「愁さん、今日はありがとうございました」
稽古が終わり役者たちが帰っていくタイミングを見計らって、凛は楽屋口を出ようとする愁に声をかけた。
「凛ちゃん。ん? なにが」
柔和な表情で首を傾ける愁の仕草は、とてもたおやかだ。
「いろいろと、手助けいただいて」
「ああ。大したことないよ。元々俺がするべき役割だしね」
凛がその言葉に首を傾げると、
「支配人からも言われているんだ。劇団を、礼央をフォローする役割がお前だって」
「そうなんですか」
「だから少しは役に立ってるといいんだけど」
「そんな……。愁さんがいなかったら、きっとまとまってないですよ」
「ありがとう。まあでも劇団員はみんな礼央の背中を見てついていくから」
「へえ」
「あれ、意外な反応だね」
「え?」
きょとんとする愁に、凛も問い返す。
「礼央が、凛ちゃんのことは認めてる感じだったから……珍しいなと思ってたんだ」
「珍しい、ですか?」
「うん。礼央の女嫌いは有名なんだけど、知らない?」
「えっ」
女嫌いだなんて聞いたことがなかった。藤吉も忍も特に言っていなかったし。
不遜な態度は凛が女だから、というより、誰に対しても同じ振る舞いなのだと思っていた。
「まあもう大人だから、露骨に避けたりはしないと思うけど、なるべく関わりたくないんだって。だから星屑はちょうどいいみたいだよ。女性が少ないからね」
確かに衣装やヘアメイクで女性スタッフがいるものの、そもそも役者が全員男だから、明らかに男女比は男の方が高い。
「なんで女嫌いなんですか……?」
そう問うと、愁は一瞬目を見開いた。
「それは俺の口からは言えないかな」
「あ、そっか。そうですよね、すみません」
「本人に聞いてみたら? 意外と凛ちゃんには答えてくれるかも」
「そうでしょうか……」
愁はそう言ったけれど、凛は苦笑いしか返せなかった。確かに一時期より会話を交わすようにはなったけれど、彼のことを本当は何も理解できていないと思い知ったばかりなのだ。
「愁さんは、どうして星屑歌劇団に入ったんですか?」
「俺は親の影響かな。母の一家が代々日舞を教えているんだよね。だから芸事の世界に触れるのが当たり前で。親戚に星屑の役者だった人もいて、子どもの頃から観ていたから。日舞だけじゃなくていろんな踊りができるし、歌もやってみたかったしね」
「へえ……。でも愁さんは子役出身じゃないですよね?」
星屑歌劇団は、子役として在籍することもできるが、正劇団員として入団できるのは、十五歳以上と決まっていた。子役から劇団員になりたい場合も、試験に合格しなければならない。
「うん、だから普通に学校行って、家で日舞をやって。十五歳になった瞬間に、申し込んだんだ」
「一発で受かったんですか?」
「一応ね。日舞やってたし」
「へえ、すごい……」
星屑歌劇団に入りたいと思っても入団試験で落とされる人がほとんどだった。
一度でパスする人は少ない。
だいたいみな十五歳で受けて、二、三回は落ちてやっと合格する人が多い。
「家は姉が継いでいるし。俺は星屑で二番手にまでしてもらって、こんなに恵まれた人生はないよね」
「でもトップスターになりたいとは思わないんですか?」
訊ねると、愁は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして凛を見た。一瞬の間ののち、大きく噴き出す。
「まさか。トップになりたいなんて思ったことないな」
「へえ」
やるからには皆一番を目指しているのではないだろうか。
愁の真意を探ろうと、まっすぐにその瞳をみつめると、イタズラっぽく笑われた。
「でも、二番手ではありたいと思ってるよ。礼央の魅力を引き出せるのは、俺が一番だからね」
その自信に満ちた声音は、愁から初めて聞いた音だった。
「十五で星屑に入ったとき、同期に礼央もいたんだ。十四で拾われて、個別にレッスンを受けてたらしいけど、それを知らなかったから、初めて礼央を観たときは驚いたよ。圧倒的な華があったし、歌もダンスも始めて一年とは思えないほど上手くて。日舞だけはなんとか負けないようにと思って必死だったな。で、そこから一緒に劇団でレッスンを受けて稽古に参加していたんだけど、どんどん上手くなっていくんだよ。どうやったらあんなに伸びるんだろうと思って、毎日観察してた。そしたら……」
「そしたら?」
「普通にめちゃくちゃ練習してた。あー、こんなに練習すんのか、こんなに上手くてもって思って、衝撃だったな」
「へえ……」
「で、俺も心を入れ替えたってわけ」
そう言うと、愁はばちんと片目を瞑ってみせた。まるでアイドルみたいな仕草に、凛は思わず吹き出してしまう。
確かに藤吉の言うとおり、礼央と愁は良いコンビかもしれない。
「あの、愁さん」
凛は思い切って口を開いた。
「ん?」と柔らかい瞳をいっそう下げて、愁が首を傾げる。
「あの、ちょっとお伺いしたいんですけど、あの、春さんと雨さんから何か聞いてます?」
そう訊ねると、愁はぱちぱちと目を瞬かせてから、「ああ……」と苦笑いにも似た複雑な笑みを浮かべた。
「何か聞かされた?」
「まあ……と言っても何も答えられなかったんですけど」
凛が情けなさにため息をつくと、「いやそれは凛ちゃんが気にすることじゃないよ」と愁が言う。
「でも……支配人がいれば違うのかなって」
「いやいや。まさか藤吉さんに、あの子たちが気軽に話しかけられるわけないから。凛ちゃんだから弱音を吐いちゃったんだと思う。ちょっと慰めてもらいたかっただけなんじゃないかな」
「そう、でしょうか……」
「うん。それに、配役とか出番について愚痴ったってどうしようもないでしょう」
「確かに……」
「まあでも、気持ちはわかるけどね。特に本番前は、一番不安だから。でもそれを、凛ちゃんに愚痴ってる時点で、あの子たちはまだまだなんだけどな」
予想外にドライな口調に驚いた。
愁はもっと後輩に寄り添うタイプだと思っていたから。
それが顔に出ていたのか、凛を見て口端を上げる。
「俺、意外とそんなに優しくないんだよね。礼央の方がまだ後輩思いかも」
「え!?」
意外な言葉に大きな声が漏れる。慌てて口を塞いだ凛の様子を見て、愁が吹き出した。
「それはどっちに対する反応なの?」
「え……っと……」
なんとも言えず凛は目を逸らす。
「まあ礼央は直接口にはしないけど、後輩のこともちゃんと見てるし。言うべきことはちゃんと言うと思うよ。俺は気づいても放っておくタイプかな」
「愁さんの方が体育会系ってことですか。意外です」
ん? と首を傾げられて、体育会系っていう概念がこの世界にはないのかも、と気づいた。
適当に誤魔化していると、楽屋口が開いて、運転手が入ってきた。
きょろきょろと辺りを見回して、次に誰が乗るのか探している。
「じゃあ、またね」
「あ、はい。お疲れさまでした」
ひらりと手を振って歩き出した愁の後ろ姿を見送る。運転手は愁の姿を見つけると、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
礼央だけじゃなくて、他の劇団員のことも何も知らない。
もちろん支配人は劇場の仕事が主で、藤吉も劇団のことは劇団のスタッフに任せていたようだけれど、せめてどんな人が劇団員として所属しているのか、そのくらいはきちんと理解しておきたいと思ったのだった。
自分には藤吉のような経験がないから。
それを補うには、誰にでも寄り添える存在にならなければないのではないか、と凛は漠然と思い始めていた。