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Section7-3:異能の片鱗が暴走

王都リュミエールの街並みは、朝の喧騒に包まれていた。


馬車が石畳いしだたみの上を進むにつれ、イリスは窓から見える風景に息を呑んだ。色とりどりの旗が風に揺れ、魔法の灯りが店先を彩り、様々な人々が行き交う——彼女が舞踏会の夜に垣間見た世界が、今、目の前に広がっていた。


「王都は初めてではないはずですが」シルヴィアが彼女の驚いた様子を見て言った。「こんなに感動されるとは」


「違うのよ」イリスは小さく首を振った。「舞踏会の夜は、馬車の窓から見ただけだったわ。こうして、普通の人のように街を歩くなんて…」


彼女の言葉に、シルヴィアの表情がやわらかくなった。「お嬢様は決して"普通"ではありませんよ」


「今日だけは」イリスは頭巾をき寄せ、微笑んだ。「普通の女の子になりたいの」


質素しそな服装にを包み、頭巾で白銀の髪を隠したイリスは、確かにノクターン家の令嬢には見えなかった。それでも、そのりんとした佇まいと紫紺しこんの瞳の美しさは、容易に隠せるものではなかった。


「馬車はここで降ります」シルヴィアが御者に告げた。「目立つといけませんから」


御者は不機嫌そうに頷き、大通りから少し外れた小路こうじに馬車を止めた。


「正午には、この場所に戻ってきてくださいよ」彼は警告けいこくするように言った。「それ以上は待てねぇからな」


「わかっています」シルヴィアは小銭を数枚彼に渡した。「約束は守ります」


馬車から降りたイリスは、初めて自分の足で王都の石畳いしだたみを踏みしめた。その感触は、想像以上に固く、そして生々しかった。この街の現実性を、全身で感じる。


「シルヴィア」彼女は小声で尋ねた。「ラヴェンデル男爵邸はどこ?」


「王宮の北、貴族街きぞくがいの外れです」シルヴィアは周囲を見回しながら答えた。「すぐそこまでは行けませんが、できるだけ近くまで案内します」


二人は人混みに紛れて歩き始めた。朝の市場は活気に満ち、香辛料の匂いや商人のび声、子供たちの笑い声が入り混じっていた。イリスにとって、それは全く新しい経験だった。


「みんな、自由ね」彼女は周囲の人々を見ながらつぶやいた。


「自由に見えるだけかもしれません」シルヴィアは現実的な声で言った。「どんな人にも、それぞれのおりがあるものです」


「それでも、私の檻とは違うわ」イリスはきっぱりと言った。「彼らは、少なくとも自分で選んだ道を歩いている」


市場を抜け、彼女たちは徐々に高級こうきゅうな地区へと向かっていった。道は段々と広くなり、建物も豪奢ごうしゃになっていく。そして遂に、彼女たちは王宮の尖塔せんとうが見える大通りに出た。


「あれが王宮…」イリスは思わず足を止めた。


その壮麗そうれいな建物は、彼女が想像していたよりも遥かに荘厳そうごんで、そして威圧的いあつてきだった。白大理石の外壁がいへきに、七色に輝く魔法のまど。天を突く尖塔は、まるで雲をも支配しようとするかのようだ。


「父が私を献上しようとしていたのは、あそこ?」


「ええ」シルヴィアは苦々にがにがしい表情で頷いた。「『魔法技術院』という部署があります。異能者を…研究する場所です」


その言葉に、イリスの背筋にひやたいものが走った。研究——それは生体解剖せいたいかいぼうでもするのだろうか?彼女は不意に、自分の体が何か標本ひょうほんのように感じられた。


「急ぎましょう」シルヴィアが彼女の恐怖きょうふに気づいたのか、前に進むよう促した。「ラヴェンデル男爵邸はこの先です」


二人は大通りかられ、貴族街きぞくがいの縁を歩いた。やがて、黒い鉄柵に囲まれた屋敷やしきが見えてきた。そのうわ品さとは裏腹に、どことなく不吉なたたずまいを持つ邸宅。


