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第17話

俺は、人生で一度も出したことのないような速度で地面を蹴っていた。



(やばいやばいやばい!食われる!死ぬ!また死ぬ!しかも今度は、クソ不味そうな獣のエサとして、無様に死ぬ!)



背後で、化け物が地を蹴る地響きのような音が聞こえる!

俺は悲鳴すら上げる余裕もなく、ただひたすらに前へと足を動かし続けた。

神域への扉も、聖人としてのプライドも何もかもをかなぐり捨てて──。


ただ、生きるためだけに!



「GRRRRRRRR!!!!!!」



背後から迫る、殺意の塊のような咆哮。

振り返るまでもない。超絶ブッサイクで、よく分からない巨大なオオカミ(犬かもしれないがどうでもいい!)が、俺のケツを食いちぎろうと迫ってきているんだ!



(くそっ、直線で逃げてもすぐに追いつかれる……!)



俺は前世で培った、クレバーな思考を瞬時に巡らせる。

そうだ、木だ。

この鬱蒼と茂るクソ邪魔な木々も、使い方によっちゃあ最高の障害物になる!



「とぅっ!!」



俺は急カーブを描くように進路を変え、巨大な木々の間を縫うようにして走り始めた。

くくく……ただ真っ直ぐに追いかけるしか能のない、脳筋の下等なケダモノとは訳が違うんだよ。

俺にかかれば、ただの森も難攻不落の要塞と化す!これが知恵というものだ、思い知ったか、ケダモノめ。


しかし、俺のそんな淡い期待と完璧な作戦は次の瞬間木っ端微塵に砕け散った。



「はぁ!?」



俺が盾にしたはずの、大人が三人で囲んでも足りないような大木を──奴は、ガブリ、と。

たった一噛みで、硬いパンでも食いちぎるかのように真正面からへし折ったのだ。



「Guoooooooooooooooo!!!」



バリバリ、メキメキと。木々が悲鳴を上げて倒れていく。

奴は俺が創り出した『迷路』を、暴力で『更地』に変えながら猛然と突き進んでくる。



「嘘だろ……!? なんだよその理不尽な暴力は!? 知性ってもんがねぇのかテメェには!?」



俺の悲痛な叫びも、奴の耳には届かない。

もはやこれまでか……!

背後から迫る、死の顎。俺の、輝かしい人生は、こんなただデカいだけの犬っころに幕を閉じさせられるというのか……?

そんなのってない!そんなのってないよ……。



(あれ? そういや俺、一回死んでたんだっけ? 神域で復活したってことは、不死身みたいなもんだし……じゃあ、もう一回くらい死んでも、別に……)



──ワケねぇだろうがッ!!


俺は痛いのが、死ぬほど大嫌いなんだ!

他人の苦痛は三度の飯より美味い最高のエンターテイメントだが、俺自身が一ミクロンでも苦痛を味わうのだけは断固として、宇宙の真理に反してでも……嫌だッ!!

俺は、最高に聖人らしい内心を叫びながら一心不乱に逃げ続ける。



「大体なんだこのクソ犬は!? エルセアのやつ、確か『ドラゴンと巨人を作る』としか言ってなかったはずだぞ!? なんで、その二種族以外の、こんなワケの分からん脳筋ケダモノが、我が物顔で森を闊歩してやがるんだ!?」



答えは一つしか考えられない。

あいつ、面倒くさがって、生命の根源粘土をこねる時、適当に余ったやつをそこらへんにポイ捨てでもしやがったな。

それが、長い時間をかけて、こんな生態系のバグみたいな化け物に育ったに違いない!

くそ、くそくそ!!あのクソガキの仕事の雑さときたら……!



(くそっ、こうなったら……!)



俺は、目の前にあったぬかるみに向かって、わざとらしく派手にダイブした。

泥を跳ねさせ、奴の足を滑らせる卑劣……いや、理知的な作戦だ!


だが、奴はそんなもんお構いなしだ。ぬかるみごと巨大な四肢で地面を踏み抜き、俺との距離を一気にゼロにする。

──まぁ、知ってた。こんな巨大なバケモンにぬかるみなんざ効果あるわけないし?

いや、勘違いするなよ。決して慌ててたからとか、そういうわけじゃない。知っててわざとやったってワケ。

万が一ってこともあるかもしれないしな?



「Gyaaaaaaa!!!!」



──なんて。そんな自己弁護をしていた俺の目の前に、巨大な影が覆いかぶさる。

見上げれば、そこには俺をゴミでも見るかのような飢えた捕食者の瞳と、今まさに振り下ろされんとする巨大な爪があった。



「ひぃーーーっ……!?」



振り下ろされる爪を前に、俺の身体は完全に腰が抜けてその場にへたり込んだ。

脳が、あらゆる思考を放棄する。


──いや、違う。


絶体絶命のこの状況で、俺の前世で培った生存本能が一つの最終奥義を閃かせたのだ。



(ま、待て。まだだ。まだ手はある……! そうだ、最終奥義……『死んだフリ』だ!)



