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第21話

あまりにも悍ましい、死者の都の映像……。アリアだけでなく、その場にいた全員が食い入るようにその光景を見つめ、言葉を失っていた。

評議室には、映像から漏れ聞こえるアンデッドたちの意味のない呻き声だけが虚しく響く。


「な……なんということだぁッ!!」


不意に、その静寂を怒号が打ち破った。金貨王ギルダスが、肥満した巨体を震わせ、卓を思い切り叩きつけたのだ。

円卓に置かれていた金貨が、その衝撃で数枚、床に転がり落ちる。


「我が商会の投資予定地が、有望な市場が、全て無価値に!なんという損失じゃあ……!あの死体め、ワシの資産にどれだけの損害を与えたか、分かっておるのか!」


ギルダスは、生命が冒涜される光景そのものにではない。あくまで自らの「資産」が失われたことに対して、心の底から激昂していた。

彼の中の天秤では、数十万の命や魔界の倫理観など、金貨一枚の価値にも満たないのである。


そんな即物的な怒りの声に、リラは扇子で口元を隠したまま心底呆れた、というようにギルダスを一瞥した。

だが、彼女の視線が再び魔法の映像へと戻ると、その整った眉は険しくひそめられる。ギルダスとは違い、この悍ましい光景に彼女は何か別の、より根源的な畏怖を感じ取っているようだった。


「あのイカれ聖女の力は、噂では聞いていたけれど……街の住人全てを、これほどの短時間で完璧なアンデッドに変えるとはね」


リラの呟きは、誰に聞かせるともなく分析の色を帯びていた。


「あれは、ただの死霊術などではないわ。もっと異質で、高次元の……そう、世界の法則そのものに干渉するような『深淵の概念』そのもの」


ギルダスの金銭的な怒りと、リラの学術的な畏怖。その二つを極上の娯楽でも見るかのように、楽しげに眺めている者がいた。

フェステは目の前の悍ましい映像を前にして、あろうことか面白おかしそうに、パチパチと拍手を始めたのだ。


「素晴らしい!これは傑作だ! 我らが聖女様は、とんでもないサプライズを用意してくれていたようだねぇ!」


彼の声は、心からの喝采を送る観客のように弾んでいる。


「まったく、先代陛下という重石がなくなった途端、これほど見事な大舞台を披露してくださるとは! いやはや、この魔王継承戦、次は一体どんな演目で我々を愉しませてくれるのか、楽しみで仕方がない!」


金銭的損失に激昂する者、未知の魔術に知的好奇心を刺激される者、そして、この混沌そのものを愉しむ者。三者三様の自分本位な反応。

アリアはその光景を悲しげに見つめていた。シルヴァニアで失われた数多の命の重みを、この場の誰が本当に理解しているというのだろうか。


その時だった。

それまで、歯を食いしばり、怒りを押し殺していたボロクの我慢が、ついに限界を超えた。


「──ふざけるのも、大概にしろぉっ!!」


雷鳴のような一喝と共に、ボロクは円卓を拳で強く叩きつけた。評議室の空気が、彼の放つ凄まじい怒気でビリビリと震える。


「貴様らの目にはこの惨状が、金儲けの種や見世物、研究対象にしか見えんのかッ!無残に殺され、そして死んだ後もまた、尊厳を奪われている、民たちの、この光景が見えんのか!!」


ボロクの一点の曇りもない正義と怒りに満ちた主張が、評議室に響き渡った。

彼は、他の候補者たちを一人一人睨みつけるように見回し、言葉に力を込めた。


「もはや議論の余地などない!このボロクが率いる魔王軍、そしてここにいる我々候補者全員の総力を挙げ、あの不浄なる聖女リリアナとアンデッドの軍勢を、一匹残らず殲滅すべし!」


それは魔界の守護者を自負する彼の、揺るぎない決意表明だった。

しかし、その正義感に満ちた実直な提案を即座に鼻で笑う者がいた。


「馬鹿も休み休み言っていただきたいのう、将軍殿!」


金貨王ギルダスが、腹を抱えんばかりの勢いで嘲笑する。


「軍を動かすには、どれだけ莫大な金がかかると思っておる!兵站は?褒賞は?そして何より、万が一我らの『資産』たる兵士が、あの死体女の術でアンデッドにでもなってみろ!プラスどころか、目も当てられん大赤字じゃ!もっと費用対効果の高い方法を考えていただきたい!!」


