「直属の上司として、早退させた可愛い部下のことを気に掛けるのは当然のことでしょう?」
岳斗の言葉に羽理がソワソワと顔を上げたら、岳斗が「ね?」と付け加えてニコッと微笑んだ。
羽理は春風のような岳斗の笑顔と、北風のようにムスッと不機嫌そうな大葉の顔とを交互に見比べて。
そこでふと思い出したように「あ……」とつぶやくと、
「そう言えば倍相課長! あの受付けで見た綺麗な女性! 大……じゃなくて……えっと……や、屋久蓑部長のお姉さんだったんです! 課長が心配なさったような〝カノジョさん〟とかじゃありませんでした!」
そう打ち明けたのだけれど。
それを聞いた大葉が、一瞬だけ岳斗に鋭い視線を投げ掛けてから何か言おうとして。
でもあえて気持ちを切り替えるみたいに視線を羽理へ戻すと、不機嫌そうに「おい、羽理。俺の呼び方」と異議申し立てをしてきた。
羽理は大葉の態度に違和感を覚えたのだけれど、すぐにそんな大葉のセリフに重ねるようにして、
「わざわざ言い直さなくても大丈夫ですよ?」
クスッと笑った岳斗から「けど……会社では気を付けてくださいね?」と指摘されて、小さな引っ掛かりがポンッと吹っ飛んで行ってしまう。
「あ、はい! ……あ、有難う、ござい、ます……?」
今まで散々岳斗の前でも無意識に〝大葉〟呼びをしていた羽理だったけれど、改めてその呼び方を肯定されると何だか照れてしまうではないか。
お礼を言うのも違うよね?と思いながらも、つい「有難う」を言ってしまった。
「何で礼……」
わざわざ掘り下げなくてもいいのに、すかさず大葉が突っ込みを入れてきて、ついでのように「ところで倍相……」と、こちらはとうとう敬称も役職名もなしで呼び掛ける。
「何でしょうか?」
そこで大葉はふと思い出したように自分のすぐ傍らで、こちらの会話に耳をそばだてている羽理を見詰めると、無言で立ち上がって羽理が道中羽織っていたブランケットを手に戻ってきた。
「――羽理。さっきから気になってたんだがな。足、寒いだろ? もうちっと丈の長いズボンを履いて来い」
言って、手にしていたブランケットを、羽理の太ももが隠れるようにばさりと落とした。
***
大葉に指摘された羽理は、今やっと気が付いたと言う風に自分の格好に目をやって。
ハッとしたように岳斗を見詰めてから真っ赤になる。
「きっ、着替えてきます!」
ギュウッとブランケットの前を閉じるように布地に包まって、ワタワタと脱衣所の方へ走って行く羽理を見送ってから、岳斗がポツンとつぶやいた。
「――もしかして彼女の肌を僕に見られるのが嫌だったんですか?」
クスッと笑いながら「けどちょっと遅かったですね。もうしっかり見ちゃいました」と付け加えた岳斗に、大葉は憮然とした表情で、「頭ぶん殴って記憶喪失にしてやろうか」と、聞いたことのないような低い声で不穏なことを言う。
岳斗はそれに肩をすくめて見せると、
「――冗談はさておき、今更羽理ちゃんの露出度を指摘して彼女を追い払うような真似までして、僕に言いたいことは何ですか?」
気持ちを切り替えるように居住まいを正すと、こちらも低音で問い掛けてきた。
大葉はそんな岳斗をじっと見据えると、
「お前、柚子が俺の姉だって知ってたはずだよな? なのに……何でわざわざ偽の情報を流して羽理を不安にさせた?」
岳斗は大葉がまだ財務経理課長をしていた頃、柚子が土恵商事に姉として顔を出したところに居合わせたことがある。
今更しらばっくれるのはおかしいだろ?と言外に仄めかせつつ、さっき羽理から聞いた言葉でそこが引っかかったのだと大葉が言えば、「何だ、そんなことでしたか」と岳斗が何でもない風に吐息を落とした。
「分かりませんか? 僕が吹き込んだデマでお二人の仲が拗れて、あわよくば別れてしまえばいいのに、と思ったからですよ」
「そんなくだらない理由で……お前は羽理を傷付けたのか?」
「うーん、僕としては羽理ちゃんを傷付ける気はなかったんですけど……。まぁ結果的にはそうなっちゃいましたね」
だからこそお詫びの意味も込めてケーキを買ってきたのだと――。
岳斗が悪びれた様子もなくそんなセリフを付け加えた途端、大葉は岳斗の胸ぐらを掴んでいた。
そのままグイッと腕を引くようにして岳斗の方へ身を乗り出すと、
「どんな理由があろーとアイツを傷付けて平気なやつに、羽理は渡さねぇよ。――しっかり覚えとけ、サイテー野郎」
岳斗の耳元でそう牽制して、スッと離れた。
***
「……大葉?」
「んー? 着替えたか?」
上のパーカーはそのままに、長ズボンに履き替えてきた羽理を見て、大葉が満足げに微笑んだ。
だが、羽理は大葉とは対照的に困惑顔のまま。
「あ、あの……。今、倍相課長とすっごく、すっごく! くっ付いてなかったですか……?」
「あー、見られちまったか。ま、気にするな。羽理には内緒で男同士のイケナイ話をしてただけだから。――そうだよな? 倍相」
「はい。〝大葉さん〟と、ドキドキするような時間を共有していただけです」
どこか上気したような色っぽい顔で、岳斗が大葉をうっとりと見つめるから。
羽理は何だか余計にそわそわしてしまう。
(ちょっ、もしかしてコレ。『皆星』で連載中の、『あ〜ん、課長っ♥ こんなところでそんなっ♥』のヒロインのライバル役を男性に置き換えなきゃいけないんじゃないの!?)
