真っ白な空間。広大で、上も下もない。光の源すら見当たらないのに、どこもかしこも真っ白だ。
ここに存在するのは、エルセアが創り出した豪華絢爛なベッドと、その中でスヤスヤと眠りこける当の幼児。
そして、消滅から復活し、どういう理屈か身体まで元に戻った、聖人天使たる俺……。
「おい、起きろエルセア!」
返事はない。寝返りを打つ気配すらない。ピクリとも動かない。
まるで、死んだように眠っている。
死んででくれると嬉しいが、こいつが死んだらマジでこの空間に一人っきりで永久に出られない可能性がある。それはまずい
「おいってば 早く起きろ!世界創造はどうした!」
今度は少し強めに呼ぶ。身体があるから、軽く揺さぶってみるか?
いや、下手に触るとまた「うるさいでちゅ」とか言って消されそうだしな……安全第一だ。まずは声かけで様子見だ。
「すぴーすぴー」
びくともしない。呼吸音すら静かで、穏やかすぎる。
どうやら、幼児らしく……いや、神様らしく相当深い眠りに入ってるらしい。並の呼びかけではダメか。声帯が潰れるまで叫ばないと起きないタイプか?
俺が、どうやって起こそうか、安全な方法はないかと策略を練り始めた、その時。
俺の脳裏に、嫌な言葉が、蘇った。
『ワタチは八万年たっぷり寝ないと、朝、シャキッと起きれないタイプでちゅからね。八万年後でよろしゅう……』
──八万年たっぷり寝ないとと言う文言が、じんわりと俺の脳味噌を侵食していく。
(ま、まさか……こいつ、あの言葉マジで言ってたのか?冗談じゃなくて?八万年とかいうふざけた数字、本気だったのか?寝る時間とか、シャキッと起きれないとか、そういうの全部含めて、本気のスケジュールだったのか?)
咄嗟に時間を確認しようと、周囲に視線をずらす。
だが、こんな真っ白で何も無い空間に、時間を示すものなど、あるはずもない。
時計?カレンダー?太陽の位置?星空?
──そんなものは、ない。
神域には、時間の概念を示すようなものは、エルセアの睡眠時間以外に存在しない。
(時間がどれくらい経ったか、全く分からない。もう、寝始めて数百年経ってるかもしれないし、数千年経ってるかもしれない。八時間の可能性もあるが……)
眠るエルセアに向かって、縋り付くような声で問いかけた。
「お、おい……エルセア……?なぁ、あの八万年って話……冗談だよな……?笑えない冗談だって言ってくれよ……?俺を困らせようとした、愉快なド外道ジョークなんだろ?そうだって言ってくれ、頼むから……!」
頼む、そうだと言ってくれ!タチの悪い悪ふざけだと言ってくれ!
本気であの数字を出す奴がいるか?五億年よりはマシだが、八万年待つのも気が狂うぞ。
そんな切実な問いかけにも、エルセアからの返事はない。
ただ豪華なベッドの上で、すぴーすぴーと鼻ちょうちんまで出しながら、それはもう気持ちよさそうに眠っている。
「どうする……?どうすんだよ、これ……!」
俺は囲いの中に閉じ込められた獣のように、エルセアの豪華なベッドの周りを、ぐるぐる、ぐるぐると回り始めた。
頭の中はパニックだ。前世でどんな難局も切り抜けてきた、スーパーコンピュータのような頭脳が、フル回転で打開策を探る。
エルセアを起こす方法……この神域から一人で出る方法……。
八万年をやり過ごす方法? 八万年の暇つぶし方法?
何も、何も思いつかない!
