朝のミーティングが終わるころには、オフィスの外はさらに白さを増しているように見えた。厚い雲の切れ間から淡い陽光が射す時間帯もあるらしいが、その合間にちらちらと小雪が舞っているようだ。ここ数日、雪国で暮らし始めた遥(はるか)にとって、この「空模様の変わりやすさ」は大きな驚きだった。先輩の森川(もりかわ)曰く、「一日で四季が巡るとまでは言わないけど、何が起こっても不思議じゃないのが冬のここら辺だよ」ということで、あまり細かい変化に一喜一憂しても仕方ないのかもしれない。
それでも、気がつくと窓の外の世界に目を奪われてしまうのは、まだ雪国の景色に新鮮さを感じている証拠だろう。東京の冬にはなかった光景が、ここには当たり前のように存在する。そんな感慨にふけりながら机に向かっていると、隣のデスクの菜摘(なつみ)がにやりとした表情でこちらを覗き込んできた。
「ねえ、遥。お昼どうする? 外食でもいいし、コンビニで済ませてもいいし……。今日はちょっと雪降ってるから迷うね。」
時計を見ると、そろそろお昼休憩の時間。自宅から持ってきたお弁当があるわけでもなく、ゆっくりと手作りランチを作る環境でもない。この地域では、冬になると徒歩で移動するのを嫌がり、社内の休憩スペースや車内で済ませる人が多いとも聞いたが、遥にとってはまだ何もかもが物珍しい。菜摘から食事に誘われるのはありがたいし、一緒に行けば道中で困ったことがあっても助けてもらえそうだ。
「うーん……外に出るのも寒そうだけど、同じコンビニばっかりも飽きちゃうしなあ。どうしよう?」
遥がそう答えると、菜摘は「じゃあ、ちょっと違うお店に行ってみる?」と提案する。どうやら会社の近くに小さな定食屋があって、冬でも温かい食事を手頃な値段で提供しているらしい。いわく、「雪国の人はお腹を満たして体を温めることが大事だから、こういう定食屋が活躍するんだよ」とのこと。遥としては興味が湧く反面、外を見ればまだ雪がちらほらと舞っており、積雪の具合も気になるところだ。
「じゃあ、行ってみようかな。菜摘が一緒なら心強いし。」
そう答えると、菜摘は嬉しそうに「決まり!」と頷く。こうして二人は冬の雪景色を横目に見ながら、オフィスを出てランチをとりに行くことになった。
会社の玄関前で「よし、行くか!」と声をかけ合うと、外の冷気が一気に体を突き刺す。空気は朝と比べてさらに湿り気を帯びているようで、雪が溶けきらずに路面にうっすらとシャーベット状になっている部分が見える。アイスバーンよりはましだろうが、歩きにくいことに変わりはない。菜摘はスノーブーツをひょいと履き直し、「このくらいなら全然大丈夫」と平然と言うが、遥は内心「本当に滑らないの?」と不安になってしまう。
会社から数分歩いたところにある小さな定食屋は、外観こそこぢんまりとしているが、看板から漂う雰囲気がどこか温かみを感じさせる。「まるで家庭の味が待っている感じがする」と遥は思わず胸を弾ませる。扉を開けると、ほんのり出汁の香りが広がり、ストーブの暖かい空気が体を包む。店内には地元のサラリーマンや少数の客がぽつぽつと座っており、「雪国での昼休み」という穏やかな光景を目の当たりにできる。
「いらっしゃいませ!」
店員の明るい声に促されて、二人はテーブル席に腰を下ろした。メニューを開けば、鍋焼きうどんや煮込み定食など、いかにも体が温まりそうなラインナップが並んでいる。菜摘が「あ、ここにワカサギの天ぷら定食もあるよ」と言って指差すが、遥はちょっとだけ迷って「今日は鍋焼きうどんかな……」と返す。雪国の冬における温かい汁物の魅力は、東京で過ごしていた頃とは比にならないほど大きいと感じているのだ。
「雪国あるあるだけど、こういうお店は冬場になると鍋メニューがすごく増えるの。やっぱり寒いときに体を温めるのが一番だからね。」
「なるほどね。朝、あんなに冷えた体を温めるためにも、こういう熱々の食べ物はありがたいかも。」
注文を済ませて待っている間、菜摘は「ここのおばちゃんがまた親切で、よく仕事帰りにここで鍋食べて帰るんだ」と、勝手知ったる様子で店内を見回している。サラリーマン風の客が入ってくると、「雪、結構降ってきたねえ」などという会話が店内に自然と広がるのが、地域の温かみを感じさせる。
やがて運ばれてきた鍋焼きうどんは、湯気とともに甘辛い出汁の匂いを放ち、見るからに体が温まりそうだ。遥は「いただきます」と箸を取り、まず汁をすすってみる。とろりとした熱さが胃の底にしみて、思わず「はあ~」と心底癒される声を漏らしてしまう。菜摘が「でしょ?」と言いたげにニヤリとするのも気にせず、とにかくこの一杯の汁物が尊く思えるのだ。
