――金属の匂いがしない。焼けた砂の感触も、耳をつんざく爆音もない。
ゆっくり目を開けてみると、世界がまるで布で覆われたように柔らかかった。 光は優しく、空気は暖かく、遠くで小鳥が鳴いている。
「あ……?」
思わず漏れたその声に、自分でびくりと肩を揺らす。高い。甘い。――明らかに“女の声”だった。
何が起きているのか分からないまま、布団をはねのける。身体が異常に軽い。筋肉の張りも痛みも感じない。それが、逆に怖かった。
手を見れば、小さく白い指先。腕は細く、爪が綺麗に整っている。胸のあたりが……重い。何かが、ある。
(…………女だよな?)
全身が総毛立つような感覚に襲われた。 視界が揺れる。反射的に部屋を見回す。ベッド。机。棚。――生活感のある、綺麗な“誰かの部屋”。
――誰か? いや、ここは、“私の部屋”らしい。
証拠はそこかしこにある。机の上には制服のリボン、学生証。棚には化粧品。壁には卒業アルバムらしきファイル。
恐る恐る、姿見の前に立つ。そして見た。
そこにいたのは、“私ではない私”だった。 茶色のセミロング。くりくりした目。薄い唇。 化粧っ気はないのに、整った顔立ち。
その顔が、私の動きに合わせて動く。
「……ふざけるなよ……」
掠れた独り言が、あまりにも女声すぎて、背筋が寒くなる。
学生証には『瀬名 紫音(せな しおん)』と記されていた。知らない名前。知らない人生。知らない体。
でも、今の俺の“すべて”が、それを指している。
(俺の名前は……“レイヴン・ザ・ファング”)
その名を思い出した瞬間、頭に音と痛みが混ざった“記憶の断片”が流れ込んできた。 銃声。土煙。血。仲間の断末魔。焼けた銃床の匂い。手榴弾のピン。砲弾の直撃。
俺は、確かに、死んだ。
だからここにいる。この身体の中に、“あの時死んだ俺”の記憶が流れ込んでいる。
じゃあ、この身体の中には――“紫音”の記憶はあるのか?
……白いランドセル。母の声。放課後のアイス。ぼんやりとした映像だけで、体験した実感はない。 これは、“記録”だ。俺のものじゃない。
つまり俺は、完全に紫音として生きていたわけじゃない。まるで前世の幽霊が、新しい体にすっぽりと入り込んだような感覚。
その時。
「しおーん! もう七時半よ! ほら起きてー!」
廊下からバタバタと足音が聞こえ、部屋の扉が開く。
現れたのは、エプロン姿の――“私の母”だという女性。
「朝ご飯できてるからねー! 制服にリボンつけた? リュックは? 今日は転校初日でしょ?」
話しかけてきた、彼女の視線は完全に“娘”を見ていた。疑う様子は一切ない。 私は、とっさに演技するしかなかった。
「……うん、ありがとう。すぐ行く」
自分で驚くほど自然な声が出た。完全に“紫音”としての反応。
偽物の家庭。偽物の声。でも、それを演じなければ生きられない。
演技だ。これは戦場だ。
敵は――バレること。
私はリボンをつけ、制服に袖を通した。
家を出て、校門が見える頃にはすでに8時を回っていた。 スカートのひらひら感には慣れないし、脚が妙に軽い気がして落ち着かない。革靴も頼りない。走れる気がしない。
それでも人の流れに混じって歩き、門をくぐろうとしたその時――
「そこのあなた、ちょっと待って」
声がした。
振り返ると、完璧に制服を着こなした眼鏡の女子が立っていた。腕には『風紀委員長』の腕章。髪は一分の乱れもないポニーテール。口調は冷静すぎるほど冷静。
「スカートの長さが規定より2センチ長いわね。それにその靴も……指定外。初日とはいえ、校則は守ってもらわないと困るわ」
「え、ええっと……すみません……」
(え、ちょっと待って、なんでそんな細かいとこ見てんの!? そして正確すぎない!? 2センチって何で分かるの!?)
「私は白雪 紗月(しらゆき さつき)。あなたと同じクラス、2年B組の風紀委員長よ。今日からは、学内での行動もしっかり見させてもらうから」
(なんで!? まだ校舎に入ってもないのに!?)
この人、絶対に関わっちゃいけないタイプだ。が、なぜか目が離せない美人なのが腹立つ。
「じゃ、じゃあ教室行きます……」
背中に視線を感じながら、私は逃げるように昇降口へ向かった。
担任らしき女性に案内されて教室の前に立った。 中からざわざわとした声が聞こえる。 心臓がどくどくと音を立てていた。
ドアが開いた瞬間、全員の視線が私に集中した。
35人の生徒の目。ざわつく声。値踏みするような視線。
(戦場より……怖い)
「今日から2年B組に転校してきた瀬名紫音さんです。では一言お願いします」
「……瀬名紫音です。まだ不慣れですが、よろしくお願いします」
一礼。無難。完璧。 けれど背中に刺さる視線が止まらない。
(俺、マジで“女子高生”やってるのか……)
窓際の席から外を見て、心の中では「帰りたい」コールが鳴っていた。
そこへ、隣の女子――結城が話しかけてくる。
「ねえ紫音ちゃんってどこから来たの? 転校って、引っ越しとか?」
「え、あ……うん。ちょっといろいろあって……」
(砲撃を食らって死にました)
「へー、東京の学校って制服もっと派手? リボンでかいとか、スカート短いとか?」
「……あんまり派手じゃなかった、と思う」
(なんで女子はそんなこと気にすんの!?)
「てかさ、肌めっちゃ綺麗じゃない!? 化粧水なに使ってる?」
「……洗顔フォーム?」
「え、それだけ!? 生きるのうまっ!」
(生きるのうまいって言うな。俺は“生き延びる”方専門だったんだが)
さらに後ろの男子がひょこっと顔を出す。
「ねえ、格闘技とかやってた?」
「えっ?」
「朝、俺の落としたペン避けたでしょ? あれ、反応早すぎたよ。絶対、スパーリングやってる人の動きだった!」
「……そ、そんなことないと思う、よ?」
(うっかり“銃弾回避”モードになってたわ……)