朝の光が窓から
イリスはベッドに腰かけ、一晩中読み続けていた日記の最後のページを
「お母様…こんなにも強い人だったなんて」
イリスは日記に
日記の内容は、イリスの知らなかった母の姿を
「お嬢様、朝食の準備ができました」
静かなノックと共に、シルヴィアの声が聞こえた。
「入って」イリスは日記から顔を上げた。
シルヴィアが部屋に入ると、彼女の表情が一瞬だけ
「お嬢様、お休みになられませんでしたね」心配そうな声で言った。
「ええ、でも大丈夫よ」イリスは小さく微笑んだ。「母の言葉に
シルヴィアは彼女の横に座り、そっと日記帳に目をやった。「何か発見がありましたか?」
「ええ、たくさん」イリスは頷いた。「特に、これ」
彼女は日記の特定のページを開き、シルヴィアに見せた。そこには、十年以上前の日付と共に、こう書かれていた。
「*今日、イリスが初めて笑った。あの小さな唇が
*もしかしたら—これが鍵なのかもしれない。『笑顔』という単純なもの。感情の中でも最も純粋な形。*
*イリスよ、どうか笑って生きてほしい。それが、この呪われた血の救いになるのだから—*」
「笑顔…」シルヴィアは思わず
「どういう意味?」イリスは首を傾げた。
シルヴィアは深呼吸をして、静かに説明し始めた。「お母様は、亡くなる前にもそう言っていました。『イリスには笑顔を教えて』と」
「でも」イリスの表情が
「はい」シルヴィアの声に
「全く正反対ね」イリスは
「お父様なりの愛情だったのでしょう」シルヴィアは言いながらも、その声には
イリスは母の日記のもう一箇所を指でなぞった。「ここにも書いてある。『感情を殺せば力も死ぬが、魂も同時に死んでしまう』って」
彼女は窓際に立ち、庭の薔薇を見つめた。朝露に濡れた花弁が朝日を受けて輝いている。
「だから私は…ずっと自分の心も殺していたのね」
「お嬢様…」
「笑うことさえ、禁じられていた」イリスの声は静かだったが、その中に
「何をですか?」
「感情を受け入れろと教えてくれた」イリスは振り返り、シルヴィアをまっすぐ見た。「まるで母の遺志を知っていたかのように」
シルヴィアは静かに微笑んだ。「彼は直感的に正しいことを理解していたのでしょう。それが彼の
「ユナも」イリスはふと思い出したように言った。「いつも笑顔で私に接してくれた。だから私の心は、少しずつ…」
言葉にならない感情が胸に
不思議なことに、光は消えるどころか、より
「お嬢様!」シルヴィアが驚きの声を上げた。「それは…」
「怖くないわ」イリスは自分の手を見つめた。「むしろ、心地いい」
「お母様の言う通りだわ」シルヴィアは感嘆の声で言った。「幸せな感情が、力を安定させるのですね」
イリスはゆっくりと手を動かし、光の
「コントロールできるわ」彼女の声には驚きと喜びが混じっていた。「少なくとも、今は」
シルヴィアが小さく
イリスは光を消し、頷いた。「そうね。計画を立てなくちゃ」
彼女はシルヴィアと共に朝食の席に着きながら、昨晩立てた
「今日のご予定ですが」シルヴィアが正式な口調で言った。「午前中はピアノのレッスン、午後は…」
「レッスンはちゃんと受けるわ」イリスは小声で言った。「疑われないように」
シルヴィアは小さく頷いた。「明日の別荘行きの準備は、ほぼ整っています。侯爵様は今朝、執務で王都に出向いておられます」
「いつ戻るの?」
「夕刻の予定です」シルヴィアは言い、周囲を確認してから声を潜めた。「だから、今日が唯一のチャンスです」
イリスは紅茶のカップを置き、決意を込めて言った。「では、計画通りに」
「お嬢様」シルヴィアの表情が真剣になった。「本当に行くおつもりですか?危険が多すぎます」
「ヴァルトが危険な場所にいるのよ」イリスはきっぱりと言った。「もし彼が、私のために送り込まれたのなら…私が救わなくちゃ」
シルヴィアは長い間黙っていた。そして、ついに
「何?」
「まず、私たちは正午までに戻らなければなりません」シルヴィアは指を立てて数え始めた。「次に、もし危険を感じたら、即座に引き返す。そして最後に…」
彼女は真剣な目でイリスを見た。「異能は絶対に使わないこと。少なくとも、王都の中では」
「わかった」イリスは頷いた。「約束するわ」
「でも、どうやって侯爵邸から抜け出すの?」シルヴィアが心配そうに言った。「門は厳重に警備されています」
イリスは微かに微笑んだ。「その点はもう解決したわ」
「え?」
「朝早く、ユナに会っておいたの」イリスは小声で説明した。「母の日記によると、この屋敷には使用人だけが知る秘密の通路があるらしいわ」
シルヴィアの目が見開かれた。「まさか…地下の通路ですか?」
「知ってたの?」
「噂には聞いていました」シルヴィアが
イリスは少し
「ユナに協力を頼んだのですか?」シルヴィアの声は
「彼女には詳しいことは言っていないわ」イリスは急いで説明した。「ただ、大切な用事があって、誰にも知られずに屋敷を出たいと」
「そして彼女は…」
「即座に教えてくれたわ」イリスの口元に小さな笑みが浮かんだ。「『お嬢様がそこまで言うなら、絶対に大切なことなんですよね!』って」
シルヴィアは頭を
「そうね、素直すぎるところがあるわ」イリスも
朝食を終え、イリスは部屋に戻って準備を始めた。旅支度とは言っても、何も持てない。疑われないためには、通常の活動を装わなければならない。
午前のピアノレッスンの時間が近づくと、イリスは母のロケットを首にかけ、その上から普段の
「もうすぐよ、ヴァルト」彼女は窓の向こうに広がる空を見上げながら
ピアノレッスンは例の如く厳格に行われた。イリスはいつもより集中して弾き、先生を
「今日は特に良い出来ですね、イリス嬢」年配の先生が珍しく褒めた。「何か良いことでもありましたか?」
「いいえ、特には」イリスは
「ああ、そうでしたね」先生は頷いた。「ロシュフォール家の別荘は
「ありがとうございます」
レッスンが終わると、イリスは急ぎ足で書庫へと向かった。約束の時刻まであと二十分——シルヴィアと合流し、秘密の通路を抜け、王都へ向かう
書庫は朝の静けさに包まれていた。イリスはユナの説明通り、東の壁にある特定の
「さすがユナ、正確ね」イリスは感心しながら
書架がわずかに動き、その奥に
「お嬢様」
背後から聞こえた声に、イリスは
「準備はいいですか?」シルヴィアが小声で尋ねた。
「ええ」イリスは頷いた。「行きましょう」
二人は秘密の階段を降り始めた。イリスの手に持った
「この通路はどこに繋がっているの?」イリスが小声で尋ねた。
「屋敷から約二百
「母も知っていたのかしら?」
「おそらく」シルヴィアの声が
通路は意外なほど長く続いた。
ついに、上へと
「ここからは森の中です」シルヴィアが扉に手をかけながら言った。「気をつけて」
扉が開くと、目を
「無事に出られたわね」イリスは安堵のため息をついた。
「まだ安心はできません」シルヴィアは周囲を警戒しながら言った。「ここからは急ぎましょう」
二人は森の中の小道を通り、約束の場所へと急いだ。そこには、シルヴィアが手配した質素な
「王都までお願いします」シルヴィアが少し
「承知した」御者は無
シルヴィアは鞄から簡素な服を取り出した。「お嬢様、これに着替えてください」
イリスはその服を見て、少し
「これを着るの?」
「目立たないためです」シルヴィアは真剣な表情で言った。「王都では、誰もがお嬢様の顔を知っています」
イリスは頷き、馬車の中で素早く着替えた。上品な
「髪も少し
彼女が差し出したのは、
「髪の色を隠すために」
イリスは素直に頭巾を被った。鏡がなくても、今の自分が貴族の令嬢には見えないことはわかった。
「これで大丈夫かしら?」
「十分です」シルヴィアも同様に質素な服に着替え、
馬車は
「待っていて、ヴァルト」
かつて感情を抑え込み、人形のように生きることを余儀なくされていた彼女が、今、自分の意志で行動していた。母の日記に残された「笑って」という言葉と、ヴァルトへの想いが、彼女を動かしていた。
馬車は揺れながら、王都へと向かって走り続けた。イリスの