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第19話

光が、煌めいている。

どこまでも続く、柔らかな光の奔流。

ここが何処なのか、少女には分からなかった。ただ、全身が暖かく、優しい光に包み込まれているような、そんな心地よい感覚だけが確かだった。

母親の腕の中に抱かれているかのように、春の陽だまりの中で微睡んでいるかのように、ゆっくりと光の中を揺蕩っている。


痛みも、悲しみも、恐怖も、ここにはない。


絶対的な安らぎだけが、ここにはある。


そして……。


「……あれ?」


少女の意識は、現実へとゆるやかに引き戻された。

目を開けているのか閉じているのかも曖昧なまま、ぼんやりとした思考が頭を巡る。


──私、何をしていたんだっけ……?

──ここは……どこなんだろう……?


そんな素朴な疑問が、少女の脳裏にふわりと浮かぶ。

だが、不思議と焦りはない。それよりも、身体の芯から湧き上がってくる、えもいわれぬ温かい感覚に少女は気づいていた。


「なんだろう……なんか……ぽかぽかする……」


少女は思わずそう呟いた。その声は自分のものでありながら、どこか遠くで響いているようにも聞こえる。

だけど、今は……今だけは。この心地よい温かさの中に、ずっと浸っていたい。そんな思いだけが、彼女の心を支配していた。


「……?」


ゆっくりと目を開けると、少女の目に飛び込んできたのは、信じられないほど美しい光景だった。


そこは、紛れもなくシルヴァニアの街のはずだった。しかし、先ほどまでの破壊と絶望の痕跡はどこにもない。

半壊していた建物は修復され、白い壁は太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。

道端には色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。空は、一点の曇りもない、どこまでも澄み渡った青空だ。


そして何よりも、街の人々は──。


「今日はいい天気だなぁ」

「あぁ、なんだか眠たくなってくるよ」


誰もが、穏やかで、幸せそうな表情を浮かべている。怪我を負った者も、悲しみにくれる者もいない。

ゆったりとした足取りで街路を散策し、互いに優しい微笑みを交わしている。それは、少女がいつか見た光景そのもので……。


「みんな……?」


少女は呆然と呟いた。

なんで、みんなこんなに……元気なんだろう。

だって街は、あの恐ろしい魔獣人たちにめちゃくちゃに壊されて……みんな、泣いて……血を流して……。


その後……。


その後……?


──その後、どうなったんだっけ……?


