心臓が、やけにうるさくドクドクと脈打っている。
(……行くしか、ねぇよな)
前回、この扉を抜けた先で俺を待っていたのは血と炎と絶叫が渦巻く阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
──創造主(の補佐)たるこの俺様を、奴らはなんの躊躇もなく焼きそして踏み潰したのだ。
今度こそ……今度こそ本当に魂ごと消滅させられるかもしれない。
だが……好奇心には勝てなかった。
脳味噌がプチトマト以下の下等生物どもが、本当に「文明」なんぞを築けたというのか?
それをこの目で確かめずには八万年、寝覚めが悪いってもんよ。
「……ふぅ」
一つ覚悟の息を吐き……俺は扉を押し開けた。
ギィ……と、重い音を立てて扉が開く。
そうして一歩足を踏み出した瞬間──。
「……!?」
──鼻腔をくすぐる、むせ返るような土と草いきれの匂い。
──肌を撫でる、生暖かい風。
──そして、耳に届くざわめく木々の葉音と、どこか遠くで聞こえる水のせせらぎ。
俺は言葉を失った。
目の前に広がっていたのは──
かつての地獄絵図とは似ても似つかぬ、息を呑むほどに美しく雄大な自然。
どこまでも続く抜けるような蒼穹。下には、絵の具をぶちまけたかのように鮮やかな緑の森が、大地の果てまで広がっている。
森を縫うようにして太陽の光をキラキラと反射させながら、雄大な大河が穏やかに流れていた。
「こ……これ……は……?」
掠れた声が思わず口から漏れる。
「──なんて、素晴らしい風景なんだ……!?」
これこそ聖人たる俺が身を粉にして……いや、口を酸っぱくしてあのド外道幼児を導いた末にたどり着いた理想郷そのものではないか!
──そうだ。間違いない。
この世界がこれほどまでに美しく秩序立っているのは、他ならぬ俺が混沌と暴力しか知らぬ下等生物どもの創造において、的確かつ高潔な助言を与え続けたからだ。
エルセア?あんな奴は、俺という名の偉大な脚本家が書いた設計図通りに粘土をこねただけの、ただのクソガキに過ぎん。
つまり、この世界の真の創造主は……この俺というわけだ!
くくく……ふはははは!
込み上げる笑いを抑えきれず、俺は天に腕を突き上げた。
そして、目の前に広がる自然を、一つ一つ指差していく。
「見ろ!あの雄大にそびえ立つ山脈は俺のものだ!」
「あの、どこまでも続く広大な森も俺のもの!」
「あの、キラキラと輝く大河ですら、俺の所有物!」
そうだ、なにもかも!
天も地も、そこに生きる全ての生命も、俺が創りそして所有する!
この世界は俺のためだけにある、巨大な箱庭なのだ!
「くっくくく……! わーっはっはっはっは!」
高潔な高笑いが、俺様が創りたもうた美しき新世界に響き渡った。
だが……。
不意に、ぞわりと背筋に悪寒が走った。
「……いや、待て待て。よく考えたら、図に乗ってる場合か?」
神にでもなったかのような全能感は、脳裏をよぎった一つの記憶によっていともたやすく粉々に砕け散った。
──前回、俺はこの世界で無残に殺されたんじゃないか。
ドラゴンの炎に骨の髄まで焼かれ、巨人の足に肉片も残さず踏み潰された忌まわしい記憶が脳裏にこびり付いてやがる。
「……」
途端に世界が、様相を変えた。
さっきまで俺の偉大さを讃えているように見えた木々のざわめきが、今ではドラゴンの喉を鳴らす不気味な音に聞こえる。
雄大だと思っていた山の稜線は、ゆっくりと起き上がる巨人のシルエットにしか見えない。
穏やかだった川の流れですら、血を洗い流すための不吉な色合いを帯びてやがる……!