ただ、堂々巡りする思考だけが、俺の脳味噌をすり減らしていく。
脱出不可能。介入不可能。ただ待つだけ。
詰んだ。完璧に詰んだぞ。
「い……いや……!もしかして、俺が眠っている間に、もう結構な時間が経ってるかもしれない!例えば、今が八万年のうちの、七万九千九百九十九年目とかなら!そうしたら、あと一年待てばいいだけだ! そう考えれば……!」
──馬鹿な。
そんな都合のいい展開があるはずがない。きっと、始まったばかりだ。俺の、果てしない無為な時間が。
俺は自分で言った希望的な観測を、すぐに打ち消した。ああ、俺の運命はなんて不憫なんだ。
なぜ、この稀代の詐欺師たる俺が……いや、偉大なる聖人の才能が、こんな形で無駄に消費されなければならないのだ。
一向に答えは出てこない。このまま俺は八万年という途方もない時間を、真っ白な空間で悩むためだけに過ごすのか?
終わりの見えない、マラソンだ。走り出したくもないのに、強制的にスタートさせられた、絶望のフルマラソンだ……。
給水所もない。応援もない。ただ、白い空間で、一人走るマラソン……。
(どうする? いや、どうしようもない。悩むしかない。八万年、悩むのか……。考えることを諦めたら、本当に気が狂いそうだ。考えるしかない。だが、考えても無駄だ……。でも考えないと……)
俺の悩みの旅は、果てしなく続く。
考える、答えが出ない、絶望する。それでも考える、また答えが出ない、さらに絶望する……このループだ。
眠るエルセアの寝息だけが規則正しく、そして呑気に響く神域で、俺の終わりの見えない悩む時間だけが、緩やかに侵食していく。
「……」
時間だけが過ぎていく。いや、過ぎている感覚すらない。ただ、この無為な状況だけが存在する。
──そのうちに。思考が、だんだんとまとまらなくなってくる。
自分が何者で、なぜここにいるのか、それすら曖昧になってくるような、恐ろしい感覚。
(あぁ……俺は、ここで……ここで、死ぬんだぁ……)
声にならない、悲痛な叫びが内心で響く。物理的な死ではない。精神的な死だ。
魂がゆっくりと、白い牢獄に囚われ、形を失っていくような感覚。狂気という名の深淵に、足を踏み入れていくような、耐え難い苦痛。
(せっかく、天使になったってのに……五億年待てとか、八万年寝るとか……なんでこう、俺の素晴らしい人生設計に、理不尽な邪魔ばかりが入るんだ……俺の天才的な頭脳が、こんな無意味な状況で、無駄にすり減っていく……)
俺という稀代の天才は八万年という、途方もない牢獄の中で……誰にも気づかれず……誰にも看取られず……ただ、独り……気が狂って、死ぬんだ……。
しくしく…… 悲しいなぁ…こんなあっけない形で、無駄に朽ちていくなんて……こんなの、俺の望んだ再スタートじゃない……誰か……誰か俺をここから出してくれぇ……。
「うっ……うっ……どうしてこんな目に……俺は何も悪いことなんてしたことがない、善良な人間なのに……」
絶望の淵で、俺は目の前の光景に目を向けた。
豪華なベッドで鼻ちょうちんまで出して、気持ちよさそうに眠る、呑気なクソガキ……エルセア。
──こいつのせいで、俺はここで気が狂って死ぬんだ。
その考えに至った瞬間、鉛のような絶望は、ドス黒い怒りと、強烈な逆恨みへと変わった。
なぜこいつだけ、こんなに幸せそうに眠っていられる?
なぜ俺だけ、こんな地獄のような時間を過ごさなければならない?
「おのれ……おのれド外道幼児……!」
許せない。この屈辱。この理不尽。この退屈。
俺は、復讐心を燃え上がらせながら、眠るエルセアのベッドに、ゆっくりと近づいた。
肉体がある。使えるものを使うんだ。身体で、物理的に不快感を植え付けてやる。
「そうだ。このままタダで気が狂って死ぬのは、あまりにも割に合わねぇ。せめて、コイツに不快な置き土産を残してやる……俺がどれだけここで苦しんだか、少しでも味わせてやる……」
テメェが八万年後に目を覚ました時、最高の気分を台無しにしてやる……!
