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第六十六話  決意

 時刻は昼過ぎ――。


 身なりを整えていたアリシア・ルーデンベルグこと私は、紅花茶館の裏口の前で春花といた。


 大通りに面した表の出入り口と違って、裏口から通じていた裏道にはほとんど人気はない。


「なあ、アリシア……ホンマにこのまま1人で出て行くんか?」


 私はこくりと頷いた。


「うん、もう私がこの国にいる理由はなくなったしね」


 私は足元に置いてた1人分の荷物をゆっくりと持ち、何とか全身の力を振り絞って肩に担ぐ。


 左腰にはすでに長剣を携えており、これで旅立てる準備は万全である。


 すでに龍信と私に懸けられていた懸賞金と手配書は白紙になっているため、表の出入り口から堂々と出てもよかった。


 だが、それでも私は万が一の用心を兼ねて裏口からそっと出て行こうと決めたのである。


 本当は人気が少なくなる、夕方や夜に人知れず出て行こうかと考えていた。


 しかし、本当に出ていくのなら龍信がこの国の皇帝と謁見している今が好機だと思ったのだ。


 龍信がいるときだと確実に気配を悟られるだろうし、もしも龍信から優しい言葉をかけられたら私の気が変わってしまうことも十分にありえる。


 だからこそ、今しかないと思った。


 正直なところ、身体の調子さえ万全だったのならもっと早くに出て行けた。


 けれども五火神焔剣を使った反動は凄まじく、牢屋にいる間もほとんど身体が動かせず、同じ牢屋に入っていた龍信と何とか会話することが精いっぱいなほど疲労してしまったのだ。


 そして釈放された今でも肉体はあまり本調子ではない。


 たとえるなら、重度の筋肉痛がずっと続いているような状態だ。


 それこそ1人分の荷物を担ぐだけで全身が悲鳴を上げるぐらいほどである。


 おそらく、あと2、3日は身体を引きずらないと歩けないだろう。


 では、なぜこれほど私の肉体が疲労してしまったのか。


 龍信曰く、これほど私の肉体が疲労したのは五火神焔剣が普通の〈宝貝〉ではなかったからだという。


〈真・宝貝〉。


 それが私の〈宝貝〉の名称というのだ。


 1つの形状と1つの機能しかない普通の〈宝貝〉と違い、〈真・宝貝〉という特別な〈宝貝〉は複数の形状と機能を有しているのが特徴らしい。


 龍信の〈七星剣〉もその〈真・宝貝〉であり、それこそ現出できるのは類まれない才能を持った一握りの者だけという話だった。


 しかし、どんなに才能があっても肉体が強くなければ話にならない。


〈真・宝貝〉に限らず、〈宝貝〉を現出させることもそうだ。


 いついかなるときも心身を武術によって練磨し、〈宝貝〉を現出させても大丈夫なほどの精気を〈精気練武〉によって養う……というのが〈宝貝〉使いと呼ばれる一部の道士たちが行っていることだという。


