祝宴の歓声はまだ響いていた。
――だが熱はない。
仮面の裏で笑う者達は、もはや祝福の演技すら続けるのに
踊りは崩れ、杯は傾き、誰もが他者の反応ばかりを伺っていた。
「リゼルダ、この光はなんだ?」
「……光?」
「見えないのか? 指先が……震えて、疼いて、白く」
「何をおっしゃられるのですか。私には何も見えませんが」
「いや、俺には感じる。これは……俺の中の何かが……」
そして中心にいた黒き子、ザグロはその指先に僅かに白い光を浮かべていた。
リゼルダの隣で静かに立つその姿はまるで彫像のように動かず、だがその気配だけが空間を震わせていた。
――ぱち、と音を立てた白い光。
それは瞬間、空間そのものを貫くようにして、仮面達の眼差しを一点に集めさせた。
「……っ」
誰かが小さく息を飲んだ。
誰もが見た。
ザグロの指先から滲む、禍々しき宴には不似合な光を。
「……その色は我らのものではない」
獣王オブゴルストが鼻を鳴らし、杯を乱暴に置いた。
「やはりだ、リゼルダよ。お前の夫は光の種を内に宿している。魔族の宴に相応しからぬ異物だ」
その言葉に、宴の空気が一瞬で凍りつく。
――だが、その緊張を破ったのは玉座の男だった。
「……お開きにしましょう」
ルベルドが静かに告げた。
「この祝宴は、我らの妹リゼルダとその伴侶ザグロのためのものであったが……どうやら、ここまでが良いらしい」
その声音は笑っていた。
だが、その目は氷のように冴えていた。
「皆、面白いものが見られただろう。黒き子、ザグロが放った白い光――光の誓いが生きていることを」
ざわ……と魔族達の間に波紋が広がる。
「祝宴を締め括るに相応しい余興だったろう?」
ルベルドが立ち上がる。
その影が長く伸び、まるでその場の終幕を示す黒幕のようだった。
「さあ、皆様。この余興の意味を理解されたのなら――」
ルベルドの仮面の奥、冷たい光がゆっくりと一同を見渡す。
「次は舞台の裏へどうぞ」
その言葉に、魔族達はざわめきながらも従う。
次なる動き、次なる施策、次なる刃の準備を胸に秘めて。
ザグロはリゼルダの隣に立ちながら、己の指先に宿った光を見つめていた。
それが何かは、まだ彼にはわからなかった。
だが、それが自分の選択と意思の回復の予兆であることだけは確かだった。
「……面白いな、黒き子よ
そのとき、場の出口に向かいながら、ひときわ低く獣王が言い捨てた。
「しかし、光はただ照らすだけではない影を生むものだ」
その背に、獣の咆哮めいた沈黙が付き従う。
扉の向こうに消えていく巨躯が、まるでこの宴に置き土産を残すように重く、そして不穏だった。
***
試練を超え、祝宴の余韻もまだ
トルムカーンの岩山を離れ、ヒルデラント伯領へと戻る帰路、彼は静かに外を見つめていた。
「人間がいる……」
ザグロの視線の先に、小さな群れが見えた。
岩を砕き、土を運び、無言で行き交う人影。
それは魔族に支配された人間達だった。
叫びも、泣き声もない。
ただ黙々と、命令されるままに手を動かしている。
殺されもしないが、語られることもない――まるで存在自体が記録される価値を失ったような姿だった。
「モス……彼らは何をしているんだ」
そう問いかけるザグロに、
「ああ、あれですか。仕事ですよ」
「仕事だと?」
「ええ、石を運び、穴を掘り、骨を埋めています。死者も生者も区別なく埋めるよう命じられているのです」
モスの声はどこまでも淡々としていた。
それは日々の一工程を語るような口調だった。
「生者も埋める?」
「冗談に聞こえるかもしれませんが本当の話です。穴が足りなくてね。生きてるほうを先に詰めて間引くこともある」
モスの口元には笑みが浮かんでいた。
だが、その目には光がなかった。
ザグロの胸の奥にどこか冷たいものが落ちた。
「間引くとはどういうことだ」
「ザグロ様、ここはかつて大地の王と呼ばれた人間が命を抱く者達に土を与えていた地でございます。しかし、今やルベルド様の支配下にあり、人間どもは『感情を持たぬ資源』として分類されております」
「感情を持たぬ資源だと?」
モスは手綱を軽く締め直すと、ゆっくりと口を開いた。
「はい、分類です。ここで人間は三つに分けられます」
その声は、ゴブリンらしからぬ教師のようで講義のように滑らかだった。
「まず、労働可能な個体。肉が動けば、それで十分。言葉は不要、考える必要もなし。命令に従えばよし」
モスは少しばかり間を置き、さらに続ける。
「次に応用素材。これは肉ではなく、血や骨、内臓を他用途に利用するための存在。魔薬の触媒、儀式の代価、研究材料――そういう実験体です」
ザグロの眉がわずかに動いたが、モスは構わず続けた。
「最後が分類外。老いすぎた者、病みすぎた者、反抗した者……あるいは何も役に立てそうにないと判断された者です。彼らは穴に埋められるか、灰にされます」
モスの言葉には、ゴブリンという邪鬼の素顔が垣間見えた。
残酷な内容でありながら、その語り口は終始淡々としている。
それはもはや、血と暴力が日常となった者にとっての何気ない報告にすぎなかった。
「そうか……」
ザグロの手が、膝の上で握られた。
指先に残る微かな光が微かに明滅する。
その心に言葉はなかった。
ただ、何かが確かに疼いていた――。
それが怒りなのか、記憶なのか、自分でもわからなかった。
「しかし、ザグロ様もやっと自分からお話になられましたな」
「俺が?」
「ええ、ザグロ様からお声が聞けるとは。これは珍しい出来事でございます」
からかうような調子でモスが笑う。
だが、ザグロは応えなかった。
代わりに、静かな声がすぐ隣から届いた。
「ザグロ……怒っているのですか?」
リゼルダは黒いヴェールを身につけていた。
今日のトルムカーンの陽は鋭く、容赦がなかったためだ。
肌を焼き、視線を刺すその太陽の下では魔族でさえ身を覆うことを余儀なくされていた。
岩山の稜線が陽に滲み、空気までもがゆらめいている。
その焦げるような風の中で、リゼルダは涼しげな顔のままヴェールを直した。
まるで自分の肌が、決してこの世の熱に侵されることはないとでも言うように――。
「わからない。ただ――ここにあるのは『何かが間違っている』という感覚だ」
「間違っている、ですか」
リゼルダはゆるやかに首を傾げた。
「秩序とは『誰かの正しさ』で形作られるもの。我々魔族の世界では、そうした選別は必要なのです。怨嗟も涙も、そこには含まれません」
その声音は、優しさと冷たさを同時に含んでいた。
ザグロは黙って外を見た。
岩肌が陽に焼かれ、まるで地そのものが
その上で、幾人もの人間達が黙々と石を運び、掘り返し、汗を滴らせていた。
陽光は慈悲など持たぬ刃のように、肌を切り裂いていく。
だが、彼らはそれにすら慣れていた。
焼かれ、乾き、割れた皮膚を抱えたまま、ただ命のために――。
あるいはその意味すら奪われたまま、ザグロと同じく人形のように動いていた。