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Arc3【真実】の章

Section7-1:シルヴィアが語る母の遺志

真夜中の屋敷には、物悲しい静けさだけが漂っていた。


イリスの部屋の窓から覗く月は、半分だけ顔を出し、まるで彼女の不完全ふかんぜんな心を映すかのように欠けていた。壊れた窓ガラスは急場しのぎにいたで塞がれ、飛び散った小物は床から片付けられていたが、彼女の心のみだれは、まだ収束しゅうそくする気配がなかった。


「お嬢様、よろしいですか?」


小さなノックの音と共に、シルヴィアの声が聞こえた。イリスは窓辺から振り返り、かすかに応える。


「どうぞ」


ドアが静かに開き、シルヴィアが姿を現した。彼女の手にはふるびた小さな木箱と、一冊の革表紙の本が抱えられている。月明かりが彼女の亜麻色の髪を銀色に染め、いつになく真剣な表情を浮かび上がらせていた。


「夜分に申し訳ありません」シルヴィアは静かに言った。「でも、もうこれ以上待てないと思いまして」


イリスは黙って頷いた。彼女の心は、まだ父とのいさかいの余韻にれていた。ヴァルトの護符ごふを奪われ、そして恐ろしい真実を知らされた夜——母の異能、そして自分自身のこの力が、母を滅ぼしたという事実。


「母のことを、話してくれるの?」イリスは小さな声で尋ねた。


シルヴィアは彼女の横に座り、持ってきた木箱をひざの上に置いた。「はい。もうずっと前から、お話しするべきだったのかもしれません」


イリスは箱を見つめた。「それは…?」


「お母様からの遺品いひんです」シルヴィアは静かに言った。「亡くなる前日、私にたくされたものです」


イリスの胸が高鳴った。母からの遺品——彼女が記憶にないほど幼い頃に失った母からの最後のメッセージ。


「なぜ今まで…?」


「侯爵様の命令でした」シルヴィアの目にうれいの色が浮かんだ。「お嬢様が十八歳になるまで、または『あの力』が目覚めるまで、決して見せるなと」


「でも、なぜ?」


シルヴィアは小さく息を吐いた。「長い話になります。まずは、これをご覧ください」


彼女は箱のかぎを開け、中から小さなロケットと一枚の手紙を取り出した。ロケットは銀色の楕円形だえんけいで、繊細な模様が刻まれている。


「お母様が常にいていたものです」


イリスは震える手でロケットを受け取った。「開けても…?」


「どうぞ」


カチリという小さな音と共に、ロケットが開いた。中には小さな肖像画が収められていた。若く美しい女性が、赤ん坊を抱いている絵。その女性の紫紺しこんの瞳は、イリスそっくりだった。


「母…」イリスの目に涙が浮かんだ。


「エリザベス・ノクターン」シルヴィアの声が柔らかくなった。「あなたにそっくりでしょう?いいえ、あなたが彼女にそっくりなのですね」


ロケットのもう一方には、小さな薄紫うすむらさき結晶けっしょうめ込まれていた。


「これは?」


異能石いのうせき欠片かけらです」シルヴィアは静かに説明した。「お母様の力の一部が宿やどっています」


イリスは息を呑んだ。「母の…力?」


「そう」シルヴィアはイリスの目をまっすぐ見た。「お母様も同じ力を持っていました。感情を形にする力、物を動かし、光を放つ力——あなたと全く同じものを」


イリスはロケットを胸に抱きしめた。「父が言っていたことは本当なの?母は自分の力で…」


「侯爵様の言葉は半分だけ真実です」シルヴィアはきっぱりと言った。「確かにお母様は、最後に力を暴走ぼうそうさせました。でも、それは自らを滅ぼしたのではなく…」彼女は一瞬躊躇ちゅうちょした。「あなたを守るためだったのです」