 そしてこれを常日頃から怠らない道士は、たとえ精気を激しく消耗させても回復が早いのだと龍信から聞いた。


 事実、龍信がそうだったのである。


 龍信も魔王を倒したあの日、私と同じく精気を使い果たして気を失ったというのは牢屋の中で一足先に目覚めていた龍信本人から聞かされたことだった。


 そんな龍信は何事もなかったように平然としていたのだ。


 同じ牢屋の中で目を覚ましたものの、まったく動けなかった私と違って身体が鈍るからと武術の型をするぐらいに。


 いけない……このままだと旅立てなくなる。


 私は心中で頭を左右に振った。


 こうしている間にも龍信のことで頭がいっぱいになってくる。


 景炎さんの尽力もあって牢屋から釈放されたあと、龍信はずっと私のことを気にかけてくれた。


 ――俺が宮廷から帰ったら、春花と3人で美味い物でも食いに行こう


 そう言って宮廷へと向かった、龍信の姿が目に焼きついて離れない。


 たった数時間前のことなのに、もう何カ月も会っていないような気にさえなってくる。


 だからこそ、龍信がいないうちに離れたほういい。


 本音を言えば恩人である龍信に何も言わずに出て行くのは気が引けるが、これ以上一緒にいれば私は何かと龍信に甘えてしまうだろう。


 それほど龍信といるのは非常に心地よかった。


 これからもただ一緒に冒険したいと思ってしまうぐらいに、だ。


 などと考えていると、春花が「せやけど」と言ってくる。


「せめて龍信が宮廷から帰ってくるのを待ってからにしたらどうや? 龍信にはまだ何にも言うてへんのやろ? 挨拶の1つもなしに急にいなくなったらきっと悲しむで」


 春花は悲しそうな表情を浮かべた。


「……もう決めたことだから」


 私もそれは分かっている。


 だが、私と龍信はあくまでも魔王を倒すという目的のため一緒に旅をしていたのだ。


 いや、厳密には龍信が私に同情してくれて色々と協力してくれたのである。


 ただ魔王がこの世から消え去った今、いつまでも龍信と一緒にいるわけにはいかなかった。


 嫌いになったとかそういうことではない。


 それどころか龍信には感謝しかなかった。


 もしも龍信と出会っていなかったら、私はこうして旅の目的を果たすどころか道士にすらなれず今もあてどない旅をしていただろう。


 そして魔王を倒すという勇者としての使命が終わった今、間違いなくここが私の旅の終着点だった。


 同時にそれは龍信と共にいる理由がなくなったということでもある。


 もちろん、それ以外の理由でも龍信から離れる決意をしたのだ。


 龍信……。


 ふと私の脳裏に、これまでの龍信との思い出が走馬灯のようによぎる。


 道士の試験の目付け役を買って出てくれたこと。


 魔王に掛けられていた呪いから解放してくれたこと。


〈精気練武〉を教えてくれたこと。


 不甲斐ない私に代わって、魔王を倒してくれたこと。


 私は生涯において、孫龍信という男を決して忘れないだろう。


 今となったらはっきりと言える。


 孫龍信という男こそ、私の剣術の師匠を超えるほどの最高かつ最強の武人であると。


 それは私だけではなく、この国の最高権力者も思ったに違いない。


 ゆえに龍信はこの華秦国の皇帝が住む宮廷に招かれたのだろう。


 皇帝ともなれば自分の膝元で何が起こったか調べるのは容易いはず。


 加えて龍信は皇帝の側近の何人かに知り合いがいるというので、その人たちの口添えもあって皇帝と謁見する機会が設けられたのだという。


 私はそれを聞いたとき、驚いたや凄いという感情よりも龍信とこのまま離れたほうがいいと思った。


 東安の事情に詳しい景炎さんによると、この国の皇帝は市井で何かしらの功績を上げた者が出ると宮廷に呼び、内容によっては褒美とは別に役職を与えられる場合もあるというのだ。


 つまり出世である。


 一緒に旅をしてきた私だから、誰よりも龍信の人柄と強さは知っていた。


 龍信は一介の道士で終わるような男ではない。


 あれだけの強さを持っているのなら、きっと皇帝にも見初められるだろう。


 ……だから、私は龍信から離れないといけない


 もしも皇帝に気に入られて何かしらの役職に就くようになったら、きっと私のような異国の女が傍にいることが重荷になる。


 下手をすると、せっかくの出世が私の存在のせいで台無しになってしまうことも十分に考えられた。


 なぜなら、この華秦国はただの異国人にはとても厳しい国だからだ。


 この国の中枢を担う宮廷ならば、そこで働く者の感情は市井の人たちよりも一段と顕著であるに違いない。


 だとしたら、私のやるべきことは1つ。


 龍信の将来のためを思い、私はただ黙って彼の前から姿を消す。


 これでいいし、それだけでいい。


 そう改めて思った直後、先ほどから思いつめた顔をしていた春花が「アカン!」と大声で言った。


「いくら何でもこんな別れ方はやっぱりアカンわ。大体、何で龍信がおらん間に出て行こうとすんねん。本当は龍信と別れたくないんやろ?」


 ビクッと私の身体が小さく震えた。


「うちかて親父がおったときから色々なお客はん相手に商売してきたから分かるんや。アリシア、お前の顔には「龍信と別れたくない」とはっきり書いてあるわ。それに、そんな身体のままでどこへ行こうと言うねん」


「どこって……もちろん、国に帰るのよ。あ、当たり前じゃない。目的の魔王も倒せたし、もうこの国にいる理由はないからね。それに、これでも私は祖国へ帰れば英雄として扱われていたのよ。祖国へ帰れば人並以上の生活が送れるわ」


 これは半分本当で半分嘘だった。


 魔王がこの世から消え去った今、この華秦国にいる理由がないことは本当だ。


 しかし、祖国に帰ったら英雄として扱われるというのは嘘である。


 私は王族が出した魔王はもういないという御触れを無視して国を飛び出たため、おそらく今頃は冒険者の資格すらも剝奪されていることだろう。


 そればかりか事の次第を隠蔽したかった王族によって、国中に私に対する懸賞金つきの手配書が配られているかもしれない。


 なのでこのまま祖国へ帰っても英雄として扱われるどころか、適当な理由をでっち上げられた犯罪者として捕まる可能性のほうが高かった。


 だが、このことを言ってしまえば春花にも余計な気を使わせてしまう。


 私は春花に満面の作り笑いを浮かべた。


「だから安心して。私はこれからも元気に祖国で道士……ううん、冒険者として頑張って」


 いくから、と言葉を続けようとしたときだ。


「お前は嘘をつくのが下手だな、アリシア」


 私はその声を聞いてハッとした。


 春花も同じだったようである。


 私たちは2人は、紅花茶館をぐるりと囲っていた筑地塀の上に顔を向ける。


 そこには屋根瓦に腰かけている龍信の姿があった。



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