「あれが…」


「ラヴェンデル男爵邸です」シルヴィアの声が緊張きんちょうを帯びた。「噂には聞いていましたが、実際に見ると確かに異様な雰囲気ふんいきですね」


屋敷の周りには、普通の邸宅ていたくよりも多くの衛兵が配置はいちされていた。彼らは皆、鋭利えいりな視線で周囲を警戒している。一般人が容易よういに近づける場所ではなさそうだった。


「ヴァルトはあの中に…」イリスの声が震えた。「どうやって助け出せばいいの?」


シルヴィアは深刻しんこくな表情で答えた。「これは想定以上に難しそうです。まずは情報収集を…」


その時、屋敷の門扉もんぴが開き、馬に乗った一団が出てきた。先頭を行く男は紫紺しこん軍服ぐんぷくに身を包み、冷酷な表情をしていた。


「あれが…」シルヴィアが息を呑んだ。「ラヴェンデル男爵です」


イリスは思わずひそめた。その男の目は、どこか父のそれを思わせる冷淡れいたんさを持っていた。だが、父とは違い、そこには明らかな残虐ざんぎゃくさが宿やどっている。


「どこかに行くのね」イリスは小声こごえで言った。


「魔法技術院の定例会議でしょう」シルヴィアが推測すいそくした。「毎週この時間にあるという噂を聞いたことがあります」


「ということは…」


「そう、チャンスです」シルヴィアが頷いた。「衛兵の数が少し減りました」


それでも、邸内に侵入しんにゅうするのは至難の業に思えた。イリスは頭巾ずきんの中でまゆしかめ、何か良い方法はないかと考え始めた。


「あの衛兵は…」彼女は突然、門の側にいる一人の男に目を留めた。「あれって…」


男は他の衛兵よりも一回り大きく、背筋せすじりんと伸ばして立っていた。距離があるため顔はよく見えないが、その佇まいは…


「ヴァルト!」イリスは思わず声を上げそうになり、シルヴィアにとがめられた。


「お嬢様、静かに!」


「でも、あの衛兵はヴァルトよ!」イリスは興奮こうふんして言った。「あの立ち方、私が見間違えるはずがないわ」


シルヴィアはうたがわしげに門を見た。「確かに…似ていますね。でも、あんなところに普通に立っているなんて…」


「きっと任務中なのよ」イリスの目が希望に満ちて輝いた。「これなら…」


彼女は周囲を見回し、考えをめぐらせた。そして、決意を固めたように言った。


「私が彼を呼び出すわ」


「何ですって?」シルヴィアが驚いて振り返った。「どうやって?」


「あそこ」イリスは路地ろじの向かいにある小さな茶店を指さした。「あの店で待っていれば、彼の視界に入るはず」


「でも、もし違う人だったら?」


「違わないわ」イリスは確信に満ちた声で言った。「私には、わかるの」


シルヴィアは躊躇ちゅうちょしたが、最終的に頷いた。「わかりました。でも、見つかったらすぐに逃げますよ?」


二人は路地ろじを横切り、茶店にすべり込んだ。窓際の席に座れば、ちょうど門が見える。イリスはお茶を注文し、頭巾ずきんを少しだけずらして、白銀の髪の一部をのぞかせた。