「そ、そうだ……!ここは天国なんかじゃねぇ。元・地獄だ! あの忌々しい下等生物どもが、互いのハラワタをブチまけながら、狂ったように殺し合ってた呪われた土地じゃねぇか……!」
感動は一瞬で純度100%の恐怖へと姿を変えた。
俺は全身の神経を最大限に研ぎ澄ませ、物音一つ立てないよう完全な警戒態勢に入った。
油断は即、死を意味する。この世界ではそれが唯一の真理なのだ。
そして、俺はとある決断をする。
「よし、決めた。撤退だ。俺はただ、ちょっと景色を見に来ただけ。そう、そうなんだ……」
これは決して俺がビビっているとか、そういう矮小な話ではない。断じて違う。
今後の世界創造を円滑に進めるための、高度な情報収集と戦術的判断に基づいた、偉大なる転進なのだ。
そうだ……まずは一度神域に戻り、この『元・地獄』の現状を、あのクソ……いや、慈悲深き女神エルセア様にご報告せねばなるまい。これも、忠実なる補佐官たる俺の、重要な責務だからな。
ふっ、我ながら完璧な口実……ではなく、完璧な作戦だ。
さらばだ、危険な世界よ!俺は安全な世界で高みの見物と洒落込むぜ!
俺は意気揚々と踵を返し、先ほどまであったはずの絢爛豪華な扉へと向かった。
扉さえくぐれば俺の勝利だ。安全地帯からの優雅な世界観察ライフが待っている。
しかし……。
「……?」
俺は立ち止まった。
おかしいな。確かこの辺りだったはずだが……。
俺は焦りを押し殺しながら、周囲を何度も見渡した。
だが、右を見ても左を見ても、あるのはただの森。背後を振り返ってもやはり森。
どこにも目立つことだけが取り柄のような扉など、見当たりはしない。
「……あ、あれ? 扉が……?」
そ、そんなはずはない。
もしや幻覚か?俺はまだ夢でも見ているのか?
俺は扉があったはずの空間を虚しく手で何度もまさぐった。だがそこに掴めるものなど何もない。
「扉が……ない……!?ど、どこ行った!?」
俺の情けない声が静かな森に虚しく響く。
「おい!どこ行ったんだ俺の扉は!俺の唯一のセーフティネット!俺の脱出口はどこだぁっ!」
まさか……あの扉って、一方通行だったのか……?一度離れたら消える仕様だったとか……?
で、でも……!エルセアと海の底に行った時は消えていなかったはず……!
だが、現実に扉は煙のように消えてなくなっている。
だとしたら俺は──。
ぞっと血の気が引いていくのが分かった。
この地獄に……閉じ込められた……?
「うそだろ……!?お、おい……うそだよな……?」
俺の悲痛な叫びは誰に聞かれるでもなく、静かな森に吸い込まれて消えていった。
だがここで喚いていても状況は一ミリも好転しない。
(待てよ……もしかしたら、扉は別の場所にあるんじゃないか?)
そうだ、きっとそうだ!あの扉は気まぐれなんだ! 俺の信仰心を試すために、別の場所にひょっこり出現しているに違いない!
つーかそうであってくれ!頼む!俺は無理やりそう思い込み、決心した。
──ならばやることは一つ。この世界を探索し、移動した扉を発見する……!
「ふん、伊達に前世で修羅場をくぐり抜けてきたわけじゃねぇ……。警察……じゃなくて、人の視線を避け気配を殺して移動することにかけては、俺の右に出る者はいない」
俺は自分自身を鼓舞するように虚勢を張り、前世で培ったスキル……主に興信所や探偵のゴミ野郎共からを振り切る技術や、夜逃げの技術を総動員して慎重に森の中を進み始めた。
……と言いつつ、足は生まれたての子鹿のようにガクガク震えてやがる!これは決して怖いとかそういうものではないから勘違いしないように。
(くそ、くそ!どうして俺がこんな目に……!これも全部エルセアのせいだ!)
