真夜中の屋敷には、物悲しい静けさだけが漂っていた。
イリスの部屋の窓から覗く月は、半分だけ顔を出し、まるで彼女の
「お嬢様、よろしいですか?」
小さなノックの音と共に、シルヴィアの声が聞こえた。イリスは窓辺から振り返り、かすかに応える。
「どうぞ」
ドアが静かに開き、シルヴィアが姿を現した。彼女の手には
「夜分に申し訳ありません」シルヴィアは静かに言った。「でも、もうこれ以上待てないと思いまして」
イリスは黙って頷いた。彼女の心は、まだ父との
「母のことを、話してくれるの?」イリスは小さな声で尋ねた。
シルヴィアは彼女の横に座り、持ってきた木箱を
イリスは箱を見つめた。「それは…?」
「お母様からの
イリスの胸が高鳴った。母からの遺品——彼女が記憶にないほど幼い頃に失った母からの最後のメッセージ。
「なぜ今まで…?」
「侯爵様の命令でした」シルヴィアの目に
「でも、なぜ?」
シルヴィアは小さく息を吐いた。「長い話になります。まずは、これをご覧ください」
彼女は箱の
「お母様が常に
イリスは震える手でロケットを受け取った。「開けても…?」
「どうぞ」
カチリという小さな音と共に、ロケットが開いた。中には小さな肖像画が収められていた。若く美しい女性が、赤ん坊を抱いている絵。その女性の
「母…」イリスの目に涙が浮かんだ。
「エリザベス・ノクターン」シルヴィアの声が柔らかくなった。「あなたにそっくりでしょう?いいえ、あなたが彼女にそっくりなのですね」
ロケットのもう一方には、小さな
「これは?」
「
イリスは息を呑んだ。「母の…力?」
「そう」シルヴィアはイリスの目をまっすぐ見た。「お母様も同じ力を持っていました。感情を形にする力、物を動かし、光を放つ力——あなたと全く同じものを」
イリスはロケットを胸に抱きしめた。「父が言っていたことは本当なの?母は自分の力で…」
「侯爵様の言葉は半分だけ真実です」シルヴィアはきっぱりと言った。「確かにお母様は、最後に力を
「私を…守るため?」
「この手紙を読んでください」シルヴィアは
イリスは慎重に封を切り、中の
「声に出して読んでも?」彼女はシルヴィアを見た。
「どうぞ」
イリスは深呼吸をして、読み始めた。
「*愛しいイリスへ*
*この手紙を読んでいるあなたは、既に力に目覚め始めていることでしょう。私たちの血に
*まず、あなたに伝えたいことがあります。あなたが持つその力は、決して呪いではありません。それは
*私があなたの前から去らなければならなかったのは、あなたを王宮の手から守るためでした。私たちの力は、王国にとって
*だから私は、自分の命と引き換えに、あなたの力を
*イリス、私から最後に贈る教えです。感情を抑え込むのではなく、受け入れなさい。喜びも、悲しみも、怒りも、全てを。そして何より、愛することを恐れないで。*
*あなたの力の真髄は『愛』なのですから。*
*いつでもあなたと共に*
*母より*」
イリスの声が震え、最後の言葉で途切れた。涙が頬を伝い、手紙の上に落ちる。
「母は…私を守るために…」
「そうです」シルヴィアは優しく言った。「お母様は自分の命を
「でも、なぜ父は私に本当のことを話さなかったの?」
シルヴィアは少し考え、慎重に言葉を選んだ。「侯爵様は…あなたのお母様を、心から愛していました。その死が与えた
イリスは静かに窓の外を見た。星の瞬きが彼女の涙に
「でも、それだけではない」彼女は小さく言った。「父は私を『売る』つもりだった。母が言うように…」
シルヴィアは長い間黙っていた。「…お察しの通りです」彼女はついに認めた。「侯爵様は王宮と交渉していました。あなたの力が目覚めたら、王に
その言葉に、イリスの中で何かが
「王家は古来より、異能者を
「戦争の道具として…」イリスの声が冷たくなった。
「ですが、お母様はそれを
「だから、自分の命と引き換えに私を守った…」
「そして、私に
