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第8話 雪とともに揺れる午後のオフィス



 昼下がりの定食屋で体をしっかり温めた遥(はるか)は、午後の業務を開始するため再びオフィスへ戻ってきた。小雪がちらつくなか、菜摘(なつみ)と連れ立って歩いた数分の道のりは、朝よりも多少は慣れたつもりだったが、やはり冷たい空気をまともに受けると膝から下がじわりと冷え込む。席についた瞬間、「やっぱり室内の暖房はありがたい……」と思わず呟いてしまうほど、外界との温度差は大きい。


 パソコンを立ち上げ、昼食後のメールチェックをしていると、先輩の森川(もりかわ)が興味深そうに画面を覗き込んできた。彼は昼休みにどこかへ行ったらしく、コーヒー片手に戻ってきたばかりの様子だ。


「どう、ここのペースには慣れてきた? 午後からも雪が降りそうだけど、まだ大雪ってほどじゃないから安心かな。」


 森川は東京出身ということもあり、遥が抱いている疑問や不安を何かと気にかけてくれる存在だ。こちらも遠慮なく質問しやすいのでありがたい。


「そうですね、まだ慣れたとは言えないけど、朝の通勤のときよりも余裕は出てきた気がします。雪って歩くのも大変だけど、景色としてはすごく綺麗で、ちょっと見とれちゃうこともあって……。」


 遥が素直に感想を述べると、森川は「わかるよ。東京から来たときは、俺も新鮮で仕方なかった」と笑う。吹雪になればそれどころではないのだろうが、小雪程度なら白く舞う景色もまた、この地ならではの冬の風情かもしれない。

 とはいえ、雪国の人々にとっては「雪が降る=除雪作業や歩行のリスクが増える」という現実的な苦労がつきまとうのも事実。美しさと大変さが表裏一体であるところが、この地方の冬の奥深さだろうか。


 時計を見ると、もうすぐ午後のミーティングが始まる時刻だ。部署ごとに分かれて情報共有を行うらしく、遥も菜摘と共に会議室へ向かうことになっている。資料を手に立ち上がろうとした瞬間、窓の向こうに大きめの雪片が舞い落ちているのが見えた。どうやら雲が厚くなり、いよいよ本格的に降り出す気配がある。


「また降ってきましたね……会社を出る頃には積もったりしないかな。」


 不安を口にすると、菜摘は「まだ大丈夫でしょ」とあっさり言い切る。その頼もしさにちょっと救われる気分になりながら、二人で会議室へと足を進めた。


 午後のミーティングは、各部署の進捗状況や問題点を持ち寄る時間らしい。主にベテラン社員たちが議題を出し合い、若手はメモを取りながら聞く。遥はまだ着任して日が浅いので、自分から話すことはあまりないが、雪国独特の業務の進め方や、冬季のスケジュール管理について興味深く聞いていた。


「今週末は天気次第で現地調査が難しいかもしれないな。大雪予報が出てるし、行けたとしても車が通れない可能性があるから、無理にスケジュール入れないほうがいいかも。」


「じゃあ、雪の状況を見てから再度日程を組む感じですね。かと言って、年度末にかけては時間も限られてるし……。」


 そんな会話の中、東京なら天候を理由に調整するほどのケースはそう多くないのに、ここでは当たり前のように雪が最大の影響要因になっている。たとえば道が通れない、現場に行けないなどのリスクが日常的に考慮されるのだ。遥は初めて知ることばかりで、「なるほど、こういうところも雪国の働き方なんだな」とひたすらメモを取りながら頷いている。


 会議が終わり、デスクへ戻る途中で菜摘が小声で話しかけてきた。


「どう? 意外と雪が業務に大きく影響するでしょ。プロジェクトが一時的に止まることもあるし、雪道の移動に時間がかかるから、余裕を持ったスケジュールを組まないといけないんだよね。」