「朝の寒さに耐えて、歩いてここに着くだけでも、一日分の運動をした気分かも……」
遥がそう言うと、菜摘は笑いながら鍋のフタを外して、その中の具をほじくる。
「確かに。私も毎朝『もうコンビニで暮らしたい』って気分になるし、車に乗るなら乗るで雪を落とすのに一苦労。どっちを選んでも冬は大変なんだよね。」
「朝、車が雪に埋もれてたら、それだけで絶望しそう……」
「うん。まあ、慣れたら『またか~』くらいにしか思わないけどね。スコップ振るって掘り出すのが日課になるから。」
菜摘の話には、地元の人々のたくましさが詰まっている。遥からすれば「毎日の除雪なんて考えたくない」ほどの重労働だが、雪国ではそれが当たり前のルーティンなのだ。もっとも、だからこそ昼休みにこうして温かいものを食べて「よし、頑張ろう」と思い直す文化が根付いているのかもしれない。
ゆっくりうどんを平らげていくうちに、遥の体は芯から温まってくる。さっきまで外の寒さに身をすくめていたのが嘘のようで、背中にも余裕が生まれ始めた。店内のストーブがじんわりと部屋全体を暖め、外で冷え切った指先がようやく動きを取り戻す感覚が心地よい。
「こういう昼休みも悪くないね……。東京じゃあランチにここまで心から癒されるってこと、あんまりなかったかも。」
思ったままを口に出すと、菜摘は「でしょ?」と得意げな笑顔。彼女にしてみれば、雪国の日常を案内しているつもりなのかもしれない。この地域ならではの寒さと、それを和らげる食やコミュニケーションの楽しさ。すべてが遙にとっては新鮮で、大変だけれど面白い体験になりつつある。
「そろそろ戻ろうか。あんまり長く外にいると、道がさらに滑りやすくなるかもしれないし。」
菜摘の言葉に、遥は名残惜しそうにうどんの最後の汁をすすり、そっと器を置いた。食べ終えてみると、先ほどまでの寒さが嘘のように体がポカポカしていて、東京でなら軽く汗ばむくらいの感覚だが、ここでは外の空気に一歩触れればまた違う世界が待っている。いわゆる“室内と外の激しい温度差”を何度も繰り返す生活は、まだまだ遥には慣れないけれど、少しだけ「これで大丈夫」と思える余裕が生まれた気がする。
会計を済ませて店を出ると、やはり外の空気が体を刺すように冷たい。「うわっ……」と同時に声が漏れるが、先ほど暖を取り、胃に温かいものを収めたおかげで、朝よりは心強い。菜摘と顔を見合わせ、「やっぱり寒いね」などと言い合いながら会社へ戻る道を歩きはじめる。周囲の景色は相変わらず雪に包まれているが、少し雲が高くなったのか、空にかすかな明るさが出ている。
オフィスに戻ってきたときには、膝から下が冷えきってまた疲れを覚えたが、それでも「今日はちゃんと昼食もとって、心も体も温まった」という満足感が勝っている。雪国で過ごす冬の日常には、どうしても“寒さに耐え、雪と格闘する”部分が多いが、その分だけ温かいもののありがたみや、人との会話の大切さが際立つのだと実感している。
デスクに戻り、パソコンを起動しながら遥はふと考える。もしも東京にいたままだったら、コンビニの暖かさや鍋焼きうどんの香りにここまで感動することはなかったに違いない。雪に埋もれた車を掘り出すという発想もなければ、ドアが開かなくなるほどの積雪に絶望することもない。大変だが、その大変さの先にあるちょっとした喜びやドラマが、自分の生活に彩りを与えてくれているのをはっきり感じる。
不意にスマホが鳴り、東京の友人からメッセージが届いた。「今日はちょっと寒くてマフラーしたよ。最高気温12度だって」と書かれていて、思わず苦笑する。こっちはその気温からすると“真夏日”に感じるかもしれないが、友人にそれを言っても信じてもらえそうにない。こうして場所が変われば、当たり前の基準も大きく変わるのだと改めて思う。
「よし、午後からも頑張ろう。」
コートを椅子の背もたれにかけ、温かい部屋の空気を胸いっぱいに吸い込む。外は相変わらず冬の厳しい表情を保っているが、しばらくはこのオフィスで仕事に集中できるのが救いだ。雪国の一日はこうして昼下がりを迎え、さらに夕方、夜へと続いていく。大雪の予報はまだ出ていないが、いつ天気が急変してもおかしくないのが冬のここの特色。が、それを恐れていても仕方がない。鍋焼きうどんで温めた体と心を糧に、また新しい体験を受け止めていくしかないのだ。
こうして、雪の街で迎える初出勤の昼休みは、温かな定食屋の味と、外に出るときの「もうここで暮らしたい」という心の叫びに彩られながら、遥の中に“小さな自信”を積み上げていった。冬の寒さと雪との共存が、徐々に彼女の日常を変え始めているのを、遥自身も薄々感じはじめていた。