頭の中に霞がかかったように、記憶がはっきりと思い出せない。

とても怖くて、とても悲しかったことだけは胸の奥に微かに残っている気がした。


「うーん……」


少女が、そんな疑問を抱いて小さく首を傾げていると、ふと、聞き慣れた声が彼女を呼んだ。


「あ、リリムちゃん! やっと起きた!」

「こっちだよー! 一緒に遊ぼう!」


声のする方へ顔を向けると、そこには、いつも一緒に遊んでいた近所の友達が満面の笑みで手を振っていた。怪我一つなく、その顔には一点の曇りもない。

隣には、よくお菓子をくれたパン屋のおじさんや、いつも優しく頭を撫でてくれた隣の家のおばあさんの姿も見える。彼らもまた、にこやかに手を振っていた。


「みんな……なんで元気なの……? 街が……街が壊されちゃったんじゃ……?」


少女が、まだ残る不安を口にすると友達はきょとんとした顔で互いを見合わせ、やがて楽しそうに笑い出した。


「リリムちゃんなに言ってるの?みんな元気じゃない」


友達の言葉に、パン屋のおじさんも「おやおや、怖い夢でも見たのかね?」と優しく頭を撫でてくる。


少女が戸惑い、なおも何かを言おうとした、その時だった。


「あっ!見て、あそこ!」

「おおっ!いらっしゃったぞ!」


広場にいた人々が何かに気づいたように、一斉に街の大通りへと視線を向け、口々に歓声を上げ始めた。

その声は先ほどまでの穏やかなものとは違い、熱狂的な興奮に満ちている。


「聖女様がお見えになったぞ!」

「聖女様が、お強い兵隊さんたちを連れてきてくださったんだ!」

「もう大丈夫だ!これから我々は聖女様に、あの勇ましい兵隊さんたちに守っていただけるんだ!」


口々に飛び交う「聖女様」という言葉。


「聖女さま……?」


少女は、その言葉に何かを必死に思い出そうとした。ヴェールを被った、とても綺麗な女の人……優しい声……そして、何かとても……恐ろしい……。


「──っ」


ズキン、と頭の奥が痛んだ。それ以上は、どうしても思い出せない。

靄がかかったように、何かが隠されてしまっているかのように。


「ほら、リリムちゃんも早く!聖女様と、格好いい兵隊さんたちを見に行こうよ!」


そうこうしているうちに、興奮した友達に手を強く引かれ、少女は他の人々と同じように街の大通りへと駆け出していた。

大通りは、既にシルヴァニアの民衆で埋め尽くされ、熱気でむせ返るほどだった。

そして、その先頭から荘厳な光景がゆっくりと近づいてくるのが見えた。


先頭に立つのは、幾重もの純白のヴェールを纏い、青白い蝶を従えた、慈愛に満ちた女性──。

その美しい姿を見た瞬間、誰もが息を呑んだ。


「聖女さま……」

「なんて美しいんだぁ……」


そして……その後ろにいる存在を見て、熱狂は更に加熱していく。


「わぁ……!」


少女は、思わず感嘆の声を上げた。

そこには、御伽噺の挿絵から抜け出てきたかのような、絢爛豪華な鎧に身を固めた兵士たちが整然と隊列を組んで進んでいた。

陽光を浴びてきらきらと輝くその鎧は、一つ一つが芸術品のように美しく、彼らが持つ槍や剣も目も眩む輝きを放っている。


「シルヴァニアの住民諸君!我々が来たからには、もう安心だ!」

「これからは、聖女様の安寧の加護の元、緩やかに暮らすがよい!ははは!」


兵隊たちは笑いながらそう優しく叫ぶ。その動きは一糸乱れず、彼らが通った後には、清浄な花の香りが漂うかのような気さえする。

勇ましく、美しく、そして何よりも、絶対的な安心感を人々に与える兵隊たち──。


「聖女様、万歳!」

「兵隊さん、ありがとう!」


シルヴァニアの民衆は、荘厳な行進に割れんばかりの歓声を上げ、手を振り、英雄たちの到来を心から祝福していた。

少女もまた、我を忘れ、他の民衆たちと一緒になって小さな手を懸命に振り、歓声を上げていた。

先ほどまでの恐怖や悲しみは、この圧倒的な希望の光景の前に、どこかへ消え去ってしまった。


やがて、聖女──リリアナは、輝かしい兵士たちを引き連れて、シルヴァニアの広場の中央、最も開けた場所にゆっくりと進み出た。

リリアナが、そっとヴェールの奥から集まった民衆を見渡し、その唇を開いた。


「──シルヴァニアに住まう、皆さま」


彼女の声が響いた瞬間、あれほど熱狂的な歓声で満ちていた広場が、水を打ったように、ぴたりと静まり返った。全ての視線が、全ての意識が、ただ一点、聖女リリアナへと注がれる。

街には、リリアナの清らかな声だけが澄み渡るように響いていく……。


「この地、シルヴァニアは今この瞬間より、永遠の安寧に包まれることが約束されました。あなた方を脅かすものは何もありません。なぜなら我が愛すべき故郷、魂の安息所である『嘆きの平原』より、勇猛なる『嘆きの兵』の皆さまが、こうして駆けつけてくださったのですから」


リリアナは誇らしげに背後の兵士たちを指し示す。彼らの絢爛な鎧が、一層輝きを増したように見えた。


「彼らは、あなた方を、『生』という名の、終わりなき苦しみと悲しみの輪廻から守り通してくださるでしょう。そうです、このシルヴァニアは、もはや血と涙に汚された悲劇の街ではございません」


その言葉は、絶対的な確信と、無限の慈愛に満ちている──。


「そう……ここは全ての魂が等しく慈しまれいかなる争いも、憎しみも、苦痛も存在しない……清浄なる『安寧の墓所』へと生まれ変わったのです。皆さまは、永遠に、そして安らかに、幸福の中で過ごすことができるのですよ」


リリアナの宣言が終わると同時、静まり返っていたシルヴァニアの民衆は、今度こそ魂の底からの歓喜の叫びを上げた。


「うおおおおお!もう、苦しまなくていいんだ!」

「聖女リリアナ様、万歳! 我らを救ってくださった!」

「嘆きの兵さまたち、万歳! 我らの永遠の守護者よ!」


熱狂が、再びシルヴァニアを包み込む。

それは獣王の恐怖からの解放とは異なる、深く、もっと純粋な救済への感謝と、永遠の幸福への期待に満ちた至福の熱狂。


「聖女さま……聖女さま……!」


少女もまた、小さな手を胸の前で組み、熱に浮かされたように聖女リリアナの名を呼び、祈りを捧げていた。

この素晴らしい奇跡をもたらしてくれた、慈愛の化身へ向けて。


──その時だ。


ふと、目の前に二つの人影が立っていることに、少女は気づいた。

ゆっくりと顔を上げると、そこには──。


「え……?」


少女は、自分の目を疑った。

信じられない光景だった。そこに立っていたのは、街の襲撃で原型を留めぬほど無残に引き裂かれ、絶命したはずの──両親だったのだ。


「うそ……」


血も、傷も、苦悶の表情もどこにもない。

優しく、暖かく、少し困ったように微笑みながら、二人は彼女を見下ろしている。


どうして──?


