一体この縄には、どういう意味があるんだろう。
カヴァナー家本宅の庭。地下迷宮の階段を下ったところで、セリーナは足を止めていた。
茶色の煉瓦が詰れた廊下が続く道。その道に、まるで柱のように天井からロープが垂れ下がっているのである。新しく設置したものではない、のはその劣化具合から明らかだった。
不思議なことにロープは天井の輪っかからつるされており、床に設置された輪っかを通して結ばれている。遠目から見ると細い柱のようにも見えるかもしれないが、当然この縄に柱としての強度などあろうはずがない。
そして、まじまじとよく見ると縄の編み方が妙なのである。三つ編みのようにも見えるが、ところどころぐるりと捻って奇妙な編み方を挟んでいる。これらにも、何か魔術的意味合いがあるのだろうか。
「トレイシー、この縄って何か知ってる?」
この地下一階のあたりは、一般的な観光客も立ち入ることができるようになっている。この廊下を少し先に進むと二階への階段があり、そこから先は専用の許可を持った魔法使いしか入れないことになっているのだ。赤いロープで区切られていて、誤って踏み込むことはないとトレイシーには言われていた。
「エギリアの魔法使いたちと、此処は同じなんだろうな」
トレイシーが、セリーナの手元を見つめながら言う。
「模様や編みこみ。特殊な技法を用いることで、そこに魔力を込めることができる。結界を作ったり、罠を作ったりすることもできるんだ」
「それは私も知っているわ。特定の範囲を守るために、地面に模様を書いたりするわよね。でも……この縄の編み方はまったく見たことがないの。うちの研究書にも載ってなかったと思うわ」
「だろうな。……実は、こういうものもまだ研究中なんだ」
トレイシーはそっと縄の一本に触れる。セリーナは目に魔力を集中させて観察したが、特に何かが起きる気配はない。触れた結果、何かが起きるようなトラップの類ではないようだ。
というか、もしトラップの可能性が僅かでもあるのなら、魔法の素質も何もない一般の観光客を入れているはずもないわけだが。
「見ての通り、現在は触っても何も起きない。ただ……それは現在ならという話で、昔はトラップか結界として機能していた可能性が高いと俺達は踏んでいる。純粋に、この地下施設を外敵に発見されないようにしたかっただろうというのが最大の理由だが」
「階段降りてすぐのエリアだもんね、ここ」
「そういうことだ」
この地下階段への入口も、かなり丁寧に隠されていて発見するまでが大変だったと聴いている。つまり、この地下へはカヴァナー家以外の人間には可能な限り見つかって欲しくなかったということ。
ならば、万に一つ見つかった場合、侵入者を入口で排除する仕組みがあると考えるのが道理だろう。階段を降りてすぐにこの縄の通路はあるし、この通路を通らなければ他の階に行くことも他の部屋に入ることも叶わないのだから。
「そもそも、カヴァナー家が没落してから、何度もこの庭にはフランシア王国の調査隊が入っている」
壁をぽんぽん、と叩きながら言うトレイシー。
「にも拘らず、この庭の地下施設が見つかったのは最初の調査隊が入ってから何百年もあとになってからのことだ。そして、この階段を見つけたのが俺の祖父のライナー・パーセル。偶然とは思えない」
「魔法使いでなければ見つけられないものであったということ?」
「それもあるだろうな。実際祖父は階段があった花壇の奥に妙な気配を感じて、そこをくまなく探していたところ土に埋もれていた階段を見つけたというから。ただ、過去の調査隊にも魔法の素質がある者は何人かいたはず。恐らく、経年劣化でトラップの魔力が尽き、あるいは朽ちたことで隠蔽の魔法が弱くなったものと考えられる」
魔法にも経年劣化があるのか、と驚いてしまったが、言われてみればその通りかもしれない。セリーナはもう一度縄をまじまじと見つめる。魔力を刻んだ編み方、模様の刻み方。刻むものが物理的な道具である以上、その道具が朽ちれば魔法も破れるのは当然のことだろう。
それこそ、多くの魔方陣は形を壊したり汚したりするだけで効果が失われることが少なくない。壁が崩れたら模様は削れるし、縄も朽ちてしまえばほどけたりちぎれてしまうもの。時間の経過が、トレイシーの祖父をこの地に呼び込んだのかもしれなかった。
「そして、同時に入口にあったなんらかの仕掛けも効果が失われた可能性が高い。この縄の編み方は、土魔法の術編みによく似ている」
土魔法の術編み。確か、触れた人間の足元に軽い地震を起こすような編み方だとか聞いたことがあるような気がする。どのような編み方なのか、文献が残っていなかったので噂でしか聴いたことないのだが、トレイシーは知っているのだろうか?
「タスカー家は、土属性の魔法が得意な者が多い家系だからな。そちらの魔導書をいくつか読ませて貰ったことがあり、そこで見た編み方に似ているんだ」
「あ、なるほど。パーセル家の文献じゃないのね」
「そうだ。ただ、土魔法の術編みとは微妙に異なるし、そもそも、こんな地下で地震なんか起こしたら崩落の危険性もある。家族が閉じ込められるかもしれないし、何より変な地震なんか起こしたら『此処に隠しているものがありますよ』と知らせるようなものだ」
「確かに」
「だから、似た系統の別のトラップだったと思う。しかし、現在は機能していないし、元々の姿の再現にも時間がかかっている……。本当に興味深いな」
そのまま、彼はぶつぶつと考察を始めてしまった。セリーナはほっとかれているような状態だったが、不思議と不快感は抱かなかった。真剣そのものの彼の目。未知なる世界にキラキラと輝いた瞳。それを見ていることが、けして嫌ではなかったからである。
幼い頃はあれだけ遊んだのに、いつしか自分達の心の距離は離れて、彼が何をどれだけ好きなのかもろくに知らずにいたセリーナ。ここ最近ようやく、少しだけ以前の関係を取り戻せた気がする。そう、彼は傲慢で冷徹になってしまったと思っていたけれど――興味があることに集中すると止まらなくなることや、なんだかんだと気遣い屋なところはちっとも変っていないではないか。
『私から言わせれば。……変わってしまったのはセリーナ、貴女の方なんですよ。おじい様の影響があることは否定しないけれど、でもそれだけではないでしょう?貴女は、昔は確かに持っていた優しさを失ってしまった。トレイシーはきっと、それが悲しかったのではないかしら』
――お姉様の言う通り。変わってしまったのは私、の方なのかな。
トレイシーは、そんな自分をずっと案じてくれていたのだろうか。昔の心を取り戻したいと、そう思っていたのか?
