「春くん。ちょっといい?」
翌朝、ゲネプロを控え、化粧をしている春の楽屋を凛は訪ねた。
普段だったら、いくらゲネとはいえ、舞台に立つ直前の役者に話しかけたりしない。ただ、このままでは良くない、という予感があった。
「凛さん? 珍しいですね」
楽屋の扉を開けながらそういった春の顔が、途中で強張っていく。
昨日の自分の発言を思い出したのかもしれない。
「ごめんね。ゲネプロの直前に」
「大丈夫ですよ、どうぞ」
春の楽屋は綺麗に整えられていた。私服も綺麗に畳まれていたし、鏡の前の化粧品は綺麗に並べられている。その下には、ピンクの手拭いが敷いてあった。
「ピンク、使ってくれてるんだね」
「普段から取り入れようと思って」
「もしかして、本当は苦手な色だった?」
そう問うと、春は苦笑いを浮かべた。
「苦手ではないんです。でも子どもの頃から避けてはいました。俺、背も低くて顔も……どっちかと言うと女みたいだから。姉が二人いるせいか、子どもの頃からお下がり着せられり、女の遊びに付き合わされたりして、友だちにも馬鹿にされることが多くて。かっこよく見られるには、黒とか紺とか、そういう色を選ばなきゃって」
「そっか。ごめんね。何も考えずピンクにしちゃって」
「別に、それは」
「正直に言うとね、春って名前のイメージから決めただけなの。ピンクの花が綺麗に咲く季節だから」
「俺も、季節の春は好きですよ」
春はそう言って笑った。
「芸名って自分以外の人につけてもらった方が出世できるらしいんです。知ってました?」
春の問いに、凛は顔を横に振った。
「言い伝えですけどね。俺は先代のトップに付けてもらいました。子役から正式に劇団員に上がったタイミングで」
「へえ」
「何でって聞いたら、俺の初舞台の義経千本桜が良かったからって言うんですよ。春って聞いた時、顔を見て付けられたのかと思って、一瞬ぎくっとしたんですけど。でも、そういう意味が込められてるならいいかって。いや、むしろ嬉しいなって。まあ、俺の見た目じゃ女形もやることになるだろうって見越して、そういう名前をつけられたのかもしれないんですけど」
何でもお見通しの人だったから、と春は肩をすくめた。
先代のトップは在任期間が二十年近くにも及び、五十手前で引退した。トップになってからも男役も女形も両方こなした器用な人で、人格者でもあったらしい。
凛は直接話す機会はほとんどなかったが、芝居は何度も見ており、いつ観ても上手いなあと思わせる人物だった。
「あんな役者になりたいなあって思います」と春は続けた。
「もちろん礼央さんのことも尊敬してますけど、俺にはあんなオーラはないですし。そもそも身長だって足りませんしね」
「身長は関係ないと思うけど……」
「いえ。なろうと思ってなれない人に憧れても辛いだけですから。俺は俺の道を目指します」
「そっか」
「すみません。昨日俺が変なことこと言ったから来てくれたんですよね」
でももう大丈夫です、という春に、凛は黙って首を横に振る。もちろん心配ではあったが、それ以上にどうしても伝えたいことがあった。
「それもあるけど……。私ね、昔舞台を観たとき、たくさん出演者はいるのに、あんまり出番のなかった人に落ちたことがあって」
「落ちた?」
「あー……うん、もうこの人が好き! 気になって仕方ない!! って感じのことかな」
「へえ。面白い表現ですね」と笑う春に、
「だから出番の長さは関係ないと思うし。逆に、もっと見せろって思わせたら、それは勝ちだよ」
春がぱちぱちと目を瞬かせている。凛は勢いのまま続けた。
「それに、レヴューでギャップ萌えさせてほしいの」
「え? ギャップ? なんですか?」
「あー! つまり、本編ではやわらかい雰囲気だった人が、レヴューではバッチバチに決めて歌って踊ってたら、振り幅の大きさにびっくりするじゃない? それで、あの人はかっこいいのと可愛いの、どっちも出来るんだって思わせたら、勝ちなの。甘いおかしとしょっぱいお菓子、永遠にループしちゃうみたいに、気になって気になって仕方なくなるの。で、気づけばドボン!!」
「な、なるほど……? お菓子、ですか……」
大事なのはそこではなかったけれど、春は凛の熱気に押されたのか、こくこくと頷いている。
わかったのかわからないのか、いまいち判然としない返事ではあったものの「でも、振り幅を見せるっていうのは確かに大事な気がします」と続けた。
「そうなの。だからレヴューも有効活用してほしくって」
「ただお客さんを盛り上げるためのものじゃないってことですね」
「そうなの。もちろんお客様のためにやるんだけど、これで好評だったら次はもっと長いレヴューができるかもしれない。そうしたら曲目だって増やせるし、みんなの素の部分をアピールする機会が増えるでしょ」
「すごい。凛さん、色々考えてるんですね……」
「あ、ありがとう……」
もちろん演じている作品の登場人物も好きだったけれど、私は役者・海音颯太が好きだったんだ、と改めて思う。
だから全部の芝居を観たいと願ったし、それ以外の活動だって、どんな小さなインタビューも番宣で出演するテレビも、全部追いかけた。
まるで熱に浮かされていたような状態だったな、と強制的に一歩離れた今は思う。
でも、あの熱量で追いかけてくれるファンが増えたら、きっともっと星屑歌劇団は盛り上がるだろう。