──鏡の中の俺をまっすぐに見つめる。
たぶん似合ってない。俺の普段の目つきも相まって怖い。
でも、そこに立ってるのが俺であることは間違いない。もう後戻りはできないし、戻る気もない。それに、慣れればこれも悪くない。そう思えた。まだ暑いしちょうどいい、なんて。
もちろん、これで全部償えるわけじゃない
「はいっ、終わりっ。……お兄ちゃん、ほんとにやるとは思わなかったよ」
後ろから琴音の声。あきれ顔の声色なのに、口元は笑ってる。バリカンの音が止まると、変な静けさが残った。床には、俺の髪が山になってた。
風呂場の前で父のバリカンを見つけた時、これしかないって思った。バッグの中には使っていない彼女の白いハンドタオル。使うわけにはいかなかった。彼女の優しさ、差し伸べてくれた彼女の気持ち、全てを汚してしまうような気がして。
──謝っている相手が俺自身なんだから、届くはずもなかったんだ。
* * *
家に帰る途中、何度も同じ景色を見た気がした。
暑さも忘れ、歩き、さまよった。誰もいない公園、影を落とす電柱、前を見て歩かない学生。笑いあうカップル、俺の顔を見て笑う奴ら。引き戸の音、男の声、殴られた感触、一瞬の光。そして、あの香り。目に見えるものが背景色と同化し、同じ色に見えたが、彼女がくれたハンカチの白さだけが鮮やかだった。
帰ってから、何も言わず風呂場に入って鏡を見る。鼻の下にはまだ血の跡が残っていて、うっすらと赤黒かった。唇の端は切れていた。痛みはあるけど、自分のカッコ悪さの方が何倍も辛かった。
絆創膏やティッシュ、何かないかと、洗面台の棚を次々に開けていく。最後の引き出しを開けると、父が使用していた古いバリカンを見つけた。電源を入れるとちゃんと動く。ぶぅん、という振動に心臓が分かりやすく脈打つ。何かを断ち切る恐怖は感触だけで伝わってくる。
すぐに電源を切る。やることは決まった。
「なあ、琴音」
「おかえり……って、ええ! どどど、どうしたのその顔! 喧嘩したのっ?」
リビングに入ると、琴音が夕食の準備をしていた。声を掛けるとすぐに大声をあげ、おたまを落として俺に駆け寄ってくる。
「だれと!? 大丈夫!? えっと、えっと……消毒しなきゃ、うう、冷やしたらいいのかな? そこ座って!」
たった1メートルくらいの範囲を何度も往復する琴音。
「坊主にしてくれない?」
「え? ちょっ……何いってるの!? それどころじゃないよ! 頭打った? お兄ちゃん落ち着いて!?」
……頭打った。ほんとだよな。
「うん、俺は落ち着いてるよ。だから今のうちにやるんだ。頼むよ」
「何をやるのっ!? そんな顔で冷静なの変だよっ」
とりあえず琴音を落ち着かせるだけで、数分はかかった。最後は、「剃ってくれたらちゃんと話すよ、その後ちゃんと治療するから」と約束して、半ば強制的に琴音を洗面所に連れてきた。パッと蛍光灯がついて鏡に俺と琴音が写る。真っ白い光はスポットライトのようで、俺を試しているかのようだ。
引き出しを開けて、バリカンを手渡す。意外と重かったのか、受け取った琴音の両腕は少し沈む。
「……う、ちゃんと教えてよ? あと、どうなっても知らないからね……!琴音、こういうの初めてなんだから!」
「うん。思いきって頼む」
「もう。琴音だけ慌ててバカみたい……」
そっと目をつむる。肩を包むようにバスタオルが掛けられる。「ほんとに?」と琴音が聞くが、俺は黙ってうなずいた。
ぶぅぅぅん……
声を黙らせるような不気味な音。ぞくりと首筋に冷たいものが当たり、体がこわばる。
「ちょちょ、動かないでよっ」
と焦る琴音の声。
「おい、一気にやってくれよ」
「だ、だって、どこからいけばいいかわかんないんだもん! あっ」
バサッと大量の髪が床に落ちる音がした。おそらく、後頭部からつむじにかけて、結構いった。
