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Section7-2:日記帳に残された「笑って」との言葉

朝の光が窓からし込み、母の日記帳の革表紙をやわらかく照らしていた。


イリスはベッドに腰かけ、一晩中読み続けていた日記の最後のページをめくっていた。目の下には、寝不足のあわかげが落ちている。それでも彼女の紫紺しこんの瞳は、これまでにないほど生き生きと輝いていた。


「お母様…こんなにも強い人だったなんて」


イリスは日記につづられた文字を指でなぞった。優雅な筆跡は、どこか自分のものに似ていた。血は確かに繋がっているのだと、改めて実感する。


日記の内容は、イリスの知らなかった母の姿を鮮明せんめいに描き出していた。異能いのうの力に翻弄ほんろうされながらも、決して諦めず、最後まで自分の意志を貫いた強い女性。そして何より、イリスをこよなく愛していた母親の姿が。


「お嬢様、朝食の準備ができました」


静かなノックと共に、シルヴィアの声が聞こえた。


「入って」イリスは日記から顔を上げた。


シルヴィアが部屋に入ると、彼女の表情が一瞬だけくもった。イリスが一睡もしていないことは、彼女の目には明白めいはくだった。


「お嬢様、お休みになられませんでしたね」心配そうな声で言った。


「ええ、でも大丈夫よ」イリスは小さく微笑んだ。「母の言葉に魅入みいられてしまって」


シルヴィアは彼女の横に座り、そっと日記帳に目をやった。「何か発見がありましたか?」


「ええ、たくさん」イリスは頷いた。「特に、これ」


彼女は日記の特定のページを開き、シルヴィアに見せた。そこには、十年以上前の日付と共に、こう書かれていた。


「*今日、イリスが初めて笑った。あの小さな唇がを描き、澄んだ声で笑う姿は、この世の何よりも美しい。彼女の笑顔が、私の力を安定させる。不思議なことに、彼女が笑うとき、私の中の渦巻うずまく力が静まるのだ。*


*もしかしたら—これが鍵なのかもしれない。『笑顔』という単純なもの。感情の中でも最も純粋な形。*


*イリスよ、どうか笑って生きてほしい。それが、この呪われた血の救いになるのだから—*」


「笑顔…」シルヴィアは思わずつぶやいた。「そうだったのですね」


「どういう意味?」イリスは首を傾げた。


シルヴィアは深呼吸をして、静かに説明し始めた。「お母様は、亡くなる前にもそう言っていました。『イリスには笑顔を教えて』と」


「でも」イリスの表情がくもった。「父は逆のことを…」


「はい」シルヴィアの声に苦悩くのうが滲んだ。「侯爵様は、お嬢様の感情をふうじることこそが、異能を抑える方法だと信じていたのです」


「全く正反対ね」イリスはなげくように言った。


「お父様なりの愛情だったのでしょう」シルヴィアは言いながらも、その声にはかすかならぎがあった。「お嬢様の異能が暴走することを恐れて…」


イリスは母の日記のもう一箇所を指でなぞった。「ここにも書いてある。『感情を殺せば力も死ぬが、魂も同時に死んでしまう』って」


彼女は窓際に立ち、庭の薔薇を見つめた。朝露に濡れた花弁が朝日を受けて輝いている。


「だから私は…ずっと自分の心も殺していたのね」


「お嬢様…」


「笑うことさえ、禁じられていた」イリスの声は静かだったが、その中にひそめた怒りが感じられた。「それなのに、ヴァルトは私に…」


「何をですか?」


「感情を受け入れろと教えてくれた」イリスは振り返り、シルヴィアをまっすぐ見た。「まるで母の遺志を知っていたかのように」


シルヴィアは静かに微笑んだ。「彼は直感的に正しいことを理解していたのでしょう。それが彼の天性てんせいなのかもしれません」


「ユナも」イリスはふと思い出したように言った。「いつも笑顔で私に接してくれた。だから私の心は、少しずつ…」


言葉にならない感情が胸にあふれ、イリスの指先から微かな紫色の光が漏れ始めた。彼女はすぐに気づき、母が日記に書いていた通りの呼吸法こきゅうほうを試みた。ゆっくりと息を吸い、その間に幸せな記憶を思い浮かべる——ヴァルトと見たすみれの花畑、ユナの誕生日に贈った花束、シルヴィアとの静かな読書の時間。