イリスはロケットを見つめた。中の紫色の結晶が、かすかに脈打っているように見える。
「これで、私の力を制御できるの?」
「完全にではありません」シルヴィアは首を振った。「それは、あなた自身の
イリスはヴァルトの言葉を思い出した。彼もまた、同じことを彼女に教えていた。感情と向き合い、それを受け入れること。
「ヴァルトも…同じことを言っていた」彼女は静かに言った。「彼は知っていたの?」
「いいえ」シルヴィアは微笑んだ。「彼は本能的に、あなたに必要なことを理解していたのでしょう。獣人には、人間には見えない何かが見える場合があります」
「ヴァルト…」イリスは胸に痛みを感じた。彼がいなければ、彼女はきっと今頃、力に
「王都で、ラヴェンデル男爵の屋敷に」シルヴィアは心配そうに言った。「あそこは…異能者を狩る者たちの
「なんですって?」イリスの顔から血の気が引いた。「父は、わざとヴァルトを危険な場所に…?」
「おそらく」シルヴィアは静かに認めた。「侯爵様はヴァルトさんがあなたの力に気づいていると
イリスは立ち上がり、窓際に歩み寄った。夜空に浮かぶ月を見つめながら、彼女の心に決意が固まっていく。
「シルヴィア」彼女は振り返った。「母は他に何か言っていた?私は…どうすればいいの?」
シルヴィアは革表紙の本を手に取った。「これは、お母様の
「愛…」イリスはその言葉を噛みしめた。
「そして、もう一つ」シルヴィアは真剣な表情で言った。「お母様は、あなたがいつか『選択』を迫られると予言しました。その時は、心に正直に選びなさいと」
「選択?」
「愛する者のためにその力を使うか、それとも…」シルヴィアは言葉を選ぶように
イリスの心に、セドリックの言葉が
「シルヴィア」イリスは決意を込めて言った。「明日からの別荘行きの準備を手伝って」
「お嬢様」シルヴィアの目に驚きが浮かんだ。「本当に行くおつもりですか?」
「ええ」イリスはきっぱりと言った。「そして、その前に王都へも」
「王都へ?」シルヴィアは息を呑んだ。「それは…」
「ヴァルトを助けなければ」イリスの目に強い光が宿った。「父が彼を危険な場所に送ったのなら、私がそこから連れ出す」
「それは危険すぎます」シルヴィアは心配そうに言った。「もしあなたの力が暴走したら…」
「だからこそ」イリスはロケットを
シルヴィアの表情が変わった。彼女の目に理解と決意の色が浮かぶ。「わかりました。お手伝いします」
「本当に?」
「お母様の真の願いは、あなたが自分の道を選ぶことでした」シルヴィアは微笑んだ。「あなたが本当に望むなら、私はその側にいます」
イリスは彼女に
シルヴィアは驚いたように彼女を見たが、やがて優しく抱き返した。「お嬢様…」
「私、これから何をすべきか教えて」イリスは真剣な表情で言った。「ヴァルトを助け、そしてこの力を制御するには」
シルヴィアは頷き、再び革表紙の本を開いた。
「まず、お母様の日記から読みましょう」彼女はページをめくった。「それから、王都へ行く計画を立てます。ただし、侯爵様に気づかれないよう、慎重に」
イリスは母の日記を受け取り、その
夜が更けていくにつれ、イリスとシルヴィアは小さな
「母さん…」イリスは日記の最後のページを
「*イリス、あなたの人生は、あなた自身のもの。決して誰かの人形になってはいけない。感情を恐れず、愛することを恐れず、そして何より、自分自身であることを恐れないで。私はいつでも、あなたと共にいます。*」
その言葉と共に、彼女の指先から微かな紫色の光が漏れた。しかし今回は、恐怖ではなく、決意と愛情から生まれた暖かな光だった。
「お嬢様」シルヴィアが静かに微笑んだ。「お母様の力が、あなたの中で目覚め始めています」
イリスは光る指先を見つめ、小さく頷いた。「これから始まるのね。本当の旅が」
窓の外では、夜明けの光が少しずつ東の空を染め始めていた。新しい日の始まりと共に、イリスの新たな人生も始まろうとしていた。
人形姫が、自らの意志で動き出す時が来たのだ。