会社を出たとき、東京とは比べものにならない冷たい風に「雪国って本当に寒いんだなあ」と改めて思い知らされた。外の気温はすでに氷点下らしく、吐く息が白くなるどころか、頬を刺すような痛みに近い。コートの襟を立ててどうにか身を縮こまらせながら歩き、アパートへ急ぐ。通りに積もった雪は昼のうちにしっかり除雪されているらしいが、それでも道の端にはこんもりとした雪の山が無数に残っていて、街路灯のオレンジ色に照らされている。都会のイルミネーションとはまったく違う光景だけれど、見慣れない美しさを感じるのも事実だ。
そんなちょっとした感慨も、部屋に戻った瞬間に吹き飛んだ。ドアを開けると、部屋の中がまるで冷蔵庫の中のような冷気に満ちているのだ。いや、冷蔵庫どころか、外気と大差ないかもしれない。むしろ、もしかしたら外のほうがまだ動いている分だけ温かい気さえしてくる。
「うわ、さむっ……!」
思わず小さく悲鳴を上げつつ、急いでブーツを脱ぎ、居間に飛び込む。まずはストーブのスイッチを入れよう。ここのアパートは灯油ファンヒーターを使っている。雪国では石油ストーブやファンヒーターが主流らしい。最初は「灯油なんて匂いがきつくないかな」と不安だったけれど、この凍てつく寒さの中での暖房としては、やはり頼りになる。
スイッチを入れて数秒後、ファンが回転しはじめ、灯油の燃える独特のにおいがかすかに漂ってくる。すると、次第に部屋の空気がじわじわと温かくなりはじめる。
「いやあ、これだけは本当に助かるよ……」
独り言のように感謝をつぶやいていると、ふとダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていたものが目に入った。薄いグリーンのラベルが見えて、一瞬「なんだっけ?」と思う。すぐに「あ、ペットボトルのミネラルウォーターだ」と気づき、同時に嫌な予感が胸をよぎる。
「まさか……」
恐る恐る手に取ってみると、容器自体にうっすら霜がついていて、中身は完全に固体化していた。そう、ペットボトルの水がカチカチに凍ってしまっているのだ。東京にいたころは、冬でも部屋にペットボトルの飲みかけを置きっぱなしにして、こんなことになった経験は一度もない。
「しまった! やってもうたー!」
思わず声を張り上げ、頭を抱える。東京では「部屋に放置しておいて、いつの間にか水が凍ってた」なんてあり得なかった。まさか室内がここまで冷え込んでいたとは思わなかったのだ。まるで冷凍庫がわりになっているようで、悲しいやら驚くやら。
「こんなとき、どうすればいいんだろ……」
ペットボトルの底を指でトントンと叩いてみるが、カチカチに固まった氷はまったく動じない。勢いで流しに突っ込んでお湯をかけようかとも思ったが、急激な温度変化でペットボトルが割れてしまう可能性もある。割れたら後始末が大変だし、部屋もびしょびしょになってしまうかもしれない。
「ファンヒーターの前で溶かすしかないか……」
そうつぶやきながらファンヒーターの吹き出し口の近くにペットボトルを置き、手のひらをかざしてみる。暖かい風がビュウッと噴き出していて、冷気に包まれた体が一気に解凍されていく感覚だ。その心地よさにちょっとだけ安堵しながら、目の前のペットボトルに向かって「あんたも早く溶けなさいよ」と念じるように見つめる。
しかし、そんなに簡単に溶けるわけもなく、表面からゆっくり溶けだした氷はペットボトルの内側に貼りついて、まだまだ時間がかかりそうだ。冷たい飲み物が飲みたかったわけじゃないが、水分を口にしたいという欲求がさらに強くなる。
「早く溶けろー、喉乾いたよ……」
結局、そのまましばらくストーブの前にペットボトルを置き、目を離さずに眺めていた。凍っている水が少しずつ動き出しているのを見て、なんとも言えない不思議な気分になる。部屋に入ってからまだ五分ほどしか経っていないが、こうしてぼうっと凍った水を見つめる時間がとても長く感じられるのだ。
遠くからストーブの燃焼ファンの音が規則正しく聞こえる。じんわりと足元が温かくなってきて、外の恐ろしい寒さが嘘のように感じられる。部屋が暖まってくると、まるで現実感が薄れていくようだ。
「はあ……こんな生活が続くのかな」
再び独り言を漏らし、ペットボトルを確認する。まだ氷はゴツゴツ残っているが、少しだけ水が溶けて、半解凍の状態になっている。シャーベットを作るわけでもないし、完全に溶けきるまではまだ時間がかかりそうだ。
東京なら、部屋の中で飲み物が凍るなんて非常事態だと大騒ぎになるだろう。しかし、ここでは「普通に起こりうること」だと地元の人は言うのかもしれない。まだ誰にも聞いていないが、想像するだけで何か笑えてくる。
「本当に、雪国ってすごいな……」
こうして遥は、雪国での初めての“凍ったペットボトル事件”を体験する。知らない土地での生活は、予想外の驚きと不便が山盛りだ。それでも、新たな一歩を踏み出したばかりの遥は、心の片隅に、ほんの少しだけワクワクした気持ちを抱えていた。ふと、この非日常が当たり前になるのも、もしかしたら時間の問題かもしれないと思い始めるのだった。