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第二章⑧

「おい、お前、その台本寄越せ。俺が読むんだよ」

「なんでですか! 私が先に読み始めたのに」

「は? 当たり前だろ。俺は稽古に必要なんだから。お前は別に今すぐ読む必要ねえだろ」

「う……」


 確かに、凛にとっては知識を増やすための勉強である。

 礼央に「演技プランを考えるための資料だ」と言われてしまえば、ぐうの音も出ない。


 凛は仕方なく手に持っていた台本、『オリバーとマリア』を差し出した。先日、保管庫の奥からようやく見つけたのだ。どうやら六十年以上前に上演されたらしい。

 ところどころ頁は虫に喰われていたけれど、読めないことはなかった。


「わかればいいんだよ」と満足げに台本を受け取った礼央に、

「ジャイアンか……」


 思わず凛は毒づいたが、本人の耳には届かなかったらしい。



 グッズ関連の作業は順調に進んでいた。

 次々と完成品が届き、ここ三日ほど稽古場に顔を出せていなかったが、どうやら稽古も順調らしい。


 礼央は相変わらず稽古後に、鷹司家に入り浸っていた。二人で何時間も台本やパンフレットを読み漁り――もっとも各々の世界に没頭していて会話はほとんどないのだが――、使用人が「そろそろお夕飯を……藤吉さまが待ちくたびれております」と呼びにくるまで気づかないことが多かった。


 いつの間にか、礼央はほとんどの日の夕飯を鷹司家で食べて帰るようになっていた。


「礼央さん、意外と図々しいんですね」


 ある日、嫌味を込めて凛がそう言うと、またしても鼻で笑われた。


「俺も最初は遠慮したけどな。でも考えてみれば寮で食べたって支配人のやりくりしてる金だし、ここで食べても同じだろ」

「そうかもしれないですけど……」

「それに、支配人もお前と二人じゃ退屈みたいだしな?」


 にやりと笑われて、頭の中のシナプスがぷすぷすと焼かれる音がする。


「絶対退屈してないですから!」

「そうかよ」


 肩を震わせて大きく笑うと、礼央はあっさりと視線を手元に戻した。


 頁をめくろうとした手が止まり、

「そういえば、レヴューの曲ができたぞ」

「え、そうなんですか⁉︎」

「ああ。昨日歌稽古して、今日は振り付けだった。春たちがしばらく自主練だってうるせえんじゃないか。あいつら曲を気に入っていたから」


 そう言って笑う礼央は、まるで弟たちについて語るような柔らかい表情をしている。


「礼央さんの曲はどうなんです?」

「はっ。いい曲に決まってんだろ。ひとつはテンポが速くて観客を煽りやすい曲調だし、バラードは十分に聞かせられる曲だ。間奏のダンスは愁も付き合わせることにしたしな」

「へえ。それはお二人のファンが喜びますね」

「まあな。愁は前回公演に続いて二回連続で女形だから、レヴューでくらい、男役の姿を見たい客も多いだろ」

「え、愁さん男役で礼央さんと踊るんですか」


 男性二人のデュエットダンスということだろうか。それは湧くに違いない。

 特に見目麗しい二人の並びだ。衣装はどんなものを用意するつもりだろう。バラードなら正装だろうか。

 それは見応えがある。

 前世でも男性二人のデュエットというのは、特別人気が高かった。


 それにしても、と凛は思わず内心で感嘆の息を吐いた。客が見たいものまで考えているのか、と。

 本来プロデューサーや演出家が考えるべき点まで、礼央は意識している。


 凛はちらりと目線を上げて、礼央の横顔を観察した。涼しい顔をして台本に目を落としているその表情は真剣で、肌は細かく彫刻のように滑らかだ。


 稽古を覗くたびに感じることだが、礼央は体の向き、指のつま先の揃え方、瞬きの瞬間までコントロールしようとしているように見えた。

 その計算し尽くされた動きは、記憶の中に残る颯太のものとは違ったけれど、繊細で、思わず惹きつけられた。

 ここまで考え抜いている礼央に、生半可なことは指摘できない。


 天音礼央は確かに天性の才能と、努力する才能を併せ持った人間なのかもしれなかった。


 客席を、紫と緑のライトが覆ったらさぞ綺麗だろう。二人にも、その光景を舞台上から味わってもらいたい。


 結局絆され始めている自分に気づかないふりをして、凛が書架の本に手をかけた瞬間だった。


「お嬢様、失礼いたしますっ……!」


 使用人のひとりが駆け込んでくる。いつも静かにしてくれているのにどうして、と訝しみながら書架の合間から顔を覗かせると、その使用人は顔面蒼白で、息を切らしていた。


「藤吉さまが、お倒れに……!」

「え……」


 咄嗟に、言われた意味がわからなかった。

 ひゅっと自分が息を呑む音がやけに大きく響く。

 脳が理解することを拒否し、固まった凛の後ろで、「おい、どこだ」礼央が声を荒げた。


「こ、こちらです」


 来た廊下を戻ろうとする使用人の背中を見て、ようやく我に返る。


「行くぞ」


 礼央に声をかけられて、頷く余裕もなく二人は廊下を駆け出した。


 螺旋階段を登って二階へ上がる。藤吉と凛、それぞれの私室や客間のあるフロアだ。

 使用人は突き当たりの藤吉の私室へと向かっているようだった。

 廊下の向こうに、部屋の扉が開けっぱなしになっており、中の使用人たちが慌ただしく動き回っているのが見えた。


 凛が部屋へ飛び込むと、デスクのすぐ横で藤吉が倒れており、使用人の一人がその体を支えていた。苦しそうに息を吸う音が聞こえてくる。

 息があることを安堵していいのかどうかわからない。倒れたときに打ったのか、頭から血が流れていて、別の使用人が布で止血を試みている。

 凛に気づいた年嵩の使用人長が近寄ってきて、「お夕飯にお呼びしたら、こちらで……。今医者が向かっているところです」


 凛は声なく頷くと、藤吉の横に座り込み、手を握った。


「お祖父ちゃん。しっかり、しっかりして」


 いくら呼びかけても反応がない。意識を失っているようだ。こう言う時どうするんだっけと必死に考えるが頭が働かない。元いた世界ならAEDを探すのに。


 結局どうすることもできず、凛は握った手に力を込めて何度も呼びかけた。


「お祖父ちゃん、お祖父ちゃん……」


 だんだん凛の声に涙が混ざり始める。拭うことのできない涙がはらはらと着物に吸い込まれていった。

 引き攣りそうなほど大きく体を震わせた瞬間、大きな手に肩を掴まれた。目だけで振り向くと、礼央が凛の両肩を支えていた。


「泣いてどうするんだ。しっかりしろ」

「は、はい……」


 頷く凛の背後から、礼央も藤吉に声をかける。


「支配人! さっさと起きねえとこいつが泣き止まねえぞ」

「お祖父ちゃん、しっかりして! もう少しで先生くるからね」


 二人でそれからしばらく声をかけ続けていると、やがて白衣を着た医師が走り込んできた。いつも藤吉を診てくれている主治医だった。


「お願いします」と断って、凛は藤吉のそばを離れる。少し遠くから見た藤吉は息をしているかどうかもわからなくて、凛はますます泣きじゃくった。


 礼央は今度は何も言わず、黙って凛の肩を撫で続けた。


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