ギルダスのあくまで損得勘定でしか物事を考えない物言いに、ボロクの額に青筋が浮かぶ。

だが、反論は拝金主義者からだけではなかった。


「……力押しは愚策よ、将軍」


宮廷魔術師リラが、扇子で口元を隠しながら、冷たく言い放った。


「あの女の能力は、完全に未知数。あれだけの規模の現象を、どうやって引き起こしたのか。その術の解析こそが先決でしょう。この世界の法則すら歪めかねない最高の『サンプル』を、あなたの下らない正義感で破壊するなど、魔術の徒として到底ありえないわ」


ボロクの武力、ギルダスの経済、リラの探求心。三者の主張が、決して交わることなく激しくぶつかり合う。

その時、怒号と嘲笑が飛び交う評議室に、か細い声が響いた。


「あの……話し合うことは……できないのでしょうか」


声の主は、アリア姫だった。

彼女は、それまで固く結んでいた唇をようやく開き、真っ直ぐに他の候補者たちを見つめていた。


「あのようなことをしてしまうなんて……リリアナ様も、何か、とても深い悲しみを抱えているのかもしれません……。まずは、その声に耳を傾けることは……」


だが、その純粋で現実離れした提案は、即座に一蹴された。

「姫様、お言葉ですが、甘すぎますぞ!」とボロクが言い、「対話……うーむ、なんと無価値な」とギルダスが吐き捨て、「狂気と対話は不可能よ」とリラが冷たくあしらう。

アリアの提案は、この歴戦の候補者たちの前では、現実を知らない子供の戯言なのだ。

そんな絶望的なまでの平行線を辿る議論を、フェステは仮面の奥で楽しそうに眺めていた。


「なるほど、なるほど!姫様のお心遣い、実に素晴らしい! ……ですが、生憎と、我々には姫様のような『明らかに狂っている死体との対話』という高尚な趣味はなくてねぇ」


フェステは、わざとらしくアリアに一礼すると、今度は他の者たちへ向けて、悪戯っぽい声で提案した。


「いっそ、こういうのはどうだい?先の戦で手負いとなった獣王グロムを上手くけしかけて、あのアンデッドの群れにぶつけてみる、というのは。我らの手を汚さずに、化物同士で潰し合ってくれれば、これほど愉快な見世物はないだろう?」


その無責任極まりない提案に、ボロクが再び怒りの表情を浮かべる。だが、フェステはそれを気にも留めず、一人で納得したように言葉を続けた。


「あぁ、でも駄目か!それじゃあ、薄汚い獣人の死体が、聖女様の新たな手駒に加わるだけか!ぎゃはははは!こりゃ傑作だ!八方塞がりじゃないか!」


フェステの甲高い笑い声が、再び評議室に虚しく響き渡った。

そうして議論は完全に平行線を辿り、評議室には疲労と敵意だけが満ちていく。

もはやこれまでか、と各々が席を立とうかという、そんな雰囲気の中──。


「ふぅ……そろそろ、みんなを揶揄うのも飽きてきたな。それでは、ここで一つ、真面目な話でもしておきますか」


それまで混沌を楽しんでいたフェステが不意に、しかし大きなため息と共につまらなそうに言った。

彼はわざとらしく手を一つ叩いて、全員の注目を自身へと集める。


「いやはや、皆さん、実に見事な不協和音ですな。実に聞き応えがあった。……ですが、一つだけ、皆さん、肝心なことをお忘れではございませんか?」


仮面の道化師は、ゆっくりと円卓に座る一人一人の顔を見回した。

その声からは、先ほどまでの軽薄さが消え、氷のような冷ややかな響きだけが残っている。


「──彼女の『楽園』が魔界全土に……いや、世界に広がれば、そこには将軍が率いるべき兵士も、姫様が守るべき民も、魔女が探求すべき魂も、そして大商人が相手にすべき金を使う客も……誰一人、存在しなくなる」


フェステの言葉は静かに、しかし刃のように鋭く、それぞれの候補者の胸に突き刺さる。


「我々がこうして醜く争っている、この『魔王の玉座』そのものが何の価値もない、ただのガラクタになるんだ。……分かるか? あの死体は、この遊戯の盤面そのものを、根底からひっくり返そうとしているんだ」


