目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第25章: 血塗られた土

ペンやインクや意志を必要とせず、歴史が自らの血で記されるように見える時があります。


まるで、止まることのない血の跡に、運命の足跡が次から次へと刻まれているかのよう。


神々が自分たちが支配していると信じ、人間が自分たちは永遠であると信じる時、人生はそうでないことを証明します。


なぜなら、不滅は不死ではないし、絶対的な力も誤りがないわけではないからです。


痛みは火のように、犠牲者を公平に選ばない。


そして、多くの人が流すことを拒む涙は、取り返しのつかないものを買うことができる唯一の通貨になり得る。


神が堕ちた。


そしてそれとともに、均衡の構造そのものに亀裂が生じてしまったのです。


今、冥界の影の中で、肉体の限界に挑戦する訓練と神聖なものに挑戦する交渉の間で、


カウントダウンが始まります。


復帰の可能性だけでなく、…を示すアカウントです。


しかし、それは誰もが支払わなければならない代償でもあります。


魂が死者の国から戻ろうとするとき、


死に抗うだけでなく…


生きている者にも挑戦する。


—————————————————————————————————————————————————————————


石壁が濡れた紙のように砕け、エデンの身体は鈍い音とともに壁に叩きつけられた。


その衝撃で深い亀裂が走る。




ヘラは、静かに彼の前に立っていた。


姿勢は崩れず、表情も変わらない。




「それが…あなたの全力?」




「これからが本番だ…」


エデンは歯を食いしばりながら立ち上がった。右腕は力なくぶら下がっている。




(くそっ……まるで爆撃みたいな一撃だった…腕の感覚がまるでない)




ヘラは沈黙のまま、観察するように彼を見つめていた。


その眼差しに残酷さはなく、ただ冷静な分析だけが宿っている。




(予想よりも反応が速い。骨も折れていない…なるほど)




「闇の技:黒炎」




地面から立ち昇った漆黒の炎がうなりを上げてヘラに襲いかかる──


しかし、彼女の姿は一瞬でかき消え、炎は空を切った。




「悪くないわ、坊や。でも……まだまだね」




エデンは血を吐きながら、混乱する。




「い、いつの間に…?」




「遅延打ち。感知できなかったのは、あなたにその感覚がまだないから」




「遅延……? そんな攻撃があるのか…?」




「教えてあげる。その前に、罰を受けてもらうわ」




血を流しながらも、エデンは無言で膝をつき、腕立て伏せを始める。




ヘラの瞳が微かに光る。




(身体は限界寸前、それでも心は折れていない。…バルドルの言った通り。この子は、眠れる怪物。もしその力が解放されたら、神ですら止められない)




「終わった…」


最後の一回を終え、エデンは荒い息を吐いた。




「いいわ。…あなた、ゼンカのエネルギーについては理解してる?」




「はい。種類もある程度は」




「さっきあなた、無意識にやったの。私が殴った時、本能で腕にゼンカを集中させた。だから骨が折れなかった」




「…でも遅延打ちは防げなかった」




「そう。だから、これからは意識的に使えるようになりなさい」




声色が急に鋭くなる。




「まずはゼンカを全身に巡らせてみなさい」




「はい…!」




エデンの身体を包むように黒いオーラが広がり、空気が重くなる。




「──今よ!」




抑えきれぬ爆発のようなエネルギーが放たれ、足元の大地にひびが走る。




(すごい…今までで一番はっきり感じる…!)