不思議なことに、光は消えるどころか、よりおだやかな明るさへと変わっていった。


「お嬢様!」シルヴィアが驚きの声を上げた。「それは…」


「怖くないわ」イリスは自分の手を見つめた。「むしろ、心地いい」


「お母様の言う通りだわ」シルヴィアは感嘆の声で言った。「幸せな感情が、力を安定させるのですね」


イリスはゆっくりと手を動かし、光のながれを操ってみた。紫色の光は彼女の意思に従い、空中で優雅な円を描いた。


「コントロールできるわ」彼女の声には驚きと喜びが混じっていた。「少なくとも、今は」


シルヴィアが小さくせき払いをした。「お嬢様、朝食を取りましょう。今日は長い一日になります」


イリスは光を消し、頷いた。「そうね。計画を立てなくちゃ」


彼女はシルヴィアと共に朝食の席に着きながら、昨晩立てた無謀むぼうとも言える計画について考えていた。エドガー侯爵の目を盗み、王都へ向かう——そして、ラヴェンデル男爵邸からヴァルトを救い出す。


「今日のご予定ですが」シルヴィアが正式な口調で言った。「午前中はピアノのレッスン、午後は…」


「レッスンはちゃんと受けるわ」イリスは小声で言った。「疑われないように」


シルヴィアは小さく頷いた。「明日の別荘行きの準備は、ほぼ整っています。侯爵様は今朝、執務で王都に出向いておられます」


「いつ戻るの?」


「夕刻の予定です」シルヴィアは言い、周囲を確認してから声を潜めた。「だから、今日が唯一のチャンスです」


イリスは紅茶のカップを置き、決意を込めて言った。「では、計画通りに」


「お嬢様」シルヴィアの表情が真剣になった。「本当に行くおつもりですか?危険が多すぎます」


「ヴァルトが危険な場所にいるのよ」イリスはきっぱりと言った。「もし彼が、私のために送り込まれたのなら…私が救わなくちゃ」


シルヴィアは長い間黙っていた。そして、ついにあきらめたように息を吐いた。「わかりました。ですが、厳しい条件があります」


「何?」


「まず、私たちは正午までに戻らなければなりません」シルヴィアは指を立てて数え始めた。「次に、もし危険を感じたら、即座に引き返す。そして最後に…」


彼女は真剣な目でイリスを見た。「異能は絶対に使わないこと。少なくとも、王都の中では」


「わかった」イリスは頷いた。「約束するわ」


「でも、どうやって侯爵邸から抜け出すの?」シルヴィアが心配そうに言った。「門は厳重に警備されています」


イリスは微かに微笑んだ。「その点はもう解決したわ」


「え?」


「朝早く、ユナに会っておいたの」イリスは小声で説明した。「母の日記によると、この屋敷には使用人だけが知る秘密の通路があるらしいわ」


シルヴィアの目が見開かれた。「まさか…地下の通路ですか?」


「知ってたの?」


「噂には聞いていました」シルヴィアがつぶやいた。「でも、本当だとは…」


イリスは少し得意気とくいげに頷いた。「ユナが教えてくれたわ。屋敷の東の翼、書庫の奥から地下に通じているって」


「ユナに協力を頼んだのですか?」シルヴィアの声は心配しんぱいおどろきが混じっていた。


「彼女には詳しいことは言っていないわ」イリスは急いで説明した。「ただ、大切な用事があって、誰にも知られずに屋敷を出たいと」


「そして彼女は…」


「即座に教えてくれたわ」イリスの口元に小さな笑みが浮かんだ。「『お嬢様がそこまで言うなら、絶対に大切なことなんですよね!』って」


シルヴィアは頭をかるく振った。「ユナはいつも…」


「そうね、素直すぎるところがあるわ」イリスもうなずいた。「でも、だからこそ彼女は貴重な存在なの」


朝食を終え、イリスは部屋に戻って準備を始めた。旅支度とは言っても、何も持てない。疑われないためには、通常の活動を装わなければならない。


午前のピアノレッスンの時間が近づくと、イリスは母のロケットを首にかけ、その上から普段の頸飾くびかざりを付けた。ロケットが胸元にあたたかく触れる感覚に、なぜか勇気ゆうきをもらった気がした。


「もうすぐよ、ヴァルト」彼女は窓の向こうに広がる空を見上げながらつぶやいた。「待っていて」


ピアノレッスンは例の如く厳格に行われた。イリスはいつもより集中して弾き、先生をうたがわせない演奏をした。しかし、心の中では常に時計の針を気にしていた。


「今日は特に良い出来ですね、イリス嬢」年配の先生が珍しく褒めた。「何か良いことでもありましたか?」


「いいえ、特には」イリスは上品じょうひんに微笑んだ。「明日から別荘に行くので、少し気分が高揚こうようしているのかもしれません」


「ああ、そうでしたね」先生は頷いた。「ロシュフォール家の別荘は素晴すばらしいと聞きます。お嬢様にとって素敵な時間になるといいですね」


「ありがとうございます」


レッスンが終わると、イリスは急ぎ足で書庫へと向かった。約束の時刻まであと二十分——シルヴィアと合流し、秘密の通路を抜け、王都へ向かう馬車ばしゃに乗り込まなければならない。