自分はそれに気づかずに、彼に裏切られたとばかり思っていたというのか?だから復讐しようと?
――いいえ、それも違う。
そろそろ行こうか、と歩き出すトレイシー。セリーナは慌てて後に続きながら思う。
継承会議で、自分が継承者に選ばれなかったこと。
その上で、追放者として処刑されることになってしまったこと。
黒幕が、継承者となったトレイシーであり、自分はハメられたのだと思い込んだこと。
そう、罠だと思ったのにも特に根拠があったわけではない。本当はもっと、感情的な理由だった。今ならわかる。自分は、罠にはめられたからトレイシーが憎かったんじゃない。他の誰でもない、トレイシーが自分を切り捨てたことが悔しかったのだ。
だって、自分にとって初恋の相手は紛れもなく、トレイシーだったから。
禁術を使って時を遡り、その復讐の手段に『トレイシーを虜にする』なんて回りくどい方法を選んだのも――本当は、単純に彼に好かれたかったからなのだ。彼に捨てられ、要らないものという烙印を押された未来をどうにかしてなかったものにしたかったから。
それはつまり、今でも彼の事を――。
――最悪だわ。
もう、復讐だなんて言い訳ができないではないか、これでは。
――向こうに好きになって貰うつもりで。……私の方が、好きになってどうするのよ。馬鹿じゃないの、私。
否、最初から本当は気づいていた。一番許せなかった事が、何であったのかなんて。
本当に愚かしいことである。
これでまた同じ継承会議を迎えたら、最初の未来より遥かに辛い結果になるのは目に見えているというのに。
***
時々足を止めて遺跡の解説をして貰いながら、セリーナはトレイシーと共に地下二階へと降りて行った。入口の警備員に、トレイシーが許可証を見せている。此処から先は、王国から許可を貰った魔法使いしか入ることを許されていない。
「セリーナは正式な調査員ではないからな。入れるのも地下三階までだ。そこは了承してくれ」
「わかったわ。現在、この地下遺跡はどこまでの深さまで調査が進んでいるの?」
「地下十二階までだが、そこから先どこまで深さがあるか全くわからない。そもそも、この遺跡がカヴァナー家が本当に作ったものかもわかっていないんだ。逆の可能性が高い、と現在では言われているな」
「逆?」
「元々強い魔力を持つなんらかの地下施設、あるいは地下遺跡があって、その上にわざわざカヴァナー家が屋敷を建てたという説だ。そして改装して、研究施設として流用していたと。実際、人の手が入って居住区として使われていた形跡があるのは地下五階まで。それより下は、もっと経年劣化も進んでいるし人が踏み込んだ形跡がなかったんだ」
「へえ……」
魔法の起源は旧エギリア帝国である、というのはトレイシーと話した通り。そのエギリアの魔法使いたちが滅亡したあと、どういう理由でフランシア王国に太古の魔法使いたちが生まれたのかがわかっていないと。
その太古の魔法使い、であるカヴァナー家。誰かがそのカヴァナー家に魔法を授けたのだとしたら、その存在はこのような地下遺跡に住むものだったのかもしれない。だとすると、授けた存在は人間ですらない精霊や神様だった、なんて可能性もあるだろう。
彼らが本当に見つけたいもの、同時に警戒しているものはそんな“人ではない力あるなにか”なのかもしれなかった。
「足元に気をつけろ、地下三階まではランプも設置されているが、それでも脆くなっていることに変わらないからな」
トレイシーは石の階段を降りながら、それとなくセリーナの手を握ってくれた。思わず撥ねた心臓は、彼にバレなかっただろうか。こういうところが紳士で嫌になるのよ、とトレイシーは熱くなった頬で思う。
階段を降りて行くと、長い廊下に出た。いくつのも木製のドアが、左右に並んでいる。設置されたアンプの薄明かりに照らされて、ドアが怪しく揺らめいているように見える。上の方に、明らかに魔術的意味合いがあるであろう模様が描かれているから尚更に。
「あ」
セリーナは、そのうちの一つのドアの前で足を止めた。妙に、心惹かれる模様があったのである。
魔方陣の上に、さかさまの十字架。そして、七枚の羽根が、赤く黒い血のようなインクで描かれていた。
――魔方陣の上に逆十字は、うちの家紋だわ。なんだか、よく似ている……。
思わず、その模様に手を伸ばす。
「セリーナ!」
トレイシーの厳しい声が飛んできた、気がした。え、と思うものの、時は既に遅し。
セリーナの右の人差し指が、十字架の模様に触れた、次の瞬間だ。
「きゃあっ!?」
バチバチバチバチ、と頭の中で稲妻が明滅する。何が起きたのかわからないまま、セリーナの意識は闇の中に落ちて行ったのだった。