王都リュミエールの街並みは、朝の喧騒に包まれていた。
馬車が
「王都は初めてではないはずですが」シルヴィアが彼女の驚いた様子を見て言った。「こんなに感動されるとは」
「違うのよ」イリスは小さく首を振った。「舞踏会の夜は、馬車の窓から見ただけだったわ。こうして、普通の人のように街を歩くなんて…」
彼女の言葉に、シルヴィアの表情が
「今日だけは」イリスは頭巾を
「馬車はここで降ります」シルヴィアが御者に告げた。「目立つといけませんから」
御者は不機嫌そうに頷き、大通りから少し外れた
「正午には、この場所に戻ってきてくださいよ」彼は
「わかっています」シルヴィアは小銭を数枚彼に渡した。「約束は守ります」
馬車から降りたイリスは、初めて自分の足で王都の
「シルヴィア」彼女は小声で尋ねた。「ラヴェンデル男爵邸はどこ?」
「王宮の北、
二人は人混みに紛れて歩き始めた。朝の市場は活気に満ち、香辛料の匂いや商人の
「みんな、自由ね」彼女は周囲の人々を見ながら
「自由に見えるだけかもしれません」シルヴィアは現実的な声で言った。「どんな人にも、それぞれの
「それでも、私の檻とは違うわ」イリスはきっぱりと言った。「彼らは、少なくとも自分で選んだ道を歩いている」
市場を抜け、彼女たちは徐々に
「あれが王宮…」イリスは思わず足を止めた。
その
「父が私を献上しようとしていたのは、あそこ?」
「ええ」シルヴィアは
その言葉に、イリスの背筋に
「急ぎましょう」シルヴィアが彼女の
二人は大通りから
「あれが…」
「ラヴェンデル男爵邸です」シルヴィアの声が
屋敷の周りには、普通の
「ヴァルトはあの中に…」イリスの声が震えた。「どうやって助け出せばいいの?」
シルヴィアは
その時、屋敷の
「あれが…」シルヴィアが息を呑んだ。「ラヴェンデル男爵です」
イリスは思わず
「どこかに行くのね」イリスは
「魔法技術院の定例会議でしょう」シルヴィアが
「ということは…」
「そう、チャンスです」シルヴィアが頷いた。「衛兵の数が少し減りました」
それでも、邸内に
「あの衛兵は…」彼女は突然、門の側にいる一人の男に目を留めた。「あれって…」
男は他の衛兵よりも一回り大きく、
「ヴァルト!」イリスは思わず声を上げそうになり、シルヴィアに
「お嬢様、静かに!」
「でも、あの衛兵はヴァルトよ!」イリスは
シルヴィアは
「きっと任務中なのよ」イリスの目が希望に満ちて輝いた。「これなら…」
彼女は周囲を見回し、考えを
「私が彼を呼び出すわ」
「何ですって?」シルヴィアが驚いて振り返った。「どうやって?」
「あそこ」イリスは
「でも、もし違う人だったら?」
「違わないわ」イリスは確信に満ちた声で言った。「私には、わかるの」
シルヴィアは
二人は
「本当にこれで気づいてくれるかしら…」
「あの男がヴァルトさんなら」シルヴィアは静かに言った。「必ず気づくでしょう。彼はあなたのことをいつも見ていましたから」
その言葉に、イリスの頬が熱くなった。彼女は急いでお茶に口をつけ、その熱さで誤魔化そうとした。
時間はゆっくりと過ぎていく。イリスの目は、門に立つ衛兵から一瞬も離れなかった。彼が時々こちらを向くと、彼女は
「まだ気づいていないみたいね…」イリスは
「辛抱強く」シルヴィアが
彼女の言葉が途切れた。門の衛兵が明らかに彼女たちの方を見て、
「気づいた!」イリスの声が
衛兵——ヴァルトに間違いない——は一瞬だけその場に
「どうするの?」シルヴィアが
「わからないわ」イリスは
ヴァルトは周囲の衛兵に何かを言うと、門を
「あ!」イリスは
「お嬢様、落ち着いて。彼が何か考えているのでしょう」
数分後、茶店の
「お嬢様」
低い、しかし確かなヴァルトの声だった。イリスとシルヴィアは
「ヴァルト!」イリスは思わず彼の名を呼んだ。
「イリス様、シルヴィア殿」彼の琥珀色の瞳に
「あなたを助けに来たのよ」イリスはきっぱりと言った。
「助ける?」ヴァルトの表情が複雑に変わった。「いいえ、逆です。あなたたちがここにいるのは危険すぎる。すぐに帰ってください」
「でも、ラヴェンデル男爵は異能者を狩る人よ」イリスは必死で説明した。「あなたが危ないと思って…」
「私は大丈夫です」ヴァルトは静かに言った。「むしろ、あなたこそが危険な状況です」
「どういう意味?」
ヴァルトは周囲を
「ラヴェンデル男爵は確かに危険な人物です」彼は小声で説明した。「しかし、私が最も危惧しているのは、この任務の真の目的です」
