藤吉が倒れて以来、さすがに礼央も保管庫を覗きにくることがなくなったので、二人が会う機会は極端に減っていた。
『オリバーとマリア』はあの日、帰ろうとする礼央に、病院で咄嗟に渡していた。
「稽古で必要になるかもしれないから持っていて」と。
真剣に台本を読んでいた姿が思い浮かんでは、邪悪な笑みを浮かべた礼央の顔へとスライドしていく。
それは凛の想像が生み出した勝手な表情だったが、やけに似合っているような気がしてしまう。
「お嬢様?」
深く考え込んでいたせいか、忍が心配そうに凛を窺っていた。
「なんでもありません」
ゆるゆると首を振って答えるものの、胸に抱えた疑念は大きくなっていくばかりだ。
「しかし、記事になってしまった以上、劇団員たちにはきちんと説明しなければなりませんね」
「そうですね……」
噂が一人歩きして、動揺を誘うのは良くない。
「今日、稽古前に時間をもらいましょう。説明に行ってきます」
「私も行きます」
思わず、凛はそう言っていた。
「私が説明します」
「お嬢様……」
「私は公に後継ときまったわけではないです。でも孫ですから」
忍の瞳が、硝子越しにじっと凛を見つめる。しばらくして忍は「わかりました」と頷いた。
「フォローはこちらでしますから、その点はご心配なく」
「ありがとうございます。……頼りにしています」
そう頭を下げると、少しだけ驚いたような顔をして、忍は複雑そうに笑った。
舞台稽古初日ではあったが、きちんと説明してからの方がすっきり稽古に入れるだろう、ということで、全体が集合したタイミングで時間をもらった。
ホワイエから客席に入ると、舞台上には稽古着の役者が勢揃いしていた。スタッフも、説明を聞くためなのかみな客席に集まってくれている。
一歩足を踏み出した瞬間、中にいた人々の視線が集中した。役者だけで二十人以上、スタッフも加えると五十人近くいるかもしれない。思わず足が竦んだ。
舞台上で自主練をしていたのか、奥に礼央が立っているのが見えた。
「お嬢様?」
忍に声をかけられ、小さく頷き返してから歩き始める。ちょうど舞台の真ん前、客席の最前列まで行くと、凛は深く息を吸った。
「お時間をいただいて申し訳ありません。祖父、鷹司藤吉の現状を説明させてください」
精一杯声を張って話し始める。数多の台詞を聞いてきた舞台は、凛の声を簡単に響かせてくれた。
「今朝の新聞でご覧になった方も多いと思いますが、先日、自宅で倒れて病院に搬送されました。命に別状はありません。が、まだ意識が戻っていません」
一気にそう告げると、あちこちから息を呑む音が聞こえてきた。
礼央はまっすぐに凛を見つめていた。その瞳の強さに負けないように、凛は握り拳に力を込めた。
「ですが祖父からは直前に、今回の公演も稽古は順調に進んでいると聞いています。制作サイドの準備も問題なく進んでいますので、どうか安心して稽古に集中してください。我々も無事に初日を迎えられるように努めます」
よろしくお願いします、と言って深くお辞儀をする。
舞台に、しん、とした沈黙が満ちた。
「俺たちは、自分たちのできることを精一杯やろうね、みんな」
静まり返った空間に、穏やかな声が響いた。
愁だった。いつの間にか隣に歩み寄ってきた彼は、ぽん、っと凛の肩に手を置いた。
「こうやって凛さん自ら俺たちが集中できるようにしてくれているんだし、いい舞台にして、早く支配人に目を覚ましてもらおう」
そう言うと、あちこちから賛同の声が上がる。
「支配人が起きてきたら、びっくりさせてやろう」
「いいものを作ればきっと目を覚ますよ」
「早く起きなかったことを後悔させてみせよう」
前向きな言葉があちこちから聞こえてきて、凛はほっと息を吐いた。
口を噤んでいた礼央と目が合う。
かすかに口端を上げたその顔は、決して意地悪ではなく、凛を心から励ましてくれているように見えた。