「本当にこれで気づいてくれるかしら…」


「あの男がヴァルトさんなら」シルヴィアは静かに言った。「必ず気づくでしょう。彼はあなたのことをいつも見ていましたから」


その言葉に、イリスの頬が熱くなった。彼女は急いでお茶に口をつけ、その熱さで誤魔化そうとした。


時間はゆっくりと過ぎていく。イリスの目は、門に立つ衛兵から一瞬も離れなかった。彼が時々こちらを向くと、彼女はいのるような気持ちで待った。


「まだ気づいていないみたいね…」イリスは不安ふあんげに言った。


「辛抱強く」シルヴィアがなだめるように言った。「急いては…」


彼女の言葉が途切れた。門の衛兵が明らかに彼女たちの方を見て、硬直こうちょくしたのだ。


「気づいた!」イリスの声がはずんだ。


衛兵——ヴァルトに間違いない——は一瞬だけその場にこおりついたかのようだった。彼の顔の表情までは見えなかったが、そのたたずまいから驚きが伝わってきた。


「どうするの?」シルヴィアが緊張きんちょうした様子で尋ねた。「こちらに来るかしら?」


「わからないわ」イリスはいきを飲んで見つめた。「でも、きっと…」


ヴァルトは周囲の衛兵に何かを言うと、門をはなれて屋敷の横へと消えていった。


「あ!」イリスはち上がりかけて、シルヴィアに止められた。


「お嬢様、落ち着いて。彼が何か考えているのでしょう」


数分後、茶店の裏手うらてから小さな物音がした。


「お嬢様」


低い、しかし確かなヴァルトの声だった。イリスとシルヴィアは咄嗟とっさに店の裏へと回った。そこに、衛兵服を着たヴァルトが立っていた。


「ヴァルト!」イリスは思わず彼の名を呼んだ。


「イリス様、シルヴィア殿」彼の琥珀色の瞳に驚愕きょうがくの色が浮かんでいた。「なぜここに?」


「あなたを助けに来たのよ」イリスはきっぱりと言った。


「助ける?」ヴァルトの表情が複雑に変わった。「いいえ、逆です。あなたたちがここにいるのは危険すぎる。すぐに帰ってください」


「でも、ラヴェンデル男爵は異能者を狩る人よ」イリスは必死で説明した。「あなたが危ないと思って…」


「私は大丈夫です」ヴァルトは静かに言った。「むしろ、あなたこそが危険な状況です」


「どういう意味?」


ヴァルトは周囲を警戒けいかいし、三人がかくれるようにせま路地ろじの奥へと促した。


「ラヴェンデル男爵は確かに危険な人物です」彼は小声で説明した。「しかし、私が最も危惧しているのは、この任務の真の目的です」


「真の目的?」シルヴィアが尋ねた。


「ええ」ヴァルトの表情がきびしくなった。「私がここに送られたのは、罠だと気づきました。侯爵様は、私とラヴェンデル男爵を引き合わせることで、私の素性をあばこうとしているのです」


「素性?」イリスは混乱した。「あなたの何を?」


ヴァルトは一瞬躊躇ちゅうちょしたが、覚悟を決めたように話し始めた。


「私の出自は、実はラヴェンデル男爵と無関係ではないのです。十年前、彼が指揮しきした獣人討伐隊とうばつたいによって、私の一族は…」


「一族が?」イリスの目が見開かれた。


殲滅せんめつされました」ヴァルトの声は冷静だったが、その奥に深い痛みがにじんでいた。「私だけが生き残り、奴隷として売られたのです」


「そんな…」イリスは言葉を失った。「それで父は、わざとあなたをここへ…」


「はい。もし私が何か行動を起こせば、獣人としての本性ほんしょうが暴かれ、あなたのそばから永久に引き離される理由になる」ヴァルトは冷静に分析ぶんせきした。「それが侯爵様の狙いでしょう」


