「失礼します、殿下」
勇姫が部屋の扉を静かにノックすると、中から穏やかな声が返ってきた。
「ああ、入りなさい」
彼女が部屋に足を踏み入れると、そこには予想外の光景が広がっていた。通常の執務スペースではなく、御書房の奥にある私室だった。淡い金色と白の装いをした
「あ、これは...お邪魔してしまいましたか?」
勇姫は戸惑いの表情を浮かべた。瑞珂は頭を振った。
「いや、構わない。ちょうど誰かと話したかったところだ」
彼は周囲の書物を手で示した。
「見てのとおり、少し読書に夢中になっていてね」
勇姫は興味を持って本の山に目を向けた。それらは一般的な皇族が読むような
「殿下はかなりの読書家なんですね」
「ああ、小さい頃から本が友達だったんだ。特に民の暮らしに関するものが好きでね」
瑞珂は少し照れくさそうに笑った。彼は一冊の本を手に取り、勇姫に見せた。
「これは『
「農業の本ですか?」
勇姫は少し驚いた様子で本を受け取った。
「ええ。王朝の
瑞珂の声には珍しく熱がこもっていた。彼は立ち上がり、本棚から別の書物を取り出した。
「こちらは『
勇姫は次第に興味を引かれていった。
「殿下の本棚は、まるで図書館のようですね」
「図書館...それはいい表現だ」
瑞珂は嬉しそうに微笑んだ。
「実は、それが僕の夢の一つなんだ。この知識を独り占めするのではなく、広く民と共有できる場所を作りたいと思っている」
「公共の図書館、ですか?」
「そう。知識は力だけれど、その力は分かち合うことでより大きくなる。僕はそう信じているんだ」
勇姫の目が輝いた。
「素晴らしい考えです!前世...いえ、以前読んだ本でも、知識の共有が国の発展を促したという記述がありました」
瑞珂は勇姫のそばに座り、別の本の山を指さした。
「これらは各地の
「驚きました。通常、皇族はそういった庶民の生活にはあまり...」
「興味を持たない?」
瑞珂は少し苦笑した。
「それが問題なんだよ。遠い存在になりすぎた。僕は、もっと近くにいたいんだ」
彼は立ち上がって、部屋の奥の小さな机に勇姫を案内した。そこには一枚の大きな地図が広げられていた。
「これは...
「ああ。見てごらん、この印は全て僕が個人的に"変えたい場所"だ」
地図には赤い印が数多く付けられており、それぞれにメモが添えられていた。「洪水多発地域・治水工事必要」「干ばつ地域・井戸の増設を」「学問所設立候補地」など、実に細かな計画の痕跡が見える。
「殿下...これは」
「僕の理想の国の設計図、と言えるかな」
瑞珂の顔には少年のような情熱が浮かんでいた。
「豊かな食、清らかな水、そして知恵。この三つがあれば、人は幸せに生きられると思うんだ」
勇姫は言葉を失うほど感動していた。彼女が想像していた皇太子像とは全く異なる、情熱と理想に満ちた青年の姿がそこにはあった。
「なぜ、こういったお考えを公にされないのですか?素晴らしい構想だと思います」
瑞珂は少し寂しげに笑った。
「政治というものはね、理想だけでは動かないんだ。実現するには味方が必要だし、時間も必要だ。それに...」
彼は少し言葉を切った。
「多くの人は僕を"皇太子"としか見ていない。本当の僕を見てくれる人は少ないんだよ」
勇姫は思わず瑞珂の目をじっと見つめていた。墨茶色の瞳の奥に秘められた熱意と孤独を感じ取って、胸が締め付けられる思いがした。
「私は...見ています」
彼女の言葉に、瑞珂の目が少し大きく開いた。
「殿下の本当の姿を、私は見ています。そして、その理想を実現するお手伝いがしたいです」
瑞珂の表情が、驚きから喜びへと変わっていった。
「本当かい?」
「はい。私のスプシの力も、きっとお役に立てるはずです。データを整理して、最適な解決策を見出すことが得意ですから」
勇姫は自信を持って答えた。瑞珂は静かに頷き、彼女の手をそっと取った。
「ありがとう、勇姫。君は...僕にとって、初めての同志かもしれない」
二人の間に静かな親密さが流れた。瑞珂は再び本棚に目を向け、一冊の古い書物を取り出した。
「これは『
勇姫はその本を大切そうに受け取った。
「光栄です。必ず読ませていただきます」
そして彼女は思い切って尋ねた。
「殿下の理想の国とは、具体的にはどんな国なのですか?」
瑞珂は窓の外を見つめながら、静かに語り始めた。
「僕の理想の国は...人々が"楽になる権利"を持つ国だ。苦しんで耐えることが美徳だとされる古い考えを捨て、誰もが少しずつ楽に生きられる国にしたい」
彼の言葉は柔らかいながらも、強い信念を感じさせた。
「子供が学び、農民が実りを喜び、商人が安心して商いができる。そして皆が互いを思いやる...そんな国を作りたいんだ」
勇姫の胸に、温かいものが広がっていった。それは前世では決して感じることのなかった感覚だった。
「素敵な夢です。その夢のために、私にできることがあれば何でもします」
瑞珂は微笑んだ。
「じゃあ、まずはこの本たちの整理を手伝ってくれないか?僕の頭の中と同じく、ちょっと散らかっているんだ」
勇姫は笑って頷いた。
「任せてください。スプシの得意技です」
こうして二人は、瑞珂の本棚を通じて、より深く理解し合うようになった。勇姫にとって、皇太子の秘められた理想を知ったこの夜は、この世界での自分の使命を再確認する大切な時間となったのだった。