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第36話 広島の別れ、今治への船と新たな味探し


佐藤宗次こと佐久間宗太郎は、妻・鮎子と共に広島に滞在し、四国への旅を前に準備を進めていた。享保年間の旅で博多を拠点に評を広め、江戸での暗殺未遂を偽名で逃れた宗太郎は、山口で弟子・太郎を失い、広島で17歳の鮎子と結婚した。島根の出雲そば、鳥取の松葉ガニ、岡山の吉備団子を味わい、旅を続けてきた。鳥取での新聞取材で過去が明らかになり、市民の注目を集める中、宗太郎と鮎子は四国へ向かうため広島に戻り、鮎子の父・辰五郎と再会した。黒崎藤十郎の陰謀は遠ざかり、沙羅の安堵も伝わったが、旅の先にはまだ未知の道が広がっている。広島での家族時間と新たな出会いを経て、宗太郎と鮎子は今治への船出を決意した。



広島の朝、瀬戸内海の潮風が港に穏やかに吹き抜けた。宗太郎と鮎子は辰五郎の家で朝食を終え、旅の支度を整えていた。辰五郎は前日、漁師との調整を終え、船の準備が整ったことを伝えた。宗太郎は辰五郎に感謝の意を込めて声をかけ、別れの準備を始めた。



三人は家を出て、港へ向かった。道中、市場の喧騒や魚介の香りが懐かしさを呼び起こし、宗太郎と鮎子は手を握り合った。鮎子は宗太郎に囁いた。



「宗次さん、父さんと別れるの、辛いけど…今治へ行けるのが楽しみだよ。新しい味が見つかるかな。」



宗太郎は鮎子の手を優しく握り返し、微笑んだ。



「鮎子、そなたの故郷を後にするのは俺も寂しい。だが、今治で新たな味を共に探すのが楽しみだ。そなたと共にある旅は、どんな場所も特別になる。」



港に着くと、辰五郎が漁師に声をかけて船を準備させた。小さな木造の船が波に揺れ、漁師が穏やかに二人を迎えた。辰五郎は船のそばで最後の言葉をかけた。



「宗次殿、鮎子、四国四県を旅した後、また広島に戻ってきてくれ。風向きがいいから今日が渡しに適しています。漁師が安全に着けるよう導きます。広島の海がそなたたちを見守るよ。」



宗太郎は辰五郎に頭を下げ、鮎子と共に船に乗り込んだ。



「辰五郎殿、ありがとう。広島の思い出を胸に、今治へ向かいます。必ずまた会おう。」



鮎子は父に手を振った。



「父さん、大好きだよ! 四国を旅したら、また帰ってくるね。気をつけてね!」



辰五郎は岸から手を振り返し、涙を隠さなかった。



「鮎子、宗次殿、行ってらっしゃい。無事に帰ってこいよ!」



船はゆっくりと港を離れ、瀬戸内海に漕ぎ出した。宗太郎と鮎子は甲板で手を握り、広島の海岸線が見えなくなるまで見つめた。鮎子は宗太郎の肩に寄り添い、穏やかに語った。



「宗次さん、父さんの顔、忘れられないよ。広島での時間、すごく幸せだった。子供の話も…少し現実味を帯びてきたね。」



宗太郎は鮎子の髪を撫で、優しく答えた。



「辰五郎殿の温かさは俺の心に残る。子供の夢も、そなたと共にあるなら実現できる。今治で新たな一歩を踏み出そう。」



船は波に乗り、穏やかな海を進んだ。宗太郎と鮎子は海風を感じながら、旅の未来を想像した。広島の別れが二人の絆をさらに深め、四国への期待を高めた。




船が今治の船着場に近づくと、潮の香りと魚の匂いが漂い始めた。宗太郎と鮎子は船を降り、漁師に感謝を述べた。船着場近くには小さな屋台が並び、旅人を迎える雰囲気が広がっていた。宗太郎は鮎子の手を引き、屋台のひとつに目を留めた。看板には「今治ラーメン」と書かれ、湯気の立つ丼が客の前に並ぶ。宗太郎は鮎子に提案した。