シルヴィアが重々しく頷いた。「それは十分にあり得ます」


イリスの中で、怒りがしずかにえ始めた。父の卑劣ひれつさにいきどおりを感じる。ヴァルトの過去かこの傷を利用するなんて。


「だから、お願いです」ヴァルトが切実な声で言った。「今すぐ屋敷に戻ってください。ここにいることが知られれば、あなたにとって危険です」


「でも、あなたは?」イリスは彼の目をまっすぐ見た。「本当に大丈夫なの?」


「私は任務を全うします」ヴァルトはきっぱりと言った。「そして必ず戻ります。約束した通りに」


イリスは躊躇ちゅうちょした。本当にヴァルトを置いていっていいのだろうか。だが、彼の決意に満ちた表情を見て、彼を信じることに決めた。


「わかったわ」彼女は小さく頷いた。「でも、何かあったらすぐに帰って来て。それが私の命令よ」


ヴァルトの表情がやわらかくなった。「かしこまりました、お嬢様」


「それから」イリスは胸元むなもとから銀のロケットを取り出した。「これを持っていて」


「これは?」ヴァルトが不思議ふしぎそうにロケットを見た。


「母のお守り」イリスは説明した。「私の力を安定させるものだけど…今はあなたに必要かもしれない」


「そんな大切なものを…」ヴァルトは躊躇ちゅうちょしたが、イリスの決意けついの表情に、あきらめたように受け取った。「必ず返します」


「約束ね」


彼らの指が一瞬触れ合ったとき、イリスの胸にあたたかい感覚が広がった。少しでもヴァルトと会えたことが、彼女の心をたしていた。


「さあ、もう行きましょう」シルヴィアが急かした。「時間が迫っています」


「ええ」イリスは名残惜しそうにヴァルトを見た。「気をつけて」


「あなたこそ」ヴァルトは丁重ていちょうに頭を下げた。「それから…」彼は少し躊躇ちゅうちょいがちに言葉を続けた。「笑顔を忘れないでください」


その言葉に、イリスは思わず微笑んだ。「ええ、母も同じことを言ってたわ」


ヴァルトの表情に戸惑とまどいが浮かんだが、すぐにやわらかな微笑みに変わった。「では、また」


彼は静かに路地を抜け、門へと戻っていった。イリスは彼の後ろ姿を見送りながら、心の中で誓った。


(必ず、また会いましょう)



馬車で屋敷に戻る道中、イリスの気持ちは複雑だった。ヴァルトをいてきた後悔こうかいと、彼が無事だったことへの安堵。そして、彼の悲しい過去を知った衝撃しょうげき


「シルヴィア」彼女は窓の外を見ながらつぶやいた。「なぜ父は、こんなことを…」


「侯爵様は」シルヴィアは慎重に言葉を選んだ。「自分の支配下にないものを恐れるのです。あなたの力も、ヴァルトさんの存在も、彼の統制とうせいおびやかすものだから」


「ヴァルトの一族が…全滅したなんて」イリスの声が震えた。「そんな痛みを抱えていたなんて知らなかった」


「彼は強い人です」シルヴィアはなぐさめるように言った。「だからこそ、あなたを守れるのでしょう」


イリスは胸元むなもとに手を当てた。ロケットを渡したことで、何か大切なものをうしなったような感覚があった。しかし同時に、それがヴァルトを守ることになるなら、喜んでささげられる。


