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第6話 雪の街で迎える初出勤





 アパートのドアを開け、外の冷たい空気を一身に浴びながら、遥(はるか)は慎重に一歩を踏み出した。雪道というだけで滑りそうな恐怖と、氷点下の冷気が容赦なく襲ってくる。東京にいた頃なら、朝の通勤は電車やバスに乗るだけの単純作業だったが、ここでは“歩く”という基本行為だけでも大きなエネルギーを消費する。気を張り詰めながらも無事に会社に到着できただけで、自分なりの“ミッションをクリアした”という意識が芽生えてしまうほどだ。


 建物のエントランスをくぐると、暖房がきいたロビーが出迎えてくれる。受付の女性が「おはようございます」と声をかけ、遥も「あ、おはようございます」と笑顔で返す。まだこの支店で働き始めて日が浅いが、こうして人が明るく接してくれるだけで、「よし、頑張ろう」と思えるから不思議なものだ。エレベーターに乗り、オフィスへ向かう途中、鏡に映った自分の頬が赤くなっていることに気づく。氷点下の冷気で頬がこわばったままなのだろう。東京にいた頃なら、「今日はちょっと寒いな」と感じる日はあっても、ここまで頬が赤くなるほどの寒さには滅多に出会わなかった。


 オフィスのフロアに到着すると、まだ出社している社員は少ない。いつも早めに来ているという同僚の菜摘(なつみ)はおらず、数名の社員が各自のデスクで雑務をしているようだ。遥は緊張しながら「おはようございます」と声をかけ、自分の席に荷物を下ろす。室内は暖かく、外の寒さに身をこわばらせていた体が一気にほぐれていく。まだ雪国暮らしに慣れきらない身としては、この一瞬の切り替えが“ありがたい”という気持ちでいっぱいになる。


「おはようございます、今日は早いですね。」


 声をかけてきたのは先輩の森川(もりかわ)だ。彼は東京出身で、数年前にこの支店へ転勤してきたと聞いている。遥にとっては“雪国生活の先輩”ともいえる存在である。


「おはようございます。雪道が怖かったので、ちょっと早めに出ました。でも、思ったより転ばずに来られて安心しました。まだ慣れないですけど……」


 そう言うと、森川は温かい笑顔でうなずく。


「最初はみんなそうですよ。雪道って慣れないうちは本当に怖い。でも、歩き方とかコツがわかってくれば大丈夫です。僕も来たばかりの頃はしょっちゅう転んでましたけど、今では慣れちゃいましたね。」


 彼の言葉に、遥はほっとする。東京の暮らしとはまるで違う雪国の生活。まだ右も左もわからないが、こうして先に経験を積んだ人がいるだけで心強い。スノーブーツや除雪の仕方など、何かわからないことがあれば尋ねられるのだからありがたい。


 と、オフィスのドアが勢いよく開き、息を切らせながら菜摘が入ってきた。頬を真っ赤にしながら「寒い! 寒い!」と叫んでいるところを見ると、彼女は生粋の地元育ちでも寒さを感じるらしい。遙からすれば「雪国育ち=無敵」というイメージがあったが、実際にはそこまで甘くはないようだ。


「おはよう! 大丈夫? 途中で転んでない?」


 菜摘は一直線に遥の席へ来て、保護者のように心配してくる。その様子がおかしくて、遥は苦笑いしながら答えた。


「転びそうにはなったけど、なんとか踏ん張ったよ。コンビニに寄ったときに暖かすぎて、外に出るの嫌になっちゃった……」


 すると菜摘は「わかるー!」と大げさに反応し、森川も含めて3人で笑い合う。雪国の冬は辛いことが多いが、その分、仲間同士で共有できる話題がたくさんあるのは面白いものだ。


「でも、車で出勤するのも大変だよね。朝起きて車が雪に埋もれてたら、まず絶望するでしょ。」


 菜摘がそう言うと、森川もうなずきながら「埋もれた車を掘り起こさないとドアが開かないって、本当に地獄ですよね」と付け加える。積雪が多い日は、車を出す前に周りをしっかり除雪しないと、ドアが雪の重みで開かないどころか、進行方向に雪の壁ができていて動きすら取れないらしい。考えただけで遥は顔をしかめた。


「そんなの、毎日繰り返してる人もいるんですよね……すごいなあ。」


 東京で暮らしていたころは、雪が積もるとほんの数センチでも交通機関が混乱していた。ここでは数十センチ積もっても学校も会社も平常運転だし、車通勤の人は朝からスコップを振るって車を掘り出してから出発する。地元民のタフさに、改めて感心せざるを得ない。


「冬はほぼ毎日だよー。だから雪国の人は朝型になるのかもね。早起きして除雪して、やっと車に乗れるって感じ。」


 菜摘がケロリと言う。その言葉を聞くだけで、遥は少しげんなりしてしまうが、これが雪国の暮らしなのだと考えれば受け入れるしかない。もしかしたら、自分もここで長く過ごすうちに、雪の壁を気合いで掘り出して「今日も頑張るぞ!」なんて言える日が来るのかもしれないと想像すると、少しだけワクワクもする。


 そんな雪国トークをしているうちに、朝のミーティングが始まる時間が近づいてきた。社員たちが続々と出社してフロアがにぎやかになり、みんなが「おはようございます」と言い合ってそれぞれの席に落ち着く。朝の時点でひと仕事終えたような表情をしている人もいて、きっと彼らは車に積もった雪を落とし、氷点下の道を走り抜けてやってきたのだろう。


 東京では、少し雪が降るだけで「交通麻痺」「大混乱」となるイメージが強いが、ここではそんな状況でも仕事が通常運行になるのが当たり前だ。歩いて来ても大変、車で来ても大変。それでも当の住民たちは笑いながら文句を言いつつ、毎日きちんと乗り越えている。その逞しさに触れると、自分も少しずつ馴染んでいかなければと自然に思えてくる。


「よし……今日もがんばろう。」


 自分のデスクに腰を下ろし、パソコンを立ち上げながら心の中でつぶやく。朝の通勤だけでも“やりきった感”があるが、まだ仕事は始まったばかり。幸い、同僚には菜摘や森川のように助けてくれる人もいるし、何かあれば大家の三田村(みたむら)さんにも相談できる。雪国生活の厳しさはたしかに想像以上だったが、そのぶん人とのつながりや笑い話が増えるというのも悪くないと感じ始めていた。


 周囲が朝のミーティングの準備を進める中、遥は改めて窓の外を見やる。グレーの雲が広がる空は、いつ雪が降り出してもおかしくない。そこに不安よりも「さあ来るなら来い」といった妙な気合いを覚えるのは、昨夜のうちに心づもりができていたからかもしれない。どれほど積もろうと、雪を掘り出して車を出す人もいれば、歩きで通勤する自分のような人もいる。いずれにしろ、雪国では冬が長いのだから、この環境に慣れるしかないのだ。


 「大変だけど、面白い」。そう結論づけると、遥は仕事用のファイルを開き、キーボードに手を置く。こうして、雪国での初めての本格的な出勤が、ふだんの何倍も濃密な朝の体験をもたらしながら幕を開ける。東京での暮らしとはまるで違うこの世界に、まだ戸惑いはあるものの、一歩ずつ足を踏み出していくしかない。雪に埋もれた車を掘り起こすように、少しずつ、自分の新しい日常を切り開いていこう——そんなささやかな決意が、遥の胸の内で静かに芽生えていた。



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