遥(はるか)は、東京で生まれ育った。電車の遅延や満員通勤ラッシュにも慣れ、オフィス街の雑踏も日常風景として受け入れていた。そんな彼女が、まさか雪国で暮らすことになるなんて、人生何が起こるかわからない。転勤の辞令を受け取ったとき、第一声は「わたしですか?」だった。自分が雪の深い地域とは縁遠い人生を送ってきたと思い込んでいたからだ。
東京の喧噪を離れ、バスや電車を何度も乗り継いで辿り着いた新天地は、想像以上の雪と寒さに包まれていた。駅を降りた瞬間、「空気が痛い」なんて表現がぴったりの冷気が肌を突き刺す。これが、見ず知らずの地で始まる新しい生活。二十年以上暮らした東京を離れる寂しさがないわけではなかったが、それ以上に「この場所でやっていけるのだろうか」という不安と好奇心がないまぜになり、胸の奥をざわつかせている。
勤め先の支店はこぢんまりとしているものの、雪国ならではの温かい人柄が多いと聞く。人付き合いが苦手なわけではないが、都会での忙しさに追われる暮らしに慣れすぎて、どこか心がすれ違っていた自分を振り返ると、こうして環境をまるごと変えてみるのも悪くないかもしれない。四季の移ろいがはっきりした土地であれば、なにか新しい感性を得られるのでは——そんな期待がひそかに芽生えていた。
もっとも、引っ越して最初に感じたのは「部屋の中が冷え切っていて、ペットボトルの水が凍る」事実だ。この一件だけで、都会では想像もできなかった日々が始まるのだと悟るには充分だった。雪国に来るまでは、冷え込んだといっても室内が凍結するほどではなかったし、暖房といえばエアコンだけで事足りていた。ここで暮らす限り、除雪や灯油ストーブ、真冬日にいつも以上に気を遣う毎日が待ち受けているのだろう。簡単ではないかもしれない。それでも、遙はどこか胸が弾むような予感を抑えられなかった。
東京と違う風景、違う空気、違う人間関係。そして何より、違う自分に出会えるかもしれない。白く広がる雪道を見つめながら、少しだけ強い気持ちを持って、遥はそう思った。ここから始まる冬の日常は、まだ真っ新なキャンバスのように見える。そのキャンバスにどんな物語を描けるのかは、彼女自身もまだ知らない。けれど、一歩を踏み出すだけで、目の前に雪原のような白い世界が広がるのだ。冷えきった空気と静かな雪景色を全身で受け止めながら、遥は新しい第一歩を踏み出す。