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第9話 雪夜への帰り道と確かな手応え



 夕方のチャイムが鳴り、オフィスの空気がゆるやかに「今日の仕事はここまで」という雰囲気に包まれはじめた。パソコンを落とす音や書類をまとめる気配がそこかしこで聞こえ、社員たちは三々五々、帰宅の準備に入る。雪国に来てから初めての本格的な出勤を終えた遥(はるか)も、バッグに資料をしまいながら、今日一日を振り返っていた。


 窓の外では昼間から続いていた小雪が、一度はやんだかに見えたが、再びうっすらと舞い落ちている。朝の段階でも「積もらなくてよかった」と思ったのに、夜になると視界が暗くなる分、雪道の不安は増すばかりだ。とはいえ、地元の社員たちは特に慌てる様子もなく、「まあ、これくらいなら大丈夫でしょう」と軽く笑っている。都会から来た遥にとって、その逞しさが心強くもあり、同時に不思議でもあった。


「よし、片付け終わったし、帰りますか」


 そう自分に言い聞かせるように呟き、パソコンをシャットダウンする。デスクのまわりを片付け、上着を手に立ち上がると、ちょうど同僚の菜摘(なつみ)がやってきた。彼女もそろそろ帰る様子で、いつもより厚手のマフラーを巻いている。


「お疲れさま、今日も寒そうだけど、歩いて帰る?」


 菜摘が問いかけてくるので、遥は苦笑いしながらうなずく。雪道を歩くのはまだ緊張するが、彼女が一緒なら心強い。菜摘のアドバイスに従って小股で歩けば、転ぶリスクもいくらか減るはずだ。ふたりでオフィスを出ようとしたとき、菜摘がふと窓の外に視線をやり、


「大して降ってなくてよかったわ。『雪国』って小説知ってる?」

と、突然話題を振ってきた。


「『雪国』……ああ、川端康成の? “トンネルを抜けるとそこは雪国だった”ってやつだよね?」


「そうそう。あのフレーズ、有名だよね。でもさ、現実には、ドアを開けたらいきなりブリザードって状況もあるんだよ。この地方だと、吹雪が突然来ることもあるし。」


「こ、怖っ……」


 思わず短い声が漏れる。東京育ちの自分にとって、「トンネルを抜けると雪国」はすでに幻想的なフレーズなのに、実際にはもっと過酷な環境があり得るわけだ。菜摘は「まあ、今日はそこまででもないし、歩いて帰ろう」と笑って言う。彼女に先導されるかたちでビルのエントランスを出ると、朝よりはうっすら積もっているものの、たしかに吹雪くほどではない。


 街灯に照らされた夜の道路には、白い雪が薄くシャーベット状に広がり、歩くときに少し滑る感触がある。菜摘は「ゆっくり行こう」と言いながらも慣れた足どりで先を進む。一方、遥は慎重に足元を確かめながらついていく。昼の時点であれだけドキドキしたのだから、夜道の雪はなおさらだ。けれど、こうして一緒に話をしながら歩くと、雪国の夜の静けさや、白く染まった街の美しさに気づく余裕が出てくる。


 コンビニの前を通りかかると、菜摘が「寄る?」と軽く提案した。朝や昼のように温かい空気に吸い寄せられるのも悪くないが、「今夜はそこまで震えるほどじゃないし、家が近いから大丈夫かな」という気もする。さりとて心がぐらつくのは、「コンビニはいつでもあったかい」という誘惑が頭をよぎるからだ。


「やっぱり一瞬だけ……暖かい飲み物、買おうかな。」


 そう言うと、菜摘が笑顔で「了解!」と返事をしてくれる。店内に入ると、案の定、ぬくもりが全身を包み込んで離れがたい気持ちが沸き上がる。「ここで暮らしたい」とまでは言わなくとも、しばらくこのままでいたいと思わせるほどの快適さだ。しかし、今日は吹雪でもなく、そこまで危険な天候でもない。朝や昼よりは余裕があるのか、遥も「よし、すぐ出よう」と自分に言い聞かせられた。


 ホットコーヒーを買って外に出た瞬間、「うわっ、寒い……」と声を漏らすが、そこまで絶望的なほどではない。菜摘が前を行き、「このままアパートまで一直線だね」と言う。ふたりで歩く道中、菜摘がもう一度「雪国って小説、ほんとにロマンチックに思えるけど、実際はこんなもんよ」と笑う。


「ドアを開けるとブリザードって想像したら、怖いよね。こっちは家の水道管もちゃんと保温してるし、車や歩行者の除雪スキルもあるから、そうそう生活が破綻することは少ないんだけどさ。普通の地域が急に寒波に襲われると、水道管が凍ったり破裂したりで大混乱になるんだよ。」


「なるほど、雪国じゃちゃんとヒーター線とか発泡スチロールで保温されてるんだよね。そう考えると、ここじゃ水道管が破裂なんてあんまり聞かないって森川さんも言ってた。」