なんてことを思ってしまうような……そんな雰囲気なのだ。
(大葉にその気がなさそうなのがせめてもの救いだけど)
これで大葉にまでそんな雰囲気を醸し出されてしまったら、羽理の立つ瀬がない。
***
まさか羽理にBL展開を心配されているだなんてこれっぽちも思っていない大葉は、急に岳斗から「大葉さん」だなんて呼ばれて、ポーカーフェイスのまま実はゾワリと全身に鳥肌を立てていた。
(な、何なんだっ、いきなり!)
口裏を合わせてくれたのは有難いが、妙に親密な空気を醸し出されて――。
さっきまで羽理を挟んで火花バチバチだったはずなのに何事だ?と思わずにはいられない。
(俺が羽理にヤツの悪事をバラさなかったからか?)
ただ単に、大葉としては羽理が敬愛している上司さまのイメージを崩すのは忍びないと思っただけだったのだが。
信頼している倍相岳斗が、まさか自分を陥れるような嘘をついただなんて知ったら、羽理が傷付く。
それだけは何としても避けたかった。
(俺は羽理が悲しい思いをすんのは嫌なんだよ)
本当にただそれだけだったのだが――。
案外大葉は、目の前の男から弱みを握られたとでも思われて絶対服従の権利を得てしまったのかも知れない。
***
倍相岳斗は屋久蓑大葉が荒木羽理のために本気で怒る姿を見た瞬間、電撃が走るような衝撃を覚えた。
今まで自分に対してこんな風にあからさまに牙を剥いてきた相手はいなかったし、ましてやそれが全て愛しい彼女のためとか。
(かっこよすぎでしょう、屋久蓑大葉!)
今でも大葉が耳元で囁いてきたバリトンボイスが岳斗の脳内を侵食している。
何だかよく分からないが、今までいけ好かない人間でしかなかったはずの屋久蓑大葉に、敬愛の情がわいてきてしまって。
気が付けば、つい無意識に〝大葉さん〟と親しみを込めて呼んでしまっていた。
(ああ、この感情、何て言うんだろう……)
羽理と話している大葉をぼんやりと見つめて――。
(あんなに気を遣われて。……羽理ちゃん、ズルイなぁ)
無意識にそう思ってから、岳斗はハッとする。
(いや、いや、いや! ちょっと待って?)
いつの間にか岳斗の中で、屋久蓑大葉はただの上司ではなく、〝人として(?)かなり好き〟な対象に設定されてしまったっぽい。
大葉の性的対象は絶対に異性で、自分だってそのはずなのに。
(ズルイ、はどう考えたっておかしいでしょう!)
今の考えは、バグとしか思えない。
(そうだ。この感情は……憧れに違いない!)
きっと、自分もあんな男になれたらな?と言う思いが上手く処理しきれなくて、恋愛感情に誤認されかけているだけに違いない。
(ちょっと気持ちの整理が必要だな。……家に帰って一旦頭を冷やそう)
岳斗は小さく吐息を落とすと、そう結論づけた。
***
大葉の、本気の脅しがきいたんだろうか。
あのやり取りの後、岳斗はやけにあっさりと立ち上がって。
「じゃあ、僕、そろそろ帰りますね」
そう言ってどこか憂いを帯びた表情で微笑んだ。
そうして玄関を出る間際、「あのっ! い、色々ありましたけど……僕は大葉さんに敵意はありませんのでそこだけは誤解しないで頂きたいです。それから……お役に立てるかどうかは分かりませんが、困ったことがあったらいつでも相談して下さい。お力添えいたします。……あ、もちろん羽理ちゃんも」と、まるで取って付けたように今までは最優先事項だったはずの羽理へ愛想笑いをするから。
後に残された羽理とふたり。
大葉は岳斗の余りの変わり身に戸惑わずにはいられなかったのだが。
「うー。何だかモヤッとします。倍相課長ってば、まるで大葉に恋しちゃってるみたいなんですもん」
羽理が唇を尖らせてポツンとそんなことを言うから、思わず「はぁっ!?」と素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
「い、いや……どう考えてもそりゃねぇだろ」
大葉の言葉に、羽理は「え? ありますよ! あの表情は絶対フォーリンラブですもん! 気付けなかったとしたら……大葉が鈍すぎるからです!」とか。
「いや、お前がそれを言うか!?」
今まで散々頑張ってきた自分のアプローチを羽理に袖にされまくってきた大葉が、思わずそう返したのも無理はない。
(そもそも男同士でそんな……。俺もアイツもノーマルだぞ!?)
つい今し方まで自分と岳斗が、羽理を巡って火花バチバチだったことを、羽理だって知っているだろうに。
大葉は、何をバカげたことを……と、思わずにはいられなかった。