「うん、想像以上に雪が生活や仕事に入り込んでるんだなって思った。東京じゃ、予定は予定通りこなせる前提だったけど、ここでは“雪しだい”でガラッと変わるんだね。」


 菜摘は苦笑しながら「まだまだこれからだよ」と言う。冬の序盤ですでに小雪や軽い積雪で手一杯に感じているが、この地域では最盛期に数十センチ、下手すればそれ以上の雪が一度に降ることもあるという話だ。そのとき果たして自分はどう対処できるのか、不安半分、期待半分の気持ちで考えてしまう。


 午後の業務は各自が黙々とデスクワークを進める時間帯に入る。周囲の先輩たちもマイペースにキーボードを叩き、電話対応をしながら、時折窓の外の様子を気にしている。ボタ雪が増えてきているのか、外の景色がさらに白みを帯びたように見え、積もる予感を漂わせている。

 森川が「あんまり積もらないといいですね……」とつぶやくのが聞こえる。車通勤の社員にとっては、積雪がそのまま“明日の朝の地獄”を意味するから、なおさらだろう。


 夕方が近づくにつれ、徐々に暗さを増す外界。雪国の冬は日没時間が早いので、東京よりも一日が短く感じられると聞いたことがある。仕事の手を止めて窓を見ると、気づかぬうちに雪が舞う量が増え、地面もふわりと白く覆われはじめていた。

 東京なら「うわ、今日は雪が積もってきた!」と大ニュース扱いされそうなのに、このオフィスでは誰も大騒ぎしない。一部の社員が「やっぱり今夜は積もりそうだな」とか「明日朝、スコップ準備しとかなきゃ」などと言い合うだけだ。こういう光景を目の当たりにすると、「雪国の人は本当に慣れてるんだなあ」としみじみ思う。


 そうこうしているうちに就業時間が迫る。社員たちは各々の業務をまとめつつ、菜摘や森川など帰宅組は早めに切り上げる準備をしている。遥も書類を整理しながら、帰り道のことを考えずにはいられない。朝より積もった道を歩いて帰るのは、しんどいかもしれない。ただ、朝ほどの緊張感はなく、「まあ、またコンビニに寄って温まるしかないかな」と少し開き直った気分にもなっている。


「明日こそ本格的に積もるかもしれないよ。遙、大丈夫?」

 菜摘が心配そうな顔で言うが、その表情にはどこか「でも、それはそれで面白いよね」というニュアンスが滲んでいる。


「どうだろうね……頑張って歩くしかないけど、もし本当に足腰が辛くなったら助けを求めるから、そのときはよろしく。」

 遥が笑って答えると、菜摘も「任せておいて」と笑い返した。


 雪国での仕事は、東京のような分刻みのスケジュール管理だけでは回りきらない部分がある。それを痛感しながらも、「だからこそ柔軟に動くしかない」というある種の気楽さを感じてもいた。

 「外が雪だから今日は難しいね」「どうせ掘り出すなら早起きしなきゃ」など、会社や住民全体が同じ課題を共有しているように見えて、どこか暖かい連帯感を生んでいるのかもしれない。その雰囲気のおかげで、遥はこの冬を一歩ずつ乗り越えられそうな気がしていた。


 こうして、雪の街で迎える初出勤の午後は、降り出す小雪とともに静かに揺れ動いた。ミーティングで耳にした「雪がスケジュールを変える」という現実、車通勤組が抱える「明日の朝、車を掘り出さなきゃ」という苦労話、そして徒歩通勤の自分が「またコンビニで暖をとりながら帰ろうか」と考える気軽さ。すべてが雪国の日常であり、東京とは違う“もうひとつの当たり前”なのだと、遥の中で確信に変わりつつある。


 次にどんな雪が降り、どんな風景を見せてくれるのか。それが楽しみでもあり、少し恐ろしくもある。だが、たとえ凍ったペットボトルやシャーベット状の路面に泣かされても、助け合ったり、笑ったりしながら乗り越えていける。そんな不思議な自信が、遥の胸の奥で小さく芽を出していた。



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