「初めて?」




「いや…意識してやったのは初めてだ」




「なら、次は一点集中」




エネルギーが拳に集まり始める。しかし──




「…ちょっと待って」


ヘラが眉をひそめる。




次の瞬間──




ドサッ。




エデンの身体が崩れ落ちた。




「くっ…!」




ヘラはすぐに膝をつき、正確に胸を一突き。エデンの心臓が再び鼓動を打つ。




「……今のは……?」




「全身にゼンカを巡らせなかったからよ。一点に集中しすぎると、他が停止するの。命もね」




「……先に言ってくれよ」




「あなたが訊かなかっただけでしょ」




エデンは苦笑しながら、呼吸を整える。そして再びゼンカを流し始める。今度は安定していた。




「うまくいった…」




「じゃあ、あの岩を殴って。中身だけ壊しなさい」




「え? どういう…?」




返答せず、ヘラは自らの拳を岩に当てる。




ゴッ。




しかし音も振動もない。岩は微動だにしなかった。




「…?」




もう一度、別の場所を拳で叩く。




パキィン。




岩が真っ二つに割れ、中は粉々に崩れていた。




「目に見えるのは外側だけ。私は中だけを破壊したのよ」




「すごい…!」




だがエデンの拳からオーラが消える。




「…消えた」




「まだ制御が不安定なの。基礎からやり直しましょう」




ヘラは石を細かく砕き、床に並べる。




「エネルギーを拳に保ち続けて。これらを一つずつ破壊して」




「了解」




ヘラは次々と石を投げてくる。エデンは懸命に砕いていくが、時間と共に動きが鈍る。




10秒後──膝が震える。




「それで終わり? がっかりね、あれだけ偉そうだったのに」




「……まだ…いける……!」




ヘラは無言で石を投げ続ける。




数秒後、エデンは崩れるように倒れ込んだ。




「……くそっ……」




「休みなさい。今日はここまで」




「……まだできる…!」




「もういいって言ってるでしょ。無理すれば…今日は良くても、明日には壊れる」




エデンの目に決意が宿る。




「関係ない」




「その覚悟の先に、何があるの? なぜ、そこまでして強くなろうとする?」




「……言えない。でも…今すぐにでも強くならなきゃいけないんだ。お願いだ…」




「命を捨ててでも?」




「うん」




そのとき、ヘラが初めて微笑んだ。冷たく…けれどどこか真実味のある笑み。




「──私はね、そういう覚悟のある者は好きよ」




そして、次の瞬間──




ゴンッ!




ヘラの拳がエデンの頭頂部に炸裂。




エデンは床に崩れ落ちた。




「……でもね。バカは嫌い」




冥界の闇は、濃い霧のようにすべてを包み込んでいた。


黒い石で彫られた洞窟の中心で、エデンが低くうめきながら目を開ける。


彼が横たわっていた場所は決して快適ではなかったが、数時間に及ぶ気絶の後の体には、それでも安堵があった。




「眠るのが好きみたいね」


近くに座っていたヘラが腕を組みながら呟いた。




「なんで俺を気絶させたんだよ…?」




「バカには言葉より拳が効くって知ってるからよ。説明するより早かったでしょ?」




「……ありがとう、たぶん」




「お腹は空いてる?」




「めちゃくちゃ。あんな修行の後だし、ドラゴンでも食べられそうだ」




「しばらくしたら、私の従者たちが来るわ。待ってなさい」




「わかった……そういえば、前に来てた神は誰だったの?」




「神?……ああ、馬に乗ってたあれね。ヘモルドのことか」




「そう、それ。何しに来たんだ?」




「大したことじゃないわ」




「そうかな。かなり深刻そうだったけど…」




「気にしないで。神の問題は、あなたには関係ない」




「……そっか」




その時──




コツ…コツ…と乾いた足音が響く。


錆びついた鎧に裂けたローブを纏った骸骨たちが、湯気を立てる盆を運びながら入ってきた。




「遅いわよ」


ヘラが彼らを見ずに言った。




骸骨たちはぎこちないながらも丁寧な手つきで、食事をエデンの前に並べていく。


温かな香りが空気に広がった。




(最初は全部が恐ろしくてたまらなかったのに……今じゃもう慣れちまった)




「食べなさい」


ヘラが視線を逸らさずに言う。




「……ありがとう」




エデンは目を見開く。


皿の上には、黒いソースに浸された肉、焼きたてのパン、血のように赤い果実──腹が鳴るのを止められなかった。




「いただきます……」




一口食べた瞬間──




「……うまっ!!」




骸骨たちは音もなく、わずかに頭蓋骨を傾ける。


中には肩をすくめた者もいて、それはまるで──微笑んでいるようだった。




「え……お前ら、笑ってるのか……?」




「あなたの言葉、嬉しかったんでしょうね。彼らはもう喋れないけど、