このまま、お前の身体に覆いかぶさったまま……誰にも発見されずに、白骨死体になって、固まってやらぁ……!お前の最高の寝覚めを、俺様の骨で飾ってやる……!
どうだ、怖いか!これが、死んでも嫌がらせをする、汚いウサギのやり方だぁ……!
「くくく……!神様でも、自分の身体の上に、骨だけになった人間(元詐欺師)が張り付いてたら、さすがに気分悪いだろ。最高の嫌がらせだ!さあ、俺の復讐劇、開幕だ!」
俺は自らが白骨死体と化してエルセアの寝覚めを最悪にするという、壮大かつ卑劣な計画を実行に移すべく、眠るエルセアの豪華なベッドへと手をかけた。
ベッドの縁を掴み、よじ登ろうとする。肉体があることの喜びを、今、最大の嫌がらせのために使うんだ!
──その時だった。
「?」
テーブルの上に置かれていた『世界創生地図』が、突然、ボワァ、と淡い光を放ち始めた。
その光は以前、海や陸地、そして生命の素が生まれた時よりも、強い意志を感じさせる光だった。
「……?」
俺は、エルセアへの復讐計画を一時停止し、そちらに視線を向けた。
もしかして、コショウを混ぜた弊害が今頃出て、爆発でもするのか?あるいは、前回俺を消滅させた時の、エルセアの力の残り香か?
いずれにしても、嫌な予感がする。だが、同時に、強烈な好奇心も刺激された。俺の人生は、好奇心と保身でできているのだ。
「なんだ……?」
俺は、テーブルの方へと近づき、『世界創生地図』を覗き込んだ。
地図は、相変わらず海と陸地が描かれているだけだ。
だが、先ほど光を放った影響か。地図上の茶色い陸地のあちこちに、以前見たゴマ粒よりも小さな塊が、よりハッキリと数多く集まっているのが見えた。
「んー……?」
前回の小さな塊は、単に生命体が小さかっただけだったが、今回は様子が違う。
なんだか、規則性があるように見える……ような……?
「アリの死骸でも、積み重なってんのか……?」
前世で時々見た、アリの巣の入り口とかにある、無数のアリの死骸の山を連想した。嫌な予感だ。
もしかしてあの下等生物どもが、大量死でもしたのか?それならそれでいいな。俺を殺した奴らは皆死ねばいいんだ。
……だが、目を凝らせば凝らすほど、それはアリの死骸ではどうやら違うと分かった。
それは、何やら小さい……とても小さくて、肉眼ではほぼ視認できないが、確かに存在する、規則的な形の集まりだった。
石のような、木のような、何かで作られた、人工的な、建築物の集まり。個々の形状は確認できないが、集まっている様子は、間違いなく、自然物ではない。
「……!?」
なんということだ。
これは……これは……。これは、単なる塊ではない!
これは、規則性のある、何らかの意図を持って配置された、建築物の集まりだ。そして、その集まり方には明確な秩序が見て取れる。
俺の頭は、再び混乱でショートしそうになった。あまりの驚きに、言葉を失う。
(あんな凶暴で、プチトマト以下の脳味噌しかねぇ、出来損ないのゴミだと思ってた下等生物共が……あいつらが……文明を……?)
信じられない。前回の殺し合いしか能のない姿を思い出すと、全く結びつかない。
あの血と炎の混沌から、どうやってこんなものが生まれたんだ? 俺が散々「ゴミだ」「欠陥品だ」と罵倒した、あの生命体たちが?
(いや、しかし……エルセアが言ってたな……)
『そのうち文明が生まれて、ドラゴンや巨人たちも理性的に動くようになるでちゅよ』
まさか……本当に、エルセアの言う通りになったのか? あのド外道幼児の予測が、当たっていたというのか!? 俺の「ゴミだクズだ」論を、下等生物どもが覆したというのか!?