「……」
床に散らばった自分の髪を見る。こんなにあっさりと、ただそれだけのことで、簡単に過去は置いていける。感傷に浸る気分になるが、その考えを一蹴する。
そう、一歩。踏み出す勇気さえあればきっと、これからだって……。
「ほ、ほら。目、つむってて? 目に入っちゃうよ」
後に引けなくなった琴音は、恐る恐るだがバリカンを走らせていく。
「あれ、ちょ、ちょっとここ斜めってない!? やば、左右ズレてるかも……ここだけ変な段になってる!」
「いいよ、適当で」
何も深く考えない日々、悪くないし好きだ。深く考えるのは怖い。答えのないものを探すより、今の楽しいことだけ考えていたかった。そんな自分が、ずっと嫌いだった。
「よくないよ、ほら、見て?」
琴音がぐいぐいとタオルを押し当てながら言った。強い光に一瞬目がくらむが、凸凹した俺の頭は不細工だったけど、どこか懐かしかった。
「くっ、あはははっ!なんだこれ!」
俺が笑うと、琴音は片手で口を隠す。目元は笑っている。
「もう! 笑わないでよ! これでも頑張ったんだよ!」
鏡の中で琴音と視線が合うと、ついに琴音も噴き出して笑い出した。こんだけなのに、涙が出るくらいおかしくて、笑いあった。肩とか背中とか叩き合って、ただ笑いあった。
「ありがとう、琴音」
「……うん」
鏡を見た。ちょっと不揃いだけど、俺の新しい姿。2ミリほど残して刈られた短い髪。まだ見慣れない顔。変な気分だった。でも、気持ちがなんだか軽くなり、それでいて、心の奥にずしりとしたものが重く、固まってきているのを感じる。
明日、彼女にハンドタオルを返す。そしてちゃんと会話したい。
「……それで、何があったの?」
床の掃除もやり終えた琴音は、再び鏡で俺と視線を合わせる。
「うん、話す」
約束通り、俺は琴音に昨日の罰ゲームのことから、今日のことを全て話した。カバンに入っているハンドタオルのことを除いて。
「最悪だよ……」
「……うん」
「お兄ちゃんが全面的に悪いよ? 女の子をそんな風にからかうなんて、絶対ダメ。お兄ちゃんがそういう悪ノリするの知ってるけど、境界線ってあるのっ!」
語りかける口調は厳しさも含まれていたが、どこか諭すようで、真剣な眼差しを送り俺を見つめている。
「恋仲さんのお兄さんに殴られちゃうのも仕方ないよ」
琴音がもしそういう状況だったら、俺もきっとそうしてるし、殴られて当然のことをした。だから兄に対しては怒りも何も感じていない。ただ、せっかくの機会を自ら潰してしまった行為だけが心に残っている。
不意に静かになる。料理してたっぽいけど大丈夫かなんて、今更な心配事が頭をよぎる。
「お兄ちゃんは優しいね」
「は? なんでそうなる」
「だって、それじゃだめだって、なんとかしたいって、ここまでしてもう一度謝ろうとしてるんでしょ。優しいよ? 味方してるわけじゃ……ないけど」
自分の発言に居心地が悪くなったのか、声が少し小さくなる。
……それは違う、俺はまだ一度も謝ってないんだよ。
琴音の顔は微笑んでいたけど、ほんの少しだけ、何かが曇っている気がした。
「その人、幸せだね。……ほら、お兄ちゃん。顔冷やしたりするよ!あと、ごはん!今日もお父さん遅いっていうから、デリバリーでもよかったけどカレー作ったの!」
手を引っ張られて、リビングに戻される。カレーの味は想像できた。あの焦げた感じ苦手なんだよな。幸せって言葉が妙に耳に残ったけど、琴音に身を委ねる。
切り替えろ。俺は、今ここで変わったんだ。これまでの俺は捨てて、目をそらさずに進むんだ。
大きく息を吸い込むと鼻の奥が震えた。
もう迷わない。もう目をそらさない。進むしかない。
不安も、怖さもある。けど、それを超えていく覚悟だけは、ここにある。
「やるしかないだろ……」