あのド外道幼児め! 今頃、神域のふかふかベッドの上で、俺のこの苦労も知らずに『すぴー』とか寝こけてやがるに違いねぇ!
俺がこんな、いつ食われるかも分からん状況で必死にサバイバルしてるっていうのによ!
なんて理不尽なんだ、俺は聖人だぞ。 聖人がこんな扱いを受けていいはずがない。
「ひぃ!?なんか揺れた!?……なんだただの風か。くそ、風まで俺を馬鹿にしやがって……!」
風で揺れる枝が化け物の影に見え、遠くで響く岩の転がる音が巨人の足音に聞こえる。
心臓は破裂寸前の風船みたいにバクバクうるせぇし、生唾を飲む音だけがやけにリアルに響きやがる。
──くそ、くそ、くそっ!
絶対に生き延びて、クソガキの寝顔に泥団子でもぶつけてやる……!
俺はそんなくだらない復讐心を唯一の支えに、死への恐怖が渦巻く森の奥へと足を踏み入れていく……。
「……」
──どれくらい、森の中を彷徨っただろうか。
もはや太陽がどの方向にあるのかすら怪しい。ただ俺の足だけが生存本能という名の自動操縦によって機械的に前へと進んでいる。
その時だった。
ガサリ、と。すぐ近くの茂みが大きな音を立てて揺れた。
「ひぃっ!?」
ビクッ!と、俺の心臓が、喉から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
全身の血が、一瞬で氷になるような感覚。俺はその場に凍り付いたまま、茂みを睨みつける。
出てくるか……?ドラゴンか?それとも巨人か……?
……。
…………。
しかし、いくら待っても、茂みから何かが姿を現す気配はない。
ただ、ざわざわと、風にそよぐ木々の葉音が聞こえるだけだ。
「……風、か?」
くそ、なんだ。風か。
俺は安堵の息を漏らすと同時に、無性に腹が立ってきた。
「チッ……!紛らわしいんだよ、このクソ風が!」
俺は茂みに向かって、抑えていた声を荒げた。
「俺の、研ぎ澄まされた感覚を無駄に刺激しやがって!大体なんだ、この世界は! 風は無駄に強いし、地面は歩きにくいし、俺様に対するホスピタリティってものが、これっぽっちも感じられん!」
一度口に出すと、不満は堰を切ったように溢れ出してくる。
「いちいちビビらせやがって、このクソ風が! 俺が誰だか分かってんのか!? この世界の真の創造主(の補佐)たる聖人様だぞ! そんな至高の存在に向かって、なんて無礼な態度だ! 今度やったら、テメェごとエルセアに報告して、無風地帯にしてやっからな!」
ガサッ!ガサガサッ!
さっきよりも遥かに大きく、そして明確な殺意のこもった音を立てて、再び茂みが揺れた。
「あぁ!? 聞いてんのかコラ、風!」
俺が律儀に風に向かって怒鳴り返した、その直後だった。
茂みを内側から引き裂くようにして、ソレは姿を現した。
「Grrrrr……」
──狼?
いや、違う。だって、軽トラくらい大きいもん。
こんな巨大なオオカミがいるはずがない……。
「──え?」
ギラギラと飢えた光を宿す双眸。
獲物の骨肉を容易く噛み砕くであろう巨大な牙。
剥き出しになった牙は一本一本が短剣のように鋭く、ぬらぬらと光る黒い涎を滴らせている。
「……」
俺と、その獣との間に張り詰めた沈黙が流れる。
一秒が永遠のように感じられた。
そして──。
「Guooooooooo!!!!!!」
鼓膜が破れるかと思うほどの凄まじい咆哮。
空気がビリビリと震え、俺の立っている地面すら微かに揺れているような錯覚に陥る。
俺の前世で培った、ありとあらゆる詐欺師的思考回路が、咆哮一発で綺麗さっぱりショートした。