無事に、前日のゲネプロが終わった。
凛は忍と共に客席で見守ったが、やはり芝居中に指摘できるような改善点は見つけられなかった。
ただその後すぐに舞台上で照明や音響などテクニカルの修正が始まったから、見る人が見れば問題点がわかるのだろう。
まだまだだな、と落ち込みはするけれど、せめて感じたことは忘れないように、といつもの赤い表紙のノートにメモに残しておく。
レヴューに関しては、どの曲も完成度が高かった。
特にポップスのような曲調で歌い、間奏で激しいダンスを披露する春たち三人の曲は観客も盛り上がりそうだ。
もっとも、今は客席に関係者しかいなかったから、静かな空間でやりにくかったかもしれないけれど。本番になって観客が入れば、ノリの良い三人のことだ。本人たちも相乗効果でヒートアップするだろう。
礼央と愁のソロは、二人の上手さを十分に感じさせる曲だった。
もし次回もレヴューができるなら、バックで劇団員を踊らせるのもいいかもしれない。二人なら、背後にどれだけ人数がいても、圧倒的な存在感を見せつけてくれる――そんな信頼感があった。
半ば感想のようなメモを記録しながら、凛がホワイエで仕事をしていると、雨と昴がやってきた。
「凛さん、どんな魔法を使ったの?」と雨が顔を寄せてきて、凛は首を傾げる。
「春がすっげースイッチ入ってたから、どうしたのかと思って」
「え? 私は別に……」
「いやいや、春が『俺は凛さんについてく』って言ってたもん」
雨にそう言われて、凛は思わず笑みをこぼした。
「本当に大したことはしてないの。でも……強いて言うなら、ファン心理を伝えたって感じかな」
「え? 何それ」
「二人も、劇場中のお客さんを自分のファンにさせる意気でやってよね」
「えー、そりゃ無理だよ。あの二人に勝てるわけないもん。袖から見てたけど、礼央さんと愁さんのダンス、やばかった。マジで普通に惚れるね」
「確かに。指先までピッタリ」
普段口調が少なく、感情の起伏を見せない昴まで、顔を輝かせている。
「全然合わせてるところ見なかったけど、いつやってんだろ」
「元々二人とも稽古してるところ全然見せてくれないんだよな」
「へえ……」
愁の話だと、礼央も凄まじい練習量を重ねているようだったけれど、一体いつどこで稽古を重ねているのだろう。
「愁さんの家とかかな。広い練習室あるって言ってたもんね」
名家の黒曜家は、街の中心に広いお屋敷を持っている。
劇団員は寮生活を送ることになっているから愁も皆と一緒に暮らしているけれど、別に門限は決められていないし、外出も自由なので、実家に顔を出すことはいくらでもできる。
「あー、劇団の練習室じゃなくてそっち使ってるってこと?」
「わからないけど……。俺たちけっこう自主練してたのに、全然見かけなかったし」
「確かに……」
うんうん、と頷く二人を横目で見ながら、もしかしたら黒曜家の誰かが、二人の会話を聞いて情報を売ったということも考えられるのだろうか、と思い至った。
だがもそれを疑い出したらもちろん、鷹司の使用人の誰か、という可能性もある。
藤吉が倒れたことは全員知っているし、私室に入ればレヴューの曲順の書かれた資料を見つけることもできただろう。
どちらかといえば、自分の家に出入りしている人間の方が可能性が高い、と結論づけて、凛はため息を吐いた。
疑いながら家に帰るのは辛い。見知った人間が犯人だとしたら知りたくない気持ちと、疑い続ける未来を天秤にかけて、ため息が溢れる。
劇団のためには、早く明らかになった方が良いに決まっているのだが、どちらであっても憂鬱で仕方なかった。
仕事を終え、楽屋口に向かうと、今日もまた、そこに背の高い人影があった。
「お疲れさまです」
無視するわけにもいかず、声をかける。すると佇んでいた礼央は、じろりと凛を見下ろした。
「おせえ」
「えっ」
まさか自分を待っていたとは思わず、凛は声を上げた。
それを無視して「今日も病院行くんだろ」と口にした礼央は、さっさとしろよと言い置いて、楽屋口を出ていってしまう。
凛は慌てて後を追う。
待っていた車の助手席に回ろうとしたところ、後部座席から伸びてきた腕に車内に引っ張り込まれた。
「ちょっ」
慌てる凛をよそに、礼央がぐいっと手を引っ張るので、そのまま広い胸に倒れ込むようにシートに転がり込んでしまった。
背後で扉が閉まり、車が発車する。
まるで抱きしめられるような体勢からなんとか抜け出した凛は、後部座席に座り直し、じろりと隣の礼央を見上げた。
「何するんですか」
「は? お前が遅いからだろ。明日は初日なんだから、さっさと帰るもんだろうが」
「そうですけど。だったら礼央さんこそ早く帰ればいいじゃないですか……。わざわざ言われることじゃないと思うんですけど」
そう言うと、礼央はわざとらしくため息をつく。そうしてやれやれと肩を竦ませたかと思うと、そのまま何も言わずに黙り込んでしまった。
拍子抜けした凛も何も言い返す言葉が見つからず、車内は沈黙が満ちる。
前の運転手だけが、そのやりとりを見てふっと息を漏らしたものの、後部の二人が同時に視線をやったので、びくりと肩を震わせている。そのまま露骨に目を逸らされたのが、バックミラー越しにわかった。