「この気持ちは…」彼女は小さくつぶやいた。


「何ですか?」シルヴィアが尋ねた。


「何でもないわ」イリスは首を振った。まだ、この感情に名前をつける勇気がなかった。


屋敷が近づくと、彼女たちは馬車から降り、再び秘密の通路を通って書庫へと戻った。誰にも見られずに済んだのは幸運だった。


「お嬢様、すぐに普段の服に戻りましょう」シルヴィアは急かした。「午後のお茶会の時間です」


イリスは慌てて着替え、いつもの姿に戻った。しかし、心の中はもう二度と元には戻れないと感じていた。


午後のお茶会では、使用人たちが明日の別荘行きの最終確認をしていた。イリスは儀礼的ぎれいてきな会話をしながらも、心はヴァルトのことで一杯いっぱいだった。


「お嬢様、よろしいですか?」執事長シルクが彼女に話しかけた。「荷物の最終確認ですが…」


「ええ、もちろん」イリスは自動的に答えた。


お茶会が終わり、イリスは自室に戻った。窓際に立ち、遠く王都の方角を見つめる。


「明日、別荘に行くわ」彼女は決意けついを固めるようにつぶやいた。「そして…」


ノックの音がして、ユナが部屋に入ってきた。


「お嬢様!」彼女はいつもの明るい声で言った。「お荷物、もう一度確認させてくださいね!」


「ありがとう、ユナ」イリスは微笑んだ。


「あの、お嬢様」ユナは少し躊躇ちゅうちょいながら言った。「今朝は無事に…?」


「ええ」イリスは小声で答えた。「あなたのおかげよ」


ユナの顔が明るく輝いた。「お役に立てて嬉しいです!何があったのか知りませんけど、お嬢様の秘密ひみつ、絶対に守りますからね!」


その純真じゅんしんな笑顔に、イリスは心が温かくなるのを感じた。母の言った「笑顔」の力を、彼女は今、実感していた。


「ユナ」イリスはふと思いついたように言った。「明日の別荘行き、あなたも来る?」


「え?」ユナは驚いた表情をした。「私はお供する予定ではないんですが…」


「私が望めば、連れていけるはずよ」イリスはきっぱりと言った。「あなたに来てほしいの」


「本当ですか?!」ユナの目がかがやいた。「でも、どうしてですか?」


イリスは少し考え、それから正直に答えた。「あなたの笑顔が必要だから」


ユナの頬が赤く染まった。「お、お嬢様…」


「頼めるかしら?」


「はい!もちろんです!」ユナは嬉しそうにね上がりそうな勢いで答えた。「明日の朝までに準備しておきます!」


彼女が部屋を出ていくと、イリスは再び窓辺に立った。夕暮れのめる空を見つめながら、彼女の心はしずかに決意を固めていた。


(明日から、私の人生は変わる)