俺はピタリと動きを止め、目を固く閉じ息を殺した。

そうだ。俺はもう死んでいる。ただの、動かぬ肉塊だ。

肉食獣とて、新鮮な肉を好むはず……!腐りかけの死体になど、興味を示さないに違いない!

直前まで動いていたのをこいつは目にしているが……まぁ、どうせケダモノらしく記憶力なんて皆無だろ。



「……gruruu?」



フンフン、と、獣の生臭い鼻息が、俺の顔面に吹きかかる。うげぇ……ハラワタが腐ったみたいな、最悪の匂いだ。

グルルル……と、奴の喉が不気味に鳴る。

次いで、ぬらりとした感触。奴の鼻先か? それとも、涎まみれの舌か?俺の頬を品定めでもするかのように、舐めるように撫でていく。



(だ、騙されろ! 俺は死んでるんだ! 死んでるんだって言ってんだろこのクソ犬が! 空気を読め! 死体だぞ!



その時だ。俺の脳裏に、とある考えが浮かんだのは……。



(……あれ?よく考えたら……野生の獣は普通、死体を食う方が多いような……?)



ダメじゃん。死んだふり、逆効果じゃねぇか。



「ヤ……ヤダー!!!!!こんなところで食われて死ぬだなんて、ヤダーーー!!!!!」



俺の絶叫も虚しく、奴の口がカパリ、と開いた。


あ、ああ、もうだめだぁ……おしまいだぁ……!

俺の輝かしい第二……いや、第三くらいの人生が、こんな神域の台所の残り物から生まれたような得体の知れないケダモノの昼飯になることで終わるなんて……!


せめて、せめてもっとこう伝説に残るような壮絶な死に方をさせてくれ……!

こんなのってない──!



そう覚悟した、その瞬間だった。



「おーい、ポチ~!」



場違いなほど、のんびりとした誰かの声が、森に響いた。


ピタリ、と。


俺を喰らおうとしていた化け物の動きが、完全に止まった。



「……なに?」



今聞こえたのは、唸り声でも咆哮でもない。

明らかに、意味を持つ『言葉』。

ドクンッ、と、止まりかけていた心臓が、ありえないほど大きく跳ねる。



(今のは……言語? 人間の、言葉か!? そんな馬鹿な! この原始時代みたいな世界に、俺以外の人間がいるっていうのか!? いや、そもそもあれは日本語に聞こえたぞ……?こんな世界に日本人がいんのか……?それとも俺の幻聴か?死ぬ間際の、都合のいい走馬灯ってやつか!?)



しかし俺の混乱を置き去りにして、現実は進む。

さっきまで俺を殺そうとしていたあのクソ犬が、「クゥン」などと図体に見合わない、情けない声を上げたのだ。

そして、俺に向けていた殺意と食欲を、綺麗さっぱり忘れてしまったかのように、声がした方へと尻尾を振らんばかりの勢いで駆けていくではないか。



「わん!!」



あっという間に、巨大な獣の姿は疾走していった。

後にはへたり込んだままの俺と、不気味なほどの静寂だけが残された。



「た、助かった……?」



俺は未だ状況が飲み込めないまま、誰に言うでもなく、そう呟いた。



「どこ行ってたんだよ、ポチ。ご飯の時間なのに」

「わんわん!」



森の奥から、そんな会話が聞こえてくる。

会話……?



(ポチ……? んわん……?なんだ、飼い犬だったのか、あのクソ犬は。……ってことは、飼い主がいるのか?人間か!?)



安堵と期待が、一気に胸に込み上げてくる。

俺はおそるおそる、倒れこんだ身体をねじり、その方向を見やる。


そこには──いた。


だが俺の淡い期待は、次の瞬間絶望に近い驚愕によって粉々に打ち砕かれた。


声の主は、人間ではなかった。

腰に動物の毛皮を無造作に巻き付けただけの原始的な服を着た──巨大な生物……巨人だったのだ。



「!?」



その姿は、俺がかつて見たただ殺戮と破壊の本能のままに暴れ回っていた、あの化け物とは、明らかに何かが違った。


瞳だ。


巨大な貌にある双眸には凶暴な光ではなく、穏やかで知性的な……そう、『理性』の光が宿っていたのだ。

いわば、『巨大な人間』。そんな言葉がしっくりくる風貌の少年がそこにいた。



「?」



俺の視線に気づいたのか、もしくは傍らのクソ犬が何かを伝えたのか。

巨人の少年が、不思議そうに、ちらを向いた。


理性の光を宿した巨人の少年と、木の陰で息を殺すちっぽけな俺の視線が、真正面から交差した。

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