その言葉が紡がれた瞬間。あれほど囂々と飛び交っていた怒号も、皮肉も、嘆きも全てが嘘のように消え失せる。

フェステの、真理を突いたその言葉。

それに呼応するように、それまで損得勘定だけで怒鳴っていたギルダスが、重々しく口を開いた。

彼の金貨のようにギラついていた瞳からは感情の色が消え、全てを値踏みするような冷徹な商人の目に変わっている。


「……死人は、金を使わん。市場に、価値をもたらさん。なぜなら……死体には、もはや『欲』がないからのう」


ギルダスは卓上に転がっていた金貨を一枚、ゆっくりと指でつまみ上げると、天井の魔法の灯りにかざした。


「あの女は、この魔界全体の経済活動を、ひいては価値そのものを、完全にゼロにしようとしておる。玉座を争う以前の問題じゃ。あの存在は、我々全員にとっての……絶対的な『事業失敗』を意味する……!」


その言葉は、単なる金貸しの戯言ではなかった。

フェステの指摘した「遊戯の崩壊」、そしてギルダスの指摘した「価値の崩壊」。

その二つの言葉が、他の候補者たちの頭の中で、一つの否定しようのない結論へと結びついた。


リリアナの存在は、自らの目的の完全な破綻に繋がるのだ、と──。


「……」


リラは悟る。魂の探求も、禁断の魔術も、全ては生と、そこに付随する欲望や記憶があってこそ。

全てが無に帰す世界では、彼女の研究もまた、意味をなさなくなることを。


「そんな……」


そしてアリアもまた、理解してしまった。

リリアナがもたらす「安らぎ」とは、愛も、喜びも、悲しみさえも、人々から奪い去った末に訪れる、ただの虚無でしかないのだと。

父が守ろうとした、温かい「生」の営みとは、全く相容れないものであると。


それぞれが、それぞれの観点から、同じ結論へと辿り着いた。

リリアナの勝利は、自分自身の、完全な敗北を意味するのだ、と。

評議室の空気は、再び張り詰める。だが、先ほどまでの感情的な対立とは違う。それは共通の絶対的な脅威を前にした、冷たい緊張感であった。


そしてついに重い沈黙を破り、大将軍ボロクがゆっくりと口を開いた。

厳つい顔には、目の前の道化師が意図してこの流れを作り出したことへの僅かな疑念と、しかしこの機を逃すわけにはいかないという武人としての覚悟が浮かんでいた。


「……皆、腹の中は違うだろう。それに、玉座を巡る戦いはまだ続いている……」


ボロクは、円卓に座る一人一人の顔を、その実直な瞳で順番に見つめながら、重々しく言葉を続ける。


「だが、その玉座そのものがなければ、話にならん。……リリアナは我々生けとし生きる者、全ての敵だ。あの不浄なる聖女だけは、たとえ取るべき手段は違えど、必ず、協力してこの世から消し去る。──これに、異論のある者はいるか?」


その問いかけに、大評議室は再び、絶対的な静寂に包まれた。

それは先ほどまでの、互いの腹を探り合うような不信の沈黙ではない。それぞれの利害と共通の脅威を天秤にかけた末の、重い……重い決断の沈黙だった。


しばしの時が流れる。

そして、誰も反対の声を上げる者はいなかった。


リラは扇子で口元を隠したまま、その紫の瞳を静かに伏せる。彼女はこの歪な合意を承諾した。

ただし、それはあくまで自らの探求の邪魔となる「異物」を排除するためであり、その手段は自らが選ぶ……という暗黙の意思表示でもあった。


ギルダスは、「まぁ、必要経費じゃ。致し方あるまい」と呟き弄んでいた金貨を懐へとしまう。彼にとっては、事業失敗という最大のリスクを回避するための、当然の経営判断に過ぎない。

この共同事業で、いかに自らの損失を抑え利益を上げるか、既に彼の頭の中では新たな算盤が弾かれ始めていた。


フェステは、仮面の奥で満足げに口角を吊り上げると、大袈裟なまでに優雅な一礼をしてみせた。

混沌は、彼の望み通り、さらに深く、そして面白くなろうとしている。


そしてアリアは……ただ、悲しげに瞳を閉じることしかできなかった。

これ以上、誰も死んでほしくはない。だが、シルヴァニアのあの悍ましい光景を前にして、彼女にはもはや、反対の言葉を見つけることはできなかった。


こうして、魔王の玉座を巡る五人の候補者たちの間に、「打倒リリアナ」という一点においてのみ結ばれた、歪で脆く、そして危険極まりない盟約が成立した。

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