「パパ……ママ……?どうして……どうして、元気なの……?」


少女の声は、驚きと混乱で震えていた。

その言葉に両親は顔を見合わせ、再び彼女へと優しい眼差しを向けた。


「リリム……。寂しい思いをさせたね。でも、もう大丈夫さ」

「ええ、そうなのよ。全ては、あそこにいらっしゃる聖女リリアナ様のお陰で、こうしてまた、貴女の前に立つことができたの……」


二人はそう言うと、ゆっくりと手を差し伸べながら近づいてくる。少女は信じられないといった表情で、ただただ呆然と立ち尽くす。


──夢を見ているのだろうか。それとも、これは何かの間違いなのだろうか。


ふと、周囲の喧騒に気づき、少女が顔を巡らせる。

すると、広場にいたシルヴァニアの人々が、皆こちらを見て、温かい拍手を送ってくれているのに気づいた。


「リリムちゃん、良かったなぁ!」

「おめでとう!パパとママにまた会えて、本当に良かったね!」

「これも全て聖女様のお陰だ!我々は、なんて素晴らしい奇跡の中にいるんだろう!」


口々に寄せられる祝福の言葉。そのどれもが、心からの喜びと、この再会を祝福する温かい気持ちに満ち溢れていた。

その光景を見て、少女の中で、僅かに残っていた疑念や混乱が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。

そうだ、これは夢なんかじゃない。聖女様が起こしてくれた、素晴らしい奇跡なんだ。


少女はおずおずと、差し伸べられた両親の手へと近づいていく。


そして……。


「これからは、ずっと、ずうっと一緒だよ」


二人は優しい声でそう囁きながら、彼女の小さな身体を力いっぱい抱きしめた。

その温もりは、紛れもなく本物だった。


──大好きなパパとママの匂い。


その瞬間、少女の瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、彼女は声を上げて泣きながら、二人の胸に強く強く抱き着いた。

恐怖と絶望の涙とは違う、純粋な喜びと、安心感に満ちた温かい涙だった。


その感動的な親子の再会を、シルヴァニアの「生き残った」全ての住人たちが、まるで我がことのように喜び、涙ぐみ、そして心からの祝福の眼差しで見守っていた。


「あぁ……なんて素晴らしい光景なのでしょう……」


そして、聖女リリアナもまた……少女と両親の感動的な再会を、恍惚の表情で見つめていた。


「これも、ひとえに『死』という、優しくも絶対なる救済が齎したもの……苦しみも、悲しみも、もはやここには存在しない……」


彼女は全てを抱きしめるかのように、再びその両腕を天へと、そしてこの「楽園」の住人たちへと大きく広げて、高らかに宣言した。


「これこそが、楽園。これこそが、私が、そしてあなたたちが、心の底から夢見た永遠の安寧なのです」


聖女の言葉に呼応するように、広場を荘厳に囲んでいた絢爛たる兵士たちが、一斉にその手に持つ剣や槍の切っ先を天へと掲げた。

磨き上げられた刃が陽光を反射し、まるで天上の星々が地上に降り立ったかのような、神々しい光景が広がる。


「ですが……ですが、私たちの『大救済』は、まだ始まったばかり。この世界の他の場所には、未だ『生』という名の苦しみに喘ぎ、涙を流す、哀れな子羊たちが数えきれないほど存在するのです……!」


その声には、深い悲しみと、そしてそれを救わんとする燃えるような使命感が込められていた。


「迷える子羊たちを導き、この地上に真の平和、永遠の安らぎをもたらすために……この私、リリアナは、『魔王』とならねばなりません。そして、その権能を利用し、世界全てを、シルヴァニアのような、光り輝く『大救済』へと導くのです。皆さん、どうかこの私に、尊き力をお貸しください──!」


