翌朝。枕元のスマートフォンがアラームを鳴らすよりも前に、部屋の空気がほんのり暖かいことに気づき、遥(はるか)は目を開けた。すでにファンヒーターが稼働しており、起きる頃には部屋が温まるようにタイマーをセットしてあったのだ。昨夜、近所のホームセンターで灯油を買い足し、アパートの備え付け説明書を見ながらタイマー設定をなんとかマスターしたかいがあった。「これで朝、震えなくて済む……」そう思うだけで少し気が楽になる。
布団をめくると、まだ部屋の空気は十分とは言えないものの、昨日よりはずっと過ごしやすい温度だ。どことなく鼻先が冷え切っていた東京での冬とは違う。ここ雪国では、外気が氷点下になるのが当たり前だから、室内の暖房をどう使いこなすかが生活の肝のようだ。
「よし、今日は朝から暖かいぞ……!」
声に出して自分を励ましながら、布団から抜け出す。裸足でフローリングを踏むとまだヒヤリとするが、昨日に比べれば天と地の差だ。このまま顔を洗って、準備を始めようと意気込んで部屋のドアを開けた瞬間——
「うわっ! さぶっ……!」
思わず声をあげて飛びのく。居間から一歩外に出た瞬間、まるで別世界に踏み込んだような冷気が体にまとわりつくのだ。どうやらアパートの間取り上、暖房の風が届きにくい廊下や洗面所は、きちんと除外されているらしい。急激な温度差に全身の筋肉がこわばり、肩をすくめて足踏みをしてしまう。ひとつの部屋のドアを開けるたび、ジェットコースターのように温度が上下するのは、東京では考えられなかった体験だ。
それでも顔を洗わないわけにはいかない。恐る恐る洗面所に足を踏み入れ、蛇口をひねると、ほぼ冷蔵庫並みの冷たい水が勢いよく飛び出してくる。こんな朝を毎日繰り返すのかと想像すると、気が遠くなりそうだが、「これも慣れだ」と自分に言い聞かせるしかない。バシャバシャと素早く洗顔を済ませ、「さ、寒い……」と震えながら急いで居間に戻る。ファンヒーターの前まで駆け戻ると、ほんの数秒だというのに「ホッ……」と安堵の息が漏れた。
「こんな生活、東京じゃあり得なかったなあ……」
声に出したところで部屋に誰がいるわけでもないが、思わずつぶやいてしまう。東京にいた頃は、夜中に暖房を切っていても室温はそこそこ保たれていたし、顔を洗うのに氷のような水に震えることもなかった。改めて雪国の底力を思い知らされる。
それでも、アラームを待たずに起きられたのは大きな進歩だ。ファンヒーターのタイマーセットが成功していなかったら、もっと悲惨な朝が待っていただろう。凍ったペットボトルに続き、凍った布団の中で震えながら目覚める未来を想像すると、少しゾッとする。昨日の自分を褒めてあげたい気分になった。
また少しだけ暖をとってから、仕上げの身支度を進める。今日は会社へ出勤する日だ。顔を洗って外気にさらされたおかげで、すでに頭はシャキッとしている。東京なら、ぬくぬくの室内からそのまま行動開始していたが、ここでは「暖かい部屋」と「厳寒の廊下・洗面所」を行き来するだけでも、朝の眠気が吹き飛ぶのだから皮肉なものだ。
着替えを終え、準備万端となったところで、ふと朝食をどうしようかと考える。冷え切ったキッチンへ行くにはまた「うわっ!」と声を上げる羽目になるだろう。そもそも今からご飯や味噌汁を作る元気も残っていないし、ここは無難にコンビニでパンでも買って済ませるのが正解かもしれない。慣れないうちは無理をしすぎず、少しずつペースをつかんでいけばいい——そんなことを自分に言い聞かせるあたり、やはり「東京的」な考え方なのだろうか。
思考をめぐらせていると、スマホが通知音を鳴らす。見れば会社の同僚・菜摘(なつみ)からのメッセージだ。「今日の天気は晴れだけど、足元はツルツルだから気をつけてね」と書かれている。そういえば、ここの冬では「雪が降らない日のほうが路面が凍って滑る」と聞いた記憶がある。晴れて路面が冷やされるとブラックバーン状態になるなんて話も耳にした。どれも東京では一度も意識したことのない要素ばかりだ。
心配性の私は、転ばないように歩き方や靴のことまで考えてしまう。聞けば雪国の人たちは靴底に滑り止めのスパイクを装着したり、短い歩幅で重心を安定させたりと、それぞれの工夫をしているらしい。慣れれば問題ないと言うけれど、最初のうちはちょっとした一歩でも緊張感が付きまとうだろう。それも含めて「雪国ならではの洗礼」なのだと自分に言い聞かせるしかない。
「よし、行くか……」
ファンヒーターのあたたかい風に名残惜しさを抱きつつも、遥は意を決して部屋を出る。次の瞬間、廊下の冷気に「うわっ!」と跳ね返されるのはお約束のようだ。こんな暮らしが始まったばかりではあるが、考えようによっては、少しでも部屋の外に出るたびに目が覚めるのだから、寝坊のリスクは減るかもしれない——そう思うと、悪いことばかりでもないと感じられるのだから不思議だ。
部屋に鍵をかけ、凍える廊下を小走りで駆け抜ける。アパートの玄関を開ければ、そこには雪化粧した世界が当たり前のように広がっていた。さあ、今日も一日が始まる。そう心を奮い立たせながら、遠くに見えるかもしれない職場への道のりを想像する。東京では感じなかった寒さに震える一方で、こんな厳しい自然とともに生きるって、やっぱりちょっと刺激的だと胸が騒ぐ。
この地で、私は何を見て、何を感じ、どんな人たちと出会うのだろう。かじかむ指先をさすりながらも、遥はほんの少しだけ微笑みを浮かべた。こうして、ファンヒーターが生み出す朝のぬくもりと、部屋を出た瞬間に襲いかかる冷気のコントラストを繰り返しながら、新たな日々がゆっくりと動き出そうとしている。