「真の目的?」シルヴィアが尋ねた。
「ええ」ヴァルトの表情が
「素性?」イリスは混乱した。「あなたの何を?」
ヴァルトは一瞬
「私の出自は、実はラヴェンデル男爵と無関係ではないのです。十年前、彼が
「一族が?」イリスの目が見開かれた。
「
「そんな…」イリスは言葉を失った。「それで父は、わざとあなたをここへ…」
「はい。もし私が何か行動を起こせば、獣人としての
シルヴィアが重々しく頷いた。「それは十分にあり得ます」
イリスの中で、怒りが
「だから、お願いです」ヴァルトが切実な声で言った。「今すぐ屋敷に戻ってください。ここにいることが知られれば、あなたにとって危険です」
「でも、あなたは?」イリスは彼の目をまっすぐ見た。「本当に大丈夫なの?」
「私は任務を全うします」ヴァルトはきっぱりと言った。「そして必ず戻ります。約束した通りに」
イリスは
「わかったわ」彼女は小さく頷いた。「でも、何かあったらすぐに帰って来て。それが私の命令よ」
ヴァルトの表情が
「それから」イリスは
「これは?」ヴァルトが
「母のお守り」イリスは説明した。「私の力を安定させるものだけど…今はあなたに必要かもしれない」
「そんな大切なものを…」ヴァルトは
「約束ね」
彼らの指が一瞬触れ合ったとき、イリスの胸に
「さあ、もう行きましょう」シルヴィアが急かした。「時間が迫っています」
「ええ」イリスは名残惜しそうにヴァルトを見た。「気をつけて」
「あなたこそ」ヴァルトは
その言葉に、イリスは思わず微笑んだ。「ええ、母も同じことを言ってたわ」
ヴァルトの表情に
彼は静かに路地を抜け、門へと戻っていった。イリスは彼の後ろ姿を見送りながら、心の中で誓った。
(必ず、また会いましょう)
*
馬車で屋敷に戻る道中、イリスの気持ちは複雑だった。ヴァルトを
「シルヴィア」彼女は窓の外を見ながら
「侯爵様は」シルヴィアは慎重に言葉を選んだ。「自分の支配下にないものを恐れるのです。あなたの力も、ヴァルトさんの存在も、彼の
「ヴァルトの一族が…全滅したなんて」イリスの声が震えた。「そんな痛みを抱えていたなんて知らなかった」
「彼は強い人です」シルヴィアは
イリスは
「この気持ちは…」彼女は小さく
「何ですか?」シルヴィアが尋ねた。
「何でもないわ」イリスは首を振った。まだ、この感情に名前をつける勇気がなかった。
屋敷が近づくと、彼女たちは馬車から降り、再び秘密の通路を通って書庫へと戻った。誰にも見られずに済んだのは幸運だった。
「お嬢様、すぐに普段の服に戻りましょう」シルヴィアは急かした。「午後のお茶会の時間です」
イリスは慌てて着替え、いつもの姿に戻った。しかし、心の中はもう二度と元には戻れないと感じていた。
午後のお茶会では、使用人たちが明日の別荘行きの最終確認をしていた。イリスは
「お嬢様、よろしいですか?」執事長シルクが彼女に話しかけた。「荷物の最終確認ですが…」
「ええ、もちろん」イリスは自動的に答えた。
お茶会が終わり、イリスは自室に戻った。窓際に立ち、遠く王都の方角を見つめる。
「明日、別荘に行くわ」彼女は
ノックの音がして、ユナが部屋に入ってきた。
「お嬢様!」彼女はいつもの明るい声で言った。「お荷物、もう一度確認させてくださいね!」
「ありがとう、ユナ」イリスは微笑んだ。
「あの、お嬢様」ユナは少し
「ええ」イリスは小声で答えた。「あなたのおかげよ」
ユナの顔が明るく輝いた。「お役に立てて嬉しいです!何があったのか知りませんけど、お嬢様の
その
「ユナ」イリスはふと思いついたように言った。「明日の別荘行き、あなたも来る?」
「え?」ユナは驚いた表情をした。「私はお供する予定ではないんですが…」
「私が望めば、連れていけるはずよ」イリスはきっぱりと言った。「あなたに来てほしいの」
「本当ですか?!」ユナの目が
イリスは少し考え、それから正直に答えた。「あなたの笑顔が必要だから」
ユナの頬が赤く染まった。「お、お嬢様…」
「頼めるかしら?」
「はい!もちろんです!」ユナは嬉しそうに
彼女が部屋を出ていくと、イリスは再び窓辺に立った。夕暮れの
(明日から、私の人生は変わる)
その時、突然、彼女の背後から声がした。
「イリス」
振り返ると、父エドガーが部屋の入口に立っていた。彼の
「父上」イリスは
「今日はどこかに出かけたようだな」エドガーの声には
イリスの心臓が