リリアナの魂からの叫び。

それに答えたのは、シルヴァニアの民たちの、そして兵士たちの、大地を揺るがすような、熱狂的な誓いの声だった。


「 リリアナ様! 我らが聖女リリアナ様!」

「我らの魂、我らの全てを、リリアナ様に捧げます!」

「『大救済』のために! 永遠の安らぎのために!」


シルヴァニアの街全体が、神々しいまでの煌めきと、至福の喜びに包まれている。

人々は手を取り合い、歌い、聖女の名を讃え、その顔には一点の曇りもない、純粋な幸福が浮かんでいた。


──その、熱狂の頂点。不意に、心地よい風が広場を吹き抜けた。


リリアナの顔を覆っていた純白のヴェールが、風にふわりと舞い上がった。

刹那、その下に隠されていた彼女の素顔が、全ての民衆の前に露わになる。


「──」


ヴェールが再び顔を覆うまでの、ほんの一瞬。

そこにあったのは、まさしく慈悲と愛に満ち溢れた、この世のものとは思えぬほどに美しい、聖女の顔であった。

肌は雪のように白く輝き、唇は穏やかな微笑みを湛え、瞳は全ての魂を優しく包み込むような、深い慈愛の光を放つ──。

人々は、あまりの美しさと神々しさに息を飲み、ただただ彼女の前にひれ伏すのだった。


「『大救済』は、すぐそこに──」


聖女の慈しみ深い呟きは、風に吹かれて消えていった。




♢   ♢   ♢




「なんという……なんという光景だ……」


古都シルヴァニアの、半壊した教会の屋根の上。そこに、影のように身を潜める一人の魔族がいた。

彼は、仮面の道化師フェステが放った、魔界の裏社会組織「奈落の劇場」に所属する練達の諜報員。これまで幾多の修羅場を潜り抜け、血と裏切りに塗れた数々の「舞台」を目撃してきた、冷徹なる闇の住人。

だが今、その彼の百戦錬磨の瞳に映る光景は、彼の理解と経験を、そして何よりも彼の精神を、根底から揺るがすほどに悍ましく、冒涜的なものであった。


彼の目に映るシルヴァニアは、「救済された楽園」などでは断じてない。

空は絶望の色をそのまま塗り込めたかのような、重く淀んだ鉛色。美しいはずだった白亜の建物は、無残な廃墟と化し、街の至る所から死臭と、腐敗の甘ったるい匂いが混じり合って漂ってくる。


そして、その死の街を「歩いて」いるのは──。


「うぷっ……」


思わず、諜報員は口元を押さえた。今までに冷酷に他者の命を奪ってきた彼ですら、込み上げてくる強烈な吐き気を抑えることができない。

胃の腑からせり上がってくる酸の感覚と戦いながら、彼は再び、信じられない光景へと視線を戻す。


『オォ……オォォ……』

『ア゛ア゛……ウゥ……』


街路を埋め尽くし、家屋の残骸から這い出てくるのは、生気のない、うつろな瞳でゆらゆらと蠢く、おびただしい数の死体。

その肌は土気色に変色し、部分的に腐り落ちて骨が露わになっている者もいる。口は半開きのまま、意味のない呻き声を漏らし、その手は何かを掴もうとするかのように虚空を彷徨っている。


『オォォォ……』


アンデッドの群れの中、ひときわ小さな影──少女のアンデッドが、不自然な角度に首を傾げたかと思うと、ぐしゃり、という湿った音を立てて、力なくその場に崩れ落ちた。

その直後、傍らを歩いていた大きな人影のアンデッドもまた、腐り落ちて千切れかけた腕や脚を支えきれず、少女の小さな亡骸を押し潰すようにして、重い音を立てて地面に崩れ落ちた。


「悪夢などという生易しいものではない。まさに、地獄そのもの……いや、地獄すらも、これほど冒涜的ではあるまい……」


諜報員の声は恐怖と嫌悪でかすれ、指先は震えが止まらない。思わず、手にしていた遠見の魔道具を取り落としそうになる。


そして、アンデッドたちの中心。悍ましき死者の軍勢『死屍兵』に守られし女──リリアナ。

ヴェールは風に遊ばれ、その下から時折覗く腐敗した貌は、見る者の正気すら奪いかねないほどの狂気と、歪んだ法悦に染まっている。


「あれが……あれが、魔王候補……『終末の聖女』、リリアナ……」


彼の唇から、か細く、そして絶望に染まった呟きが漏れ出す。

アンデッドの都と化したシルヴァニア。その中央で、ただ一人、悦に入った表情で微笑み続ける、死を司る聖女。

その光景が諜報員の網膜に、そして魂に、永遠に消えぬ悪夢として焼き付いた。

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