「鮎子、旅の始まりとして、今治ラーメンを味わおう。船旅の後で、温かい味が恋しいな。」



鮎子は頷き、屋台の前に座った。店主の弥平、50歳の男がにこやかに迎えた。



「ようこそ! 旅人か? 今治ラーメンは地元の誇りだ。魚介の出汁が効いていますぞ。二人前頼むか?」



宗太郎は微笑み、注文した。



「弥平殿、二人前頼む。旅の始まりにふさわしい味を期待している。」



弥平は慣れた手つきでラーメンを用意し、程なくして丼を運んできた。


今治ラーメンは、細い麺に魚介と豚骨の出汁が絡み、ネギとチャーシューがトッピングされていた。温かい湯気が立ち上り、瀬戸内の海の香りが漂った。



宗太郎は丼を手に取り、香りを嗅いだ。魚介の豊かな風味と豚骨のコクが混じり合い、口に入れると麺の滑らかさと出汁の深さが広がった。鮎子も一口味わい、目を輝かせた。



「宗次さん、このラーメン、美味しい! 海の味がして、温かくて…旅の疲れが癒されるよ。」



宗太郎は頷き、心の中で評を紡いだ。旅の別れと新たな始まりを思い出し、筆を取り始めた。



今治ラーメン、瀬戸内の海と旅の出会い。魚介の風味が豚骨の深みを呼び、温かい出汁が広島の別れを癒す。鮎子と共に見た味は、俺の新たな旅路を支える。



評を書き終え、宗太郎は鮎子に見せた。鮎子は目を細め、宗太郎の肩に頭を寄せた。



「宗次さん、素敵な評だね。広島を離れて、今治で新しい味に出会えて嬉しいよ。」



宗太郎は鮎子の髪を優しく撫で、彼女の言葉に心を動かされた。



「はい、鮎子、そなたの故郷を後にしたのは寂しいが、今治のラーメンが俺たちに新しい力をくれる。旅を続けよう。」



二人はラーメンを分け合い、互いに一口ずつ食べさせた。宗太郎が鮎子にスープを差し出すと、彼女は照れながら口を開けた。鮎子も宗太郎に返し、二人は笑い合った。弥平はカウンター越しにその様子を見、穏やかに語った。



「若い夫婦だな。今治ラーメンは、旅人によく愛される味だ。広島から来たなら、瀬戸内の恵みが感じられるはずよ。」



宗太郎は弥平に感謝し、鮎子と手を握った。



「弥平殿、ありがとう。俺たちは四国を旅し、各地の味を味わう。そなたのラーメンは、俺たちの旅の思い出になる。」



鮎子は弥平に微笑み、付け加えた。



「弥平さん、ラーメン、すごく温かくて…広島を離れた寂しさを埋めてくれたよ。ありがとう。」



弥平は頷き、二人の幸せそうな顔に満足げだった。




夕方、宗太郎と鮎子は屋台を後にし、船着場近くの宿へ向かった。海風が頬を撫で、旅の疲れがラーメンの温かさで癒された。宗太郎は鮎子の肩を抱き、静かに語った。



「鮎子、広島を離れたが、そなたと共に見た今治ラーメンが新しい旅の始まりだ。香川へ向かう準備をしよう。」



鮎子は宗太郎の胸に寄り添い、穏やかに答えた。



「宗次さん、私もそう思う。父さんのことが恋しいけど、そなたと一緒なら大丈夫。子供のことも、旅しながら考えたいね。」



二人は宿に着き、布団を並べて眠りについた。窓から見える海の月明かりが、広島の別れと今治の新たな一歩を優しく照らし、旅の続きが静かに始まった。



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