俺は、地図上の、あまりにも小さすぎる、だが間違いなく存在する建築物の集まりを前に、驚愕で立ち尽くした。
文明……だと?
あんな奴らが……?
「……」
俺は、地図上の、あまりにも小さすぎる、だが間違いなく存在する建築物の集まりを前に、驚愕で立ち尽くした。そして、無言でその光景を凝視する。
(ふ、ふん……どうせ、あんな血と肉片しか知らねぇ、プチトマト以下の脳味噌しかねぇ下等生物どもが築いた文明なんて、高が知れてらぁ。積み木でも並べただけだろう。大したもんじゃねぇ。別に、この俺が、あんなもんができたことに、わくわくなんて、これっぽっちもしてないんだからねっ!)
……しかし、俺の視線は、地図上のその小さな建築物の集まりに、確実に吸い込まれていく。
見れば見るほど、意図をもって作られたものに見える。めっちゃ小さいからなんとなくしか分からんが。
本当に、どうやってあんなものが……? あんな短期間で?
──いや、短期間だったのか?
俺が意識をなくした時間はどれくらいだったんだ?そもそも、この神域の時間はエルノヴァの世界とは時間の流れが違うとか、そういう可能性は?
「むむ……うむむぅ……!」
俺が、好奇心と「別にワクワクなんてしてないもん!」という虚勢の間で葛藤していると、ふと、神域の片隅に、ぽつんと置かれている存在が視界に入った。
「そういえば……」
俺は、そちらへと目を向けた。白く、そして無駄に絢爛豪華な、あの『扉』だ。
──あれは、神域と俺たちが創った『エルノヴァ』世界を繋ぐ唯一の門。言わば『異世界への架け橋』。
あれを潜れば、文字通りあの世界に行ける。
ドラゴンと巨人が、狂った殺し合いをしていた世界に。そして、今や、文明を築いている(っぽい)世界に。
(いやいやいやいや、何考えてんだ俺!?行く?あの世界に?文字通り焼かれて、踏み潰され、目玉まで蒸発した、血と炎の地獄に!?)
──俺を焼き殺そうとした、クソトカゲどもだぞ!? 命の恩人かと思ったら、何の躊躇もなく踏み潰してきた巨人だぞ!?
文明ができたからって、彼らが俺様という存在を認識して、崇拝するなり歓迎するなり、まともな対応をしてくれる保証なんて、どこにもないだろうが!
むしろ、侵入者として、問答無用で八つ裂きにされる可能性の方が高い!死にたくない! 死ぬのはもう嫌だ!
せっかく身体が戻ったのに! また魂だけになるなんて、冗談じゃない!
俺の脳内では、警報がけたたましく鳴り響き、身体は全力で「逃げろ!」と叫んでいる。
しかし、口とは裏腹に、いや、脳内の警報とは裏腹に、俺の体は、好奇心という名の、抗いがたい引力に引かれるように、扉の方へと、一歩、また一歩と、歩き始めていた。
(行くな! やめろ!また殺されるぞ!このままエルセアが起きるまで八万年待ってた方が、まだマシだ!)
そんな俺の理性に対して……。
俺の脳味噌はこう叫んだ。
──うるせぇ!見たいんだ!
あの殺し合いしか能のなかったはずの奴らが、どうやって文明なんて築いたのか!
どんな街を創ったのか!
どんな暮らしをしているのか!
あの血と炎の混沌から、何が生まれたのか!
創った世界が、どうなったのか!見て確かめたいんだ!知りたいんだ!
体は思考とは関係なく、ただひたすらに扉へと近づいていく。
逃げるべきだと分かっているのに、足は止まらない。
そして、俺は白く絢爛豪華な『異世界への架け橋』たる扉の前に立っていた。
「くそ、呼吸が荒い……落ち着け、俺」
恐怖か、興奮か。たぶん、両方だ。
俺は、目の前の扉を見上げる。
そして、そのドアノブに、ゆっくりと手を伸ばし──。