その時、突然、彼女の背後から声がした。


「イリス」


振り返ると、父エドガーが部屋の入口に立っていた。彼のするどい目は、まるでイリスの心の中まで見通みとおしているようだった。


「父上」イリスは咄嗟とっさかしらを下げた。「お帰りなさい」


「今日はどこかに出かけたようだな」エドガーの声には疑念ぎねんにじんでいた。


イリスの心臓がねた。「いいえ、ずっと屋敷にいました」


「そうか」エドガーは部屋に入ってきた。「だが、使用人の一人が、朝に書庫の秘密の通路が開いていたと報告してきたぞ」


イリスの血の気が引いた。誰かが見ていたのか。「それは…」


「真実を話せ」エドガーの声が鋭くなった。「お前はヴァルトに会いに行ったのか?」


彼女の沈黙ちんもくが、すべてを物語っていた。


「案の定か」エドガーの目が冷たく光った。「お前は自分が何をしているのかわかっているのか?あの獣人との接触は禁じたはずだ」


「ヴァルトは獣人ではありません」イリスは思わず反論はんろんした。「彼は私の執事であり、友人です」


「友人?」エドガーが冷笑れいしょうした。「貴族の令嬢が、下賎な獣人を友人と呼ぶか?」


「あなたが下賎なのよ!」イリスは思わず叫んだ。「ヴァルトの一族を殺し、彼を罠にかけようとしたあなたこそが!」


言い終わった瞬間、彼女は自分の言葉に愕然がくぜんとした。これまで父に向かって、こんな風に声を上げたことなど一度もなかった。


エドガーの顔が石膏像せっこうぞうのように硬直こうちょくした。


「なんだと?」彼の声はこおりよりも冷たく響いた。「お前はどこでそんな話を…」


「ヴァルトから聞いたわ」イリスは震える声でも、毅然きぜんと答えた。「彼の一族が、ラヴェンデル男爵の討伐隊とうばつたいに殺された話を」


エドガーの目が危険にほそめられた。「お前は本当に王都へ行ったのだな。あの獣に会いに」


「ええ」イリスはもうかくす必要を感じなかった。「そして、あなたが彼を罠にかけようとしていることも知ったわ」


「愚かな娘だ」エドガーがひくうなるように言った。「お前はそれほどまであの獣に心酔しんすいしているのか?」


「心酔なんかじゃない!」イリスの声があつを帯びた。「彼は唯一、私を人形じゃなく人間として見てくれる人よ!」


その言葉に、エドガーの表情が憤怒ふんぬに変わった。


「これは全て、あの獣の策略さくりゃくだ」彼はつばを飛ばすように言った。「お前の心をまどわせ、異能を覚醒かくせいさせるための…」


「違うわ!」イリスははげしく首を振った。「母が残した日記を読んだの。私の力は『感情を形にする力』。父はそれを恐れて、私をずっと人形のように扱ってきた」


「日記だと?」エドガーの顔から血の気が引いた。「シルヴィアが…」


「そうよ、シルヴィアが教えてくれたわ。母は自分の命と引き換えに、私の力を封印したのね」イリスは涙で続けた。「そして父は、その私を王宮に売ろうとしていた」


「黙れ!」エドガーが怒号どごうを上げた。「お前に何がわかる!その力は危険だ。コントロールできなければ、お前自身をほろぼすことになる!」


「だから母は言ったのよ」イリスは静かに、しかししんのある声で言った。「『感情を抑えるのではなく、受け入れなさい』って」


「お前の母は、その考えのせいで命を落としたのだ!」エドガーの声に苦悶くもんが混じった。「お前まで同じてつを踏むつもりか?」


「私は母とは違う」イリスは毅然きぜんと言った。「母の遺志を継ぎ、この力を正しく使う方法を学ぶわ」


「馬鹿な…」


「明日、別荘に行くわ」イリスはきっぱりと宣言した。「そして、自分の道を選ぶ」


父の顔色かおいろあお白くなった。「別荘に…?まさか、セドリックとの…」


「ええ、セドリックとの別荘行き」イリスは曖昧あいまいに答えた。彼女の胸の内では、まだはっきりとした計画は固まっていなかったが、一つだけ確かなことがあった——もう二度と、父のあやつり人形には戻らないということ。


「よく聞け、イリス」エドガーの声が急にち着きを取り戻した。「私がしてきたことは全て、お前のためだ。あの力は危険すぎる。いったん暴走ぼうそうすれば、二度と元には戻れない」


「だからこそ、私は自分で学ぶわ」イリスは静かに言った。「母の遺した道を」


緊張きんちょう感が二人の間にただよっていた。エドガーは長い間、黙って娘を見つめていた。


「明日、お前は別荘に行く」彼は最終的に言った。「そして、セドリックと過ごす。それが私の最後の命令だ」


「最後の?」


「ああ」エドガーの顔にあきらめの色が浮かんだ。「お前はもう、私の言うことなど聞くつもりはないようだからな」


彼はドアに向かって歩き出した。扉の前で立ち止まり、振り返らずに言った。


「お前の母も、最後はそうだった。誰の言うことも聞かず、自分の信じた道を行った」彼の声には皮肉ひにくと、どこかかなしみが混じっていた。「結果がどうなったか、お前は知らない」


ドアが閉まり、エドガーの足音がとおざかっていった。


イリスは硬直こうちょくしたまま、その場に立ち尽くしていた。父との対立たいりつが決定的になった今、彼女の中で何かがこわれたような感覚があった。しかし同時に、何か新しいものが芽生めばえ始めてもいた。


