど。だから俺を呼んだんですね」
精霊は頷き、続けた。
「はい。ペガサスが心を許すような人間であれば助けになってくれると」
悠真はウィンドを見つめた。小さな体に秘められた力を感じ取る。
「でも、どうやって助ければいいんですか?」
精霊は再び水面に触れると、泉の水が光の粒子となって舞い上がった。
「私にできるのはここまで。この子に力を与え、そしてあなたにも…」
光の粒子が悠真とウィンドを包み込む。温かな感覚が全身を駆け巡り、心の奥で何かが目覚めるような感覚があった。
「これは…」
「自然との絆。この世界では『ネイチャーリンク』と呼ばれる力です。あなたとペガサスの絆が、新たな奇跡を生み出すでしょう」
光が収まると、ウィンドの翼は一回り大きく、そして強固になっていた。悠真自身も体の内側から力がみなぎるのを感じる。
「この力で塞がれた水源を…」
「そうです。しかし急がなければ。水源が完全に塞がれてしまえば、この泉の力は永遠に失われてしまいます」
精霊の姿が徐々に透明になっていく。
「行ってください…上流の崖にある古い岩場へ…」
そう言い残し、精霊は泉の中へと消えていった。後には静かな水面と、首から下げた魔石の柔らかな輝きだけが残されていた。
「よし、行こう、ウィンド」
悠真は再び仔馬の背に飛び乗った。二人は泉の周りを一周し、上流へと続く細い道を見つけた。
――――――
緑深い森の中を、小川に沿って進んでいく。やがて道は険しくなり、崖沿いの細い獣道となった。
「気をつけろよ、ウィンド」
悠真が声をかけると、白い仔馬は慎重に足を運んでいく。魔石の輝きは徐々に強まり、目的地が近いことを告げている。
「あれだ」
前方に大きな岩の崩落地点が見えてきた。山の斜面から落ちてきた巨大な岩が、水源の流れを完全に塞いでいる。水は岩の隙間からわずかに染み出しているだけだった。
「これじゃあ、下流の泉に水が…」
悠真は岩場に近づき、状況を確認した。巨大な岩を動かすには、数十人の力が必要だろう。
「どうやって…」
考え込む悠真の傍らで、ウィンドが前足で地面を掘り始めた。
「何をしてるんだ?」
ウィンドは鼻先で岩の下を指し示す。よく見ると、岩の下に空洞があり、水がそこに流れ込んでいるようだった。
「なるほど…下から流れを作れば」
悠真は急いで岩の周りを調べ始めた。岩の下を掘って水路を作れば、徐々に流れが生まれ、やがて岩自体も動くかもしれない。しかし手作業では時間がかかりすぎる。
「そうだ…水の精霊が授けてくれた力」
悠真は深く息を吸い込み、目を閉じた。心の中で、自然とつながる感覚を探る。森の息吹、水の流れ、大地の鼓動…そして、傍らのウィンドの存在。
「感じるんだ…自然とのつながりを…」
すると、体の内側から青い光が溢れ出し、ウィンドの翼も同じ色に輝き始めた。
「これが…ネイチャーリンク」
悠真は両手を岩の方へ向けると、不思議な力が指先から流れ出し、岩の周りの土を柔らかくしていく。ウィンドも翼を広げ、前足で勢いよく地面を掘り始めた。
「そうだ、一緒にやるんだ!」
二人の力が合わさり、岩の下に新たな水路が徐々に形成されていく。水が勢いを増し、岩の周りを浸食し始める。やがて、小さな流れが大きくなり、岩の下を洗い流していった。
「効いてきたぞ!」
時間をかけて、水の力と二人の努力が実を結び始めた。巨大な岩がわずかに動き、水の流れが勢いを増す。その瞬間、岩の中から青い光が漏れ始めた。
「なんだ…これは?」
光は強まり、岩の表面を覆い始める。まるで氷が解けるように、岩が徐々に小さくなっていく。
「水の力が…岩を溶かしている?」
やがて巨大な岩は完全に消え、その場所には清らかな水の流れだけが残った。水源が解放され、豊かな水が下流へと流れ始めた。
「やった!」
悠真の歓声が森に響く。ウィンドも嬉しそうに鳴いた。二人は急いで下流の泉へと戻った。
――――――
聖なる泉に戻ると、驚くべき光景が広がっていた。先ほどまで部分的に濁っていた水面が、今や全体に青く輝き、生命力を取り戻している。森の中には鳥のさえずりが戻り、小さな動物たちも姿を見せ始めていた。
「水が…戻ってきた」
水面から再び精霊が現れる。今度はより鮮明で力強い姿だった。
「ありがとう…あなたたちのおかげで、泉は命を取り戻しました」
精霊の声も以前より明るく響く。
「これで峡谷全体が救われるんですね」
「えぇ。水が流れれば、森も湖も、そしてそこに住む全ての生命も輝きを取り戻します」
精霊はウィンドに近づき、その額に触れた。
「この子もまた、本来の力を発揮できるでしょう。ペガサスは自然の力と深く結びついているのです」
ウィンドの翼が一瞬強く輝き、そして落ち着いた光を放つようになった。
「これからも時々、この泉を訪れてください。あなたとペガサスの力は、この地の自然を守る大切な存在となるでしょう」
精霊の言葉に、悠真は静かに頷いた。
「分かりました。これからもウィンドと一緒に、この地を守ります」
精霊は満足そうに微笑み、泉の中へと戻っていった。後には穏やかに光る水面と、清々しい風だけが残された。
「帰ろうか、ウィンド。みんなが待ってるよ」
悠真が仔馬の背に乗ると、ウィンドは力強く羽ばたき、空へと舞い上がった。二人の姿は夕焼けの空に溶け込み、牧場へと向かっていった。
――――――
牧場に戻った二人を、ミリアムが満面の笑顔で出迎えた。
「悠真さん!ウィンドちゃん!無事で良かった!どうでしたか?聖なる泉は見つかりましたか?」
悠真はウィンドから降りると、ミリアムに全てを話した。聖なる泉のこと、水の精霊との出会い、そして水源を救った冒険を。
「すごい!ウィンドちゃんの力で泉が救われたんですね!」
ミリアムの目が輝く。牧場の動物たちも集まってきて、興味深そうに二人の話に耳を傾けていた。こうして、悠真の初めての冒険は無事に幕を下ろした。