「そうそう。さすがにここまで寒い地域は対策が万全だもん。外にむき出しで水道管置いてるなんてあり得ないし、毎年冬になったらみんなヒーター線のスイッチ入れてるしね。」


 言いながら菜摘が小さく笑う。「東京とか普段寒くない街で、急に気温が下がると怖いよね。雪国は準備があるからこそ破裂とか少ないっていうか……。」と、さらりと説明してくれるのを聞き、遥は改めて雪国の知恵に感心する。自分がいた東京なら、突然の大寒波に備えてそんな設備が整っていない家が多いだろうから、大パニックになりかねない。


 家々の軒先には雪が積もり始め、そこを通るたびにひやりとする瞬間があるが、菜摘に「きょろきょろすると逆に危ないよ。足元に集中」と言われて、息を飲みながら慎重に歩を進める。数分後、アパートのある通りに出ると、朝とはまた違う静寂に包まれていて、どこか映画のセットのようにも感じられる。


「無事に帰ってこられたね。怖かったけど……なんか今日はだいぶ慣れた気がする。」


 アパートの前まで到着し、ホッと息をつく。朝は必死で歩いてきた道のりが、夜はまた別の表情を見せるから面白い。思わず菜摘に「ありがとう」と言うと、彼女は「いいのいいの。じゃあ、私はもう少し先だから」と手を振って去っていく。明日の朝、もし雪が積もっていたら、また互いにフォローし合いながら出勤するのだろう。


 部屋のドアを開ければ、タイマーセットしたファンヒーターのおかげで、居間の空気はそこそこ暖かい。寝室や台所に向けてドアを開放しながら、「早く暖まれ!」と軽く叫んで回るのも、ここ最近習慣になりつつある行為だ。こうして部屋中のドアを開けて暖気を行き渡らせれば、自分もさらに冷え切った体をリフレッシュできる。それもまた雪国の日常のひとつらしい——対策さえしっかりしていれば、水道管も凍らず、冬の暮らしを乗り越えられるのだと思えば、心強い。


「今日も無事に帰れた……」


 ブーツを脱ぎ、コートを脱ぐと、冷えていた足先がじわりと感覚を取り戻していく。コンビニで買ったホットドリンクを啜りながら、このまま椅子に崩れ落ちたい衝動を抑え、まずは部屋の暖房を少し強めにセットしてさらにドアを開け放つ。昼のうちに聞いた話によれば、外の気温がもっと下がるとシャーベット状の雪が凍結してアイスバーンになり、朝に大変な思いをするらしい。菜摘や森川は当然のように「明日は気をつけてね」と言っていたが、自分にとっては毎日が学習の連続だ。


 それでも、こうして一日を終え、自宅でぬくもりを得られるというだけで、大きな達成感がある。吹雪でもない、積雪もそこそこ……それが雪国では“マシ”な日かもしれないが、東京で暮らしていた頃の感覚からすれば十分すぎるほど別世界だ。それを乗り越えた自分を、少しばかり誇らしく感じてもいいのではないかと思えてくる。


 ソファに腰を下ろし、柔らかくなった指先を眺めながら、遥はふっと笑みを浮かべる。朝の通勤、昼の鍋焼きうどん、午後の仕事、そして夜の雪道——どれもが刺激に満ちていて、東京では味わえない達成感をもたらした。小説『雪国』の有名なフレーズ「トンネルを抜けるとそこは雪国」もロマンチックかもしれないが、現実の雪国は時にブリザードが玄関を塞ぎ、水道管が凍るかどうかのせめぎ合いに苦労し、それでも人々が笑い合いながら日常を回している場所なのだと、今になって心から思う。


「明日はどんな朝になるかな……」


 ポツリと呟き、窓の外を見る。街灯に照らされて、静かに舞う雪が夜の闇に吸い込まれるように落ちていく。もしドアを開けた瞬間にブリザードが吹きつけたら、どうするか。あるいは想定外に積もってしまったら、どう動くか。そんなシミュレーションが頭をよぎるが、まったく嫌な気持ちはしない。菜摘や森川たちと「雪国って厳しいよね」と笑い合えるなら、明日もまた乗り越えられる気がする。


 こうして、一日の終わりは外の寒さとは対照的に、部屋の暖気と小さな自信に包まれながら幕を下ろす。雪国ならではの大変さがある一方で、それを共有する人々の存在があるからこそ、初心者の自分も少しずつ成長できるのだろう。テレビのニュースでは「東京でマイナス1℃が予想される」と大騒ぎしているかもしれないけれど、ここではそれを「そっちも寒いんだね」と軽く受け止めつつ、「じゃあ、私も明日の朝、がんばろう」と気合いを入れる……そんな日々がすでに当たり前になりつつあった。



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