「母さん…」彼女は窓際に歩み寄り、途切とぎれた言葉をつぶやいた。


突然、彼女の指先から紫色の光が漏れ始めた。感情の高まりが、力をび覚ましたのだ。


「あっ…」


イリスは慌てて光をさえようとしたが、今回は違っていた。光は消えるどころか、彼女の全身へとひろがっていく。


「どうして…」


ロケットをヴァルトに渡してしまったせいだろうか。母の遺品いひんがなければ、力を抑制よくせいできないのだろうか。


紫色のもやが部屋中にただよい始め、小さな物が宙に浮かび上がった。ペンや紙切れ、化粧道具けしょうどうぐが空中でゆっくりと踊っている。


「落ち着いて…」イリスは自分じぶんに言い聞かせた。「母が教えてくれたように…」


彼女は目を閉じ、深呼吸しんこきゅうを始めた。幸せな記憶を思い浮かべようとする。ヴァルトとの菫の花畑、ユナの笑顔、シルヴィアの優しさ…


しかし、父とのいさかいの残像ざんぞうが、それらの記憶をしのけてしまう。怒りと悲しみが渦巻うずまき、光はさらに強まった。


「ダメ…」イリスはひたいに手を当てた。「止まって…」


部屋の窓硝子がらすきしむ音を立て始め、鏡台きょうだいの上の小物が激しくれた。彼女の感情が実体化し、周囲に影響えいきょうを及ぼし始めているのだ。


「お嬢様!」


慌ただしくドアが開き、シルヴィアが飛び込んできた。彼女の表情は愕然がくぜんとしていた。


「何が起きているの?」


「わからないの…」イリスの声が震えた。「力が、止まらなくて…」


シルヴィアは迷わず彼女の側に駆け寄り、両肩をしっかりとつかんだ。


「お嬢様、私の目を見てください」彼女の声は落ち着いていた。「母上様のことを思い出して。あなたは一人じゃないんですよ」


「母さん…」イリスはふるえるまぶたを開いた。


「そう、お母様はあなたを愛していました」シルヴィアがさとすように言った。「だからこそ、この力をたくしたのです。恐れる必要はありません」


「でも…」


「思い出してください」シルヴィアが真摯しんしな表情で言った。「お母様の日記に書かれていたこと。『笑顔』が鍵だと」


イリスは震える息を吐き、必死で笑顔を作ろうとした。しかし、口角を上げるだけで精一杯だった。


「そうじゃないんです」シルヴィアが優しく言った。「形だけではなく、心から…」


その時、突然ノックの音がして、ユナが慌てた様子で入ってきた。


「お嬢様!何が…」彼女は部屋の異様な光景に呆然ぼうぜんとした。


「ユナ!」シルヴィアが叫んだ。「お嬢様を笑わせて!」


「え?」ユナは一瞬戸惑とまどったが、すぐに明るい笑顔を浮かべた。「お嬢様、私、明日の準備で大変なことになっちゃったんですよ!何を持っていけばいいのかわからなくて、お洋服ようふくを全部り出したら、メアリーさんにおこられて、それであわてて戻そうとしたらころんじゃって…」


彼女のあわてふためく様子と、真剣しんけんなのに滑稽こっけいな表情に、イリスは思わず噴出ふきだした。


「ふっ…」


最初は小さなわらいだったが、ユナが大袈裟おおげさなジェスチャーで説明を続けるうちに、イリスのわらいは大きくなった。


「ははっ…本当に、あなたったら…」


笑いながら、イリスは気づいた。部屋中にただよっていた紫色の光が、徐々におだやかな色合いろあいいへと変わっていることに。宙に浮かんでいた物たちも、ゆっくりと元の場所へと戻り始めていた。


「継続して!」シルヴィアがユナにうながした。


ユナはさらに大仰おおぎょうな身りで、自分の失敗談を語り始めた。転んで顔に靴下くつしたがついてしまった話、台所だいどころどろを落としていたらスープ鍋に足をっ込んでしまった話など、次々と滑稽こっけいなエピソードを披露する。


イリスははらを抱えて笑い、紫色の光はついにやわらかなもやとなって彼女の周りにただようだけになった。


「ユナ…もう十分よ」彼女はいきを整えながら言った。「ありがとう…助かったわ」


「えっ?」ユナはくびかしげた。「何がどうなったんですか?」


シルヴィアがほっとした表情で説明した。「お嬢様の力が少し暴走していたの。でも、あなたのおかげで落ち着いたわ」


「私のおかげで?」ユナはまるくした。「どうして?」


「笑顔の力よ」イリスは優しく言った。「母が教えてくれたの」


ユナはまだ混乱こんらんした様子だったが、それでも嬉しそうにほおあからめた。「お役に立てて良かったです!」


イリスは立ち上がり、窓際に歩み寄った。紫色のもやは彼女の動きに合わせてれ、まるでやさしく彼女をつつみ込むように見えた。


「シルヴィア、明日のために、もう一度計画を確認かくにんしましょう」彼女は決意を込めて言った。


「はい」シルヴィアはうなずいた。「別荘への道中、最初の分岐点ぶんきてんで…」


彼女らは小声で話し始めた。ユナは完全に理解していないようだったが、それでも真剣な表情で二人の会話にみみかたむけていた。


窓の外では、夕陽が沈み、夜の帳が降り始めていた。イリスの異能は初めての暴走ぼうそうを経験したが、同時に彼女はその制御の鍵も見つけていた。


母の遺志——感情を受け入れ、笑顔を忘れないこと。

そしてヴァルトの教え——自分自身であることを恐れないこと。


これらをむねに刻みながら、イリスは明日への準備を続けた。彼女の人生の転機となる日が、いよいよせまっていた。

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