「そうか」エドガーは部屋に入ってきた。「だが、使用人の一人が、朝に書庫の秘密の通路が開いていたと報告してきたぞ」
イリスの血の気が引いた。誰かが見ていたのか。「それは…」
「真実を話せ」エドガーの声が鋭くなった。「お前はヴァルトに会いに行ったのか?」
彼女の
「案の定か」エドガーの目が冷たく光った。「お前は自分が何をしているのかわかっているのか?あの獣人との接触は禁じたはずだ」
「ヴァルトは獣人ではありません」イリスは思わず
「友人?」エドガーが
「あなたが下賎なのよ!」イリスは思わず叫んだ。「ヴァルトの一族を殺し、彼を罠にかけようとしたあなたこそが!」
言い終わった瞬間、彼女は自分の言葉に
エドガーの顔が
「なんだと?」彼の声は
「ヴァルトから聞いたわ」イリスは震える声でも、
エドガーの目が危険に
「ええ」イリスはもう
「愚かな娘だ」エドガーが
「心酔なんかじゃない!」イリスの声が
その言葉に、エドガーの表情が
「これは全て、あの獣の
「違うわ!」イリスは
「日記だと?」エドガーの顔から血の気が引いた。「シルヴィアが…」
「そうよ、シルヴィアが教えてくれたわ。母は自分の命と引き換えに、私の力を封印したのね」イリスは涙
「黙れ!」エドガーが
「だから母は言ったのよ」イリスは静かに、しかし
「お前の母は、その考えのせいで命を落としたのだ!」エドガーの声に
「私は母とは違う」イリスは
「馬鹿な…」
「明日、別荘に行くわ」イリスはきっぱりと宣言した。「そして、自分の道を選ぶ」
父の
「ええ、セドリックとの別荘行き」イリスは
「よく聞け、イリス」エドガーの声が急に
「だからこそ、私は自分で学ぶわ」イリスは静かに言った。「母の遺した道を」
「明日、お前は別荘に行く」彼は最終的に言った。「そして、セドリックと過ごす。それが私の最後の命令だ」
「最後の?」
「ああ」エドガーの顔に
彼はドアに向かって歩き出した。扉の前で立ち止まり、振り返らずに言った。
「お前の母も、最後はそうだった。誰の言うことも聞かず、自分の信じた道を行った」彼の声には
ドアが閉まり、エドガーの足音が
イリスは
「母さん…」彼女は窓際に歩み寄り、
突然、彼女の指先から紫色の光が漏れ始めた。感情の高まりが、力を
「あっ…」
イリスは慌てて光を
「どうして…」
ロケットをヴァルトに渡してしまったせいだろうか。母の
紫色の
「落ち着いて…」イリスは
彼女は目を閉じ、
しかし、父との
「ダメ…」イリスは
部屋の窓
「お嬢様!」
慌ただしくドアが開き、シルヴィアが飛び込んできた。彼女の表情は
「何が起きているの?」
「わからないの…」イリスの声が震えた。「力が、止まらなくて…」
シルヴィアは迷わず彼女の側に駆け寄り、両肩をしっかりと
「お嬢様、私の目を見てください」彼女の声は落ち着いていた。「母上様のことを思い出して。あなたは一人じゃないんですよ」
「母さん…」イリスは
「そう、お母様はあなたを愛していました」シルヴィアが
「でも…」
「思い出してください」シルヴィアが
イリスは震える息を吐き、必死で笑顔を作ろうとした。しかし、口角を上げるだけで精一杯だった。
「そうじゃないんです」シルヴィアが優しく言った。「形だけではなく、心から…」
その時、突然ノックの音がして、ユナが慌てた様子で入ってきた。
「お嬢様!何が…」彼女は部屋の異様な光景に
「ユナ!」シルヴィアが叫んだ。「お嬢様を笑わせて!」
「え?」ユナは一瞬
彼女の
「ふっ…」
最初は小さな
「ははっ…本当に、あなたったら…」
笑いながら、イリスは気づいた。部屋中に
「継続して!」シルヴィアがユナに
ユナはさらに
イリスは
「ユナ…もう十分よ」彼女は
「えっ?」ユナは
シルヴィアがほっとした表情で説明した。「お嬢様の力が少し暴走していたの。でも、あなたのおかげで落ち着いたわ」
「私のおかげで?」ユナは
「笑顔の力よ」イリスは優しく言った。「母が教えてくれたの」
ユナはまだ
イリスは立ち上がり、窓際に歩み寄った。紫色の
「シルヴィア、明日のために、もう一度計画を
「はい」シルヴィアはうなずいた。「別荘への道中、最初の
彼女らは小声で話し始めた。ユナは完全に理解していないようだったが、それでも真剣な表情で二人の会話に
窓の外では、夕陽が沈み、夜の帳が降り始めていた。イリスの異能は初めての
母の遺志——感情を受け入れ、笑顔を忘れないこと。
そしてヴァルトの教え——自分自身であることを恐れないこと。
これらを