その日の仕事を終え、藤吉の入院する病院へ寄った。
面会時間などの決まりはないらしい。
それが病院として決まっていないのか、藤吉がVIPとして優遇されているからなのか、凛には判断がつかなかった。
昼間は使用人が交代でついていてくれたが、特に変わりはなかったようだ。
こんこんと眠り続ける藤吉の身体が、見慣れた姿よりずいぶん小さく見えた。顔に刻まれた皺も知らぬうちに増えたような気がする。
前世では、子供の頃に両方の祖父母が亡くなってしまったから、こうして倒れたり入院したりといった時の記憶は残っていなかった。
ただ葬儀場で、知らない笑顔の写真を見上げた記憶だけが残っている。
あの時感じた底知れぬ寂しさは、転生しても胸の内に残っていて、思い出すだけでしとしとと雨に打たれているような気分になる。
いくら使用人がいるとはいえ、あの広い洋館に一人で過ごす夜を想像すると、憂鬱な気持ちに襲われる。
いっそ今日もここで世を明かしてしまおうか、と思いながら藤吉の顔を見つめていたときだった。
遠慮がちにノックの音が響いた。正確に、等間隔に三度叩かれたのち、かすかな音を立てて扉が開いた。
礼央だった。直った楽屋のシャワーを浴びたのか、着流しの浴衣姿に、前髪がかすかに濡れていた。
「濡れてますけど……風邪ひかないでくださいね」
どうしてここに、と訊ねる前にそう口にしていた。
「ああ」と短い返事が返ってくる。身体が資本の仕事だから、気をつけてはいるはずだけど、無理はしないでほしい。
「まだ目を覚ます気配はないです」
そう言うと、礼央の目がわずかに曇った。
「そうか」と口の中だけで小さく零すと、ベッド脇まで近づいてくる。
慌てて、自分がいるのと反対側のベッドサイドに椅子を出すと、礼央はなぜかそれを持ったままぐるりとまわり、凛の隣に置いて腰掛けた。
「いいんですか、帰らなくて」
明日は返し稽古のあと、ゲネプロがある。今日以上にハードな一日になるはずだった。
「ああ。少しだけ」
そう言って礼央は、無言で眠る藤吉の顔を覗き込んだ。
「俺は十四の時、藤吉さんに拾ってもらった」
「はい。聞きました」
「だから感謝してもしきれない。もし拾ってもらっていなければ、どこかに売られて下働きをさせられていただろうから。芝居をやってみたいという希望まで叶えてもらった」
「どうして、芝居をしてみたいと思ったんですか」
そう問うと、藤吉を見つめていた礼央の視線が、凛へと移動した。
「働く前に一度見てみろ、と連れて行かれた。一階の一番後ろの立ち見だった。でも俺は当時体が小さくて。もともと家が貧しかったから育ちが悪かったんだ。親が死んで引き取られた親戚の家では、食事も満足に与えられなかったしな。ひょろひょろだった。立っているのも辛いし、舞台がよく見えなくて、退屈そうな俺を見兼ねて、藤吉さんが公演中ずっと抱きかかえてくれた」
「へえ……」
いくら小柄といっても、十分重かったはずだよな、と礼央は苦笑いを浮かべる。でもその横顔は、どこかはにかんだようにも見えた。
「夢みたいな世界だと思った。だから何度も見たいと強請って、そのたびに一人でこっそり立ち見させてもらった」
そう言うと、礼央は凛のほうに向き直った。
「その時に、お前も見かけた」
「え……?」
「着飾った格好で藤吉さんに手を引かれて。いつもいい席に座って。正直いけすかないと思った」
「え……!」
確かに、期間中必ず一度は公演を見せてもらっていた。前世ではとても手に入らない、中通路すぐ後ろの、視界が開けて一番見やすい場所ばかりだった。考えてみれば関係者が座るような場所だが、特に気にしたことはなかったと思い至る。
「でもその時、藤吉さんには本当の孫がいる。だから俺は、別のやり方で、藤吉さんの役に立ちたいと思った。そのためにできることはなんだろう、と考えた。で、一番は、トップスターになって、劇団に客を呼ぶ。俺が星屑をもっと大きくしてみせることだって」
「そんな昔からトップを目指してたんですか」
しかも、祖父に恩返しをするために。
驚きで凛が大きな声で聞き返すと、礼央はしっと自分の唇に人差し指を当てた。
その仕草に、凛の胸がどくんと鳴る。
それは、颯太がよく取っていたポーズだった。
やっぱり、よく似ている。性格は違うけれど、仕草、考え方、そしてパフォーマンスに全力なところがなにより。
「そうだ。でもお前だってそうだろう?」
「え?」
礼央にそう確認され、凛は咄嗟に首を傾げた。
「お前だって、最初から後を継ぐって思ってたんだろ」
疑いのない目を向けられて、凛は思わず息を呑んだ。
「俺と変わらない年端の時からそう思ってたんだろ。それくらいわかる。客席から舞台を観るお前の顔は、どこか鬼気迫っていたからな。だから俺も、藤吉さんの本当の孫はお前だけだ、と素直に認められたのかもしれない」
言い当てられて、凛は何も言い返せなかった。自分の野心が透けて見えていたことに対しても、それをあっさり見破られたことに対しても驚いた。
けれど何より、凛の目的を、礼央がずっと前から認めてくれていたように思えて、そのことに驚いていたのだった。