大正四十年。
凛の前世の記憶には、無い時代だった。
自分が
どうやら前世の幼少期と、凛としての幼少期の記憶がまざっているようだった。
だが十歳になってしばらくしたある日、ふとした瞬間に、まるで雷に打たれたように、自分が
ここは元いた日本と同じ日本ではあるようだけれど、違う世界だった。
この世界で西暦は使われていなかったが、自分の知っている大正と西暦の関係性から計算すると、その時は一九四五年。
いやでも聞き覚えのある年号に、背筋を冷たいものが走った。
しかし、凛の日常生活は穏やかで、争いの気配はどこにもなかった。軍隊も、徴兵制も存在していない。昨日までの凛としての記憶のなかの毎日にも、戦争の影は微塵も感じなかった。
その瞬間、ここは同じ世界線ではないのだ、と気づいた。自分は、元いた日本からこのある種パラレルワールドの日本に、生まれ変わったのだ、と。
誰に教えられたわけでもない。けれど、目覚めた瞬間、凛ははっきりと理解した。
「
その時、自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなった。
見慣れた自室のベッドの上のはずなのに。辺りを見回し、ようやく思い出す。自分は十歳の子供、鷹司凛。鷹司家の一人娘として、大切に育てられているのだと。
しかし同時に、大好きな海音颯太の顔が強烈に脳裏をよぎる。
厳しい上司、終わらない仕事、残業の毎日。
あの頃、唯一の希望だった人。
ああ、神様。転生させるならさせるでいいけれど、どうしてあの日だったのですか。
せめてあと一日遅らせてもらえれば。
颯太くんの舞台の最前列チケット。きっと空席にしてしまった。当然だ。チケットは前世の自分の財布の中にある。
最前列に空席を作るなんて、ありえない失態だ。しかもファンクラブで買った席だから、誰がチケットを持っていたのかバレてしまう。
それなのに……。
凛はベッドで頭を抱えた。
何よりも、観たかった。推しの主演ミュージカルを。
「舞台との出会いは一期一会」
颯太がいつもそう語っていたインタビューを思い出す。
それから、国立図書館に入り浸り、元いた日本に戻れないか散々調べたけれど、結局望み薄だということがわかっただけだった。
というか、『転生』についていくら調べたところで、結局ファンタジー小説に行き着くだけだったのだ。
早々に諦めがつき、この世界で生きていく決心が固まったのは、自分が劇場支配人の孫として転生した、とわかったからだ。
その時の感動を、凛はとても言葉で言い表せない。
正直、推しがいない世の中でやっていけるかどうか、わずか十歳の外見で内心絶望していたけれど、それを知った瞬間、凛――の中の前世の自我は歓喜に包まれた。
この世界で、自分の推し俳優を見つけて、その男をこの劇場のセンター、つまり
そう気づいた瞬間、凛はなんでもやってやる、と決意した。
そして、絶対に自分がこの白亜の殿堂を取り仕切る跡取りになる、と。
よくよく凛としての生活を振り返ると、元いた日本と比べると若干文明が遅れているようで、少し不便ではあったものの大した苦労はなかった。
転生先が富裕層の家庭だったからかもしれないが、ベッドは一人暮らししていた時よりふかふかだし、袴も着物も、着方さえ覚えてしまえば、生地は上等だった。
ここは現代日本で流行していた大正レトロな世界観が、少しだけ進歩したような世の中らしい。
といっても映像技術の発展は遅れているらしく、テレビは家にも街中にも見かけなかった。
パソコンも存在しない。タイプライターらしき、パタパタと音を立てて文字を印字する機械を使って仕事をしていた。
反面、印刷技術は随分発展しているようだった。さすがに複合機のようないかつい機械は見当たらなかったが、文字も写真も絵も綺麗に複製ができるらしい。
映像がない分、情報は紙から得るものなのか、本も雑誌もたくさん売られていた。劇場で販売する公演パンフレットには、役者の写真も綺麗に掲載されている。
おかげで凛は、テレビやパソコンがなくても何ら退屈しない日常を過ごすことができた。小説や戯曲、漫画を片っ端から手に入れて読み漁ったし、流行を追った少女向けの雑誌も何冊も刊行されていた。目の異様に大きな、キラキラした絵柄の少女漫画は、どこか懐かしさも感じさせて、この世界の少女らしく読み漁って過ごした。
転生したと自覚して六年経ったが、一度蘇ったその感覚が色褪せることはなかった。それどころか、鮮明に前世の知識を脳内に呼び起こせるようになってきていた。転生当時の年齢に近づきつつあるからなのかもしれないが、正確なことはわからない。
ただおかげで精神年齢は倍近くになってしまい、女学校の友人たちとの恋バナに、微妙なジェネレーションギャップを感じてしまうのが玉に瑕だ。
世間は、家の格式は重んじる傾向があるものの、街には職業婦人が溢れ、やれ結婚だお見合いだと急かされなくて済む点は助かった。もっとも、内心どう思われているかわからない点は、現代日本と変わらない。
もしかしたら忍も心のなかでは、「あの孫はいつ嫁に行くつもりなんだ」と思っているのかもしれなかった。
残念ながら、全くその予定もその気もないけれど。