辺りは寝静まっていた。何もかもが口を閉じ、誰も彼もが想いを閉ざす、そんな夜。
今はただひとりなのだろうか、誰の存在もその目に認めないまま歩き続けていた。
か細い身体で歩く、幾度となく靴が地面と触れ合い足音を鳴らす。しかしながらそれは夜闇の静寂の果てに消え去って、耳元にまで帰っては来ない。
今日を思い返してしまうほどに虚しい夜だった。
独り占めしていたはずのこの場所に追憶の影が射し込んでいく。
この身体は、この心は昼間には幾つでも何度でも怒りを浴びせられていた。仕事でのこと、自分が悪いことから行き場のない怒りまで細かなもの何もかもを怒りと説教に変えてぶつけられた。全てを細かく砕いて問い詰めるように、人格の否定をも織り交ぜながらただただ上司のストレス発散の道具へと変わり果てていた。
「ニンゲンなど幾らでも代わりはいる。この程度ならどれだけでも使い捨てに出来る、労働力にならないならここから消え失せろ」
上司の言葉を思い出しては明日という日の訪れすら疎ましく想えてくる。
そんな苦しみをも夜闇に溶かして歩き続ける。ここは何者も触れることの出来ないひとりの世界。
夜空は黒々としていながらも透き通っていた。星々の輝きが可愛らしい蛍となって舞いながら、澄んだ空を彩って。ガラス張りの天上の水槽。そこは赤青黄、紫緑。様々な色が織り交ぜられた形無き虹のよう。
美しくあれども薄く、かといって薄っぺらな存在でもない。あまりにも大きくて眺めているだけでも心の色を塗り替えてしまうほどに美しくて。
全ての出来事は虚しくて、人間というものは小さくて。
そんな夜空の下をゆっくりゆったりと歩き続ける。
流れる景色、泳ぐ雲、視界はどこへと動いているのかしっかりと移り変わっているのかそれすらも分からない。
足は浮いているように感じられた。身はどこへと向かっているのか分からないようだった。
もはや生きる意味すら失ってただ生きるためだけに生きている、働くことでかろうじて生かされている。
世界は美しい。醜いのは人間が織りなす社会という世界に息づく雑音、残酷なものは人間以外にもあった。草原や荒れ地を駆け回るの生き物は、海に堂々と住まっている夢たちは、この美しい空を借りて舞う彼らは、果たして普通に生きることが出来ているのだろうか。それすら許されていないことなど明白。今この時でさえも生きるか死ぬかの物語を通気続けていた。
それを想うとやはり自分は小さい存在、ぬるま湯に浸かる生物なのだと思い知らされた。