「私を…守るため?」


「この手紙を読んでください」シルヴィアはふうされた手紙を差し出した。「お母様からのメッセージです」


イリスは慎重に封を切り、中の便箋びんせんを広げた。そこには繊細な筆跡で綴られた文字が並んでいた。


「声に出して読んでも?」彼女はシルヴィアを見た。


「どうぞ」


イリスは深呼吸をして、読み始めた。


「*愛しいイリスへ*


*この手紙を読んでいるあなたは、既に力に目覚め始めていることでしょう。私たちの血にながれる『感情を形にする力』に。*


*まず、あなたに伝えたいことがあります。あなたが持つその力は、決して呪いではありません。それはおくり物です。ただ、使い方を間違えれば、自分自身も、大切な人もきずつける諸刃のつるぎとなる。*


*私があなたの前から去らなければならなかったのは、あなたを王宮の手から守るためでした。私たちの力は、王国にとって垂涎すいぜんの的なのです。彼らはその力を兵器へいきとして利用しようとしている。あなたの父は、それを許してしまった。*


*だから私は、自分の命と引き換えに、あなたの力を封印ふういんすることを選びました。その猶予ゆうよが、今、きようとしています。*


*イリス、私から最後に贈る教えです。感情を抑え込むのではなく、受け入れなさい。喜びも、悲しみも、怒りも、全てを。そして何より、愛することを恐れないで。*


*あなたの力の真髄は『愛』なのですから。*


*いつでもあなたと共に*

*母より*」


イリスの声が震え、最後の言葉で途切れた。涙が頬を伝い、手紙の上に落ちる。


「母は…私を守るために…」


「そうです」シルヴィアは優しく言った。「お母様は自分の命を犠牲ぎせいにして、あなたの力を一時的に抑えるじゅつほどこされたのです。それが、この十二年間じゅうにねんかん、あなたが感情を表に出せなかった理由でもあります」


「でも、なぜ父は私に本当のことを話さなかったの?」


シルヴィアは少し考え、慎重に言葉を選んだ。「侯爵様は…あなたのお母様を、心から愛していました。その死が与えた衝撃しょうげきは計り知れません。彼は悲しみのあまり、その力を恐れるようになったのです」


イリスは静かに窓の外を見た。星の瞬きが彼女の涙に反射はんしゃする。


「でも、それだけではない」彼女は小さく言った。「父は私を『売る』つもりだった。母が言うように…」


シルヴィアは長い間黙っていた。「…お察しの通りです」彼女はついに認めた。「侯爵様は王宮と交渉していました。あなたの力が目覚めたら、王に献上けんじょうするという約束を」


その言葉に、イリスの中で何かがこおりついた。「私を…物のように?」


「王家は古来より、異能者を支配しはいしようとしてきました」シルヴィアは説明した。「特に、感情を操る力は最も希少きしょうで危険とされています。敵の軍隊を恐怖で萎縮いしゅくさせたり、味方の士気を高めたり…」


「戦争の道具として…」イリスの声が冷たくなった。


「ですが、お母様はそれをこばみました」シルヴィアは続けた。「あなたにはそんな人生を送ってほしくないと」


「だから、自分の命と引き換えに私を守った…」


「そして、私にたくされたのです」シルヴィアはロケットを指さした。「それを持っていれば、あなたは力を制御せいぎょする助けになると」


イリスはロケットを見つめた。中の紫色の結晶が、かすかに脈打っているように見える。


「これで、私の力を制御できるの?」


「完全にではありません」シルヴィアは首を振った。「それは、あなた自身の覚悟かくご次第です。お母様は言っていました——『感情を封じるのではなく、受け入れること』が鍵だと」


イリスはヴァルトの言葉を思い出した。彼もまた、同じことを彼女に教えていた。感情と向き合い、それを受け入れること。


「ヴァルトも…同じことを言っていた」彼女は静かに言った。「彼は知っていたの?」


「いいえ」シルヴィアは微笑んだ。「彼は本能的に、あなたに必要なことを理解していたのでしょう。獣人には、人間には見えない何かが見える場合があります」


「ヴァルト…」イリスは胸に痛みを感じた。彼がいなければ、彼女はきっと今頃、力にみ込まれていただろう。「彼は今、どこにいるのかしら」


「王都で、ラヴェンデル男爵の屋敷に」シルヴィアは心配そうに言った。「あそこは…異能者を狩る者たちの巣窟そうくつです」


「なんですって?」イリスの顔から血の気が引いた。「父は、わざとヴァルトを危険な場所に…?」


「おそらく」シルヴィアは静かに認めた。「侯爵様はヴァルトさんがあなたの力に気づいているとにらんだのでしょう。だから、彼を遠ざけようとした」


イリスは立ち上がり、窓際に歩み寄った。夜空に浮かぶ月を見つめながら、彼女の心に決意が固まっていく。


「シルヴィア」彼女は振り返った。「母は他に何か言っていた?私は…どうすればいいの?」


シルヴィアは革表紙の本を手に取った。「これは、お母様の日記にっきです。この中に、あなたの力について、そして『愛』によってそれを制御せいぎょする方法が書かれています」


「愛…」イリスはその言葉を噛みしめた。


「そして、もう一つ」シルヴィアは真剣な表情で言った。「お母様は、あなたがいつか『選択』を迫られると予言しました。その時は、心に正直に選びなさいと」


「選択?」


「愛する者のためにその力を使うか、それとも…」シルヴィアは言葉を選ぶようにを置いた。「全てを捨てて逃げるか」


イリスの心に、セドリックの言葉がよみがえった。国を出て、自由を手に入れる計画。それが母の言う「選択」なのだろうか。


「シルヴィア」イリスは決意を込めて言った。「明日からの別荘行きの準備を手伝って」


「お嬢様」シルヴィアの目に驚きが浮かんだ。「本当に行くおつもりですか?」


「ええ」イリスはきっぱりと言った。「そして、その前に王都へも」


「王都へ?」シルヴィアは息を呑んだ。「それは…」


「ヴァルトを助けなければ」イリスの目に強い光が宿った。「父が彼を危険な場所に送ったのなら、私がそこから連れ出す」


「それは危険すぎます」シルヴィアは心配そうに言った。「もしあなたの力が暴走したら…」


「だからこそ」イリスはロケットをにぎりしめた。「母の遺志を受け継がなくては。感情と向き合い、受け入れる。そして…」彼女は少し躊躇ちゅうちょした後、続けた。「愛する人のために、この力を使う」


シルヴィアの表情が変わった。彼女の目に理解と決意の色が浮かぶ。「わかりました。お手伝いします」


「本当に?」


「お母様の真の願いは、あなたが自分の道を選ぶことでした」シルヴィアは微笑んだ。「あなたが本当に望むなら、私はその側にいます」


イリスは彼女にけ寄り、抱きしめた。「ありがとう、シルヴィア」


シルヴィアは驚いたように彼女を見たが、やがて優しく抱き返した。「お嬢様…」


「私、これから何をすべきか教えて」イリスは真剣な表情で言った。「ヴァルトを助け、そしてこの力を制御するには」


シルヴィアは頷き、再び革表紙の本を開いた。


「まず、お母様の日記から読みましょう」彼女はページをめくった。「それから、王都へ行く計画を立てます。ただし、侯爵様に気づかれないよう、慎重に」


イリスは母の日記を受け取り、その触感しょっかんに心が震えた。これは母からの最後のおくり物。そして、彼女の運命を変える鍵になるかもしれない。


夜が更けていくにつれ、イリスとシルヴィアは小さなあかりのもとで計画を練り続けた。母の日記には、彼女の力の本質と、それを制御する方法が記されていた。そして何より、イリスが知らなかった母の素顔——強く、優しく、そして何よりも愛にちた女性の姿が。


「母さん…」イリスは日記の最後のページをでた。そこには、彼女への最後のメッセージが記されていた。


「*イリス、あなたの人生は、あなた自身のもの。決して誰かの人形になってはいけない。感情を恐れず、愛することを恐れず、そして何より、自分自身であることを恐れないで。私はいつでも、あなたと共にいます。*」


その言葉と共に、彼女の指先から微かな紫色の光が漏れた。しかし今回は、恐怖ではなく、決意と愛情から生まれた暖かな光だった。


「お嬢様」シルヴィアが静かに微笑んだ。「お母様の力が、あなたの中で目覚め始めています」


イリスは光る指先を見つめ、小さく頷いた。「これから始まるのね。本当の旅が」


窓の外では、夜明けの光が少しずつ東の空を染め始めていた。新しい日の始まりと共に、イリスの新たな人生も始まろうとしていた。


人形姫が、自らの意志で動き出す時が来たのだ。

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