書庫は朝の静けさに包まれていた。イリスはユナの説明通り、東の壁にある特定の書架しょかに向かった。そこの第三だんにある赤い革表紙の本を引くと、小さな機構きこうが作動する音がした。


「さすがユナ、正確ね」イリスは感心しながらつぶやいた。


書架がわずかに動き、その奥にかくされた小さな扉が現れた。イリスはそっと扉を開け、中を覗き込んだ。暗い階段かいだんが地下へと続いている。


「お嬢様」


背後から聞こえた声に、イリスはび上がりそうになった。振り返ると、シルヴィアが立っていた。彼女は普段とは違う質素しそな服装をし、小さなかばんを持っていた。


「準備はいいですか?」シルヴィアが小声で尋ねた。


「ええ」イリスは頷いた。「行きましょう」


二人は秘密の階段を降り始めた。イリスの手に持った燭台しょくだいの光だけが、彼女たちの行く手を照らしている。湿しめった空気と、古い石材せきざいの匂いが鼻をつく。


「この通路はどこに繋がっているの?」イリスが小声で尋ねた。


「屋敷から約二百ほど離れた、森の中の小屋こやです」シルヴィアが説明した。「昔は非常時の避難経路ひなんけいろとして使われていたそうです」


「母も知っていたのかしら?」


「おそらく」シルヴィアの声がやわらかくなった。「日記に書かれていたということは」


通路は意外なほど長く続いた。屈曲くっきょくを幾つも曲がり、時には急な勾配こうばいを登ったり下ったりしながら、二人は黙々と歩き続けた。


ついに、上へとびる階段が見えてきた。そして階段のいただきには、小さな木の扉が。


「ここからは森の中です」シルヴィアが扉に手をかけながら言った。「気をつけて」


扉が開くと、目をくらませるような光がし込んできた。森の木漏こもれ日が、緑のかげを揺らしている。


「無事に出られたわね」イリスは安堵のため息をついた。


「まだ安心はできません」シルヴィアは周囲を警戒しながら言った。「ここからは急ぎましょう」


二人は森の中の小道を通り、約束の場所へと急いだ。そこには、シルヴィアが手配した質素な四輪馬車よんりんばしゃが待っていた。御者は薄汚うすぎたない服を着た中年の男で、貴族の屋敷から逃げ出した使用人を乗せているとは思えないような、無関心むかんしんな表情をしていた。


「王都までお願いします」シルヴィアが少し緊張きんちょうした様子で言った。「急ぎの用です」


「承知した」御者は無愛想あいそうに頷いた。「だが、目立つような服装だな。変えた方がいいぜ」


シルヴィアは鞄から簡素な服を取り出した。「お嬢様、これに着替えてください」


イリスはその服を見て、少し戸惑とまどった。それは普段彼女が見たこともないような質素な布地ぬのじの服——商家しょうかの娘といった風情のものだった。


「これを着るの?」


「目立たないためです」シルヴィアは真剣な表情で言った。「王都では、誰もがお嬢様の顔を知っています」


イリスは頷き、馬車の中で素早く着替えた。上品な外出着がいしゅつぎから質素な平服へいふくへ——見た目は確かに別人のように変わった。


「髪も少しくずしましょう」シルヴィアが彼女の白銀の髪に手を伸ばした。「そして、これを」


彼女が差し出したのは、薄茶色うすちゃいろ頭巾ずきんだった。


「髪の色を隠すために」


イリスは素直に頭巾を被った。鏡がなくても、今の自分が貴族の令嬢には見えないことはわかった。


「これで大丈夫かしら?」


「十分です」シルヴィアも同様に質素な服に着替え、身嗜みだしなみを整えた。「さあ、行きましょう」


馬車はきしむ音と共に動き出した。イリスは窓から見える景色を見つめながら、胸の内で何度も繰り返した。


「待っていて、ヴァルト」


かつて感情を抑え込み、人形のように生きることを余儀なくされていた彼女が、今、自分の意志で行動していた。母の日記に残された「笑って」という言葉と、ヴァルトへの想いが、彼女を動かしていた。


馬車は揺れながら、王都へと向かって走り続けた。イリスの冒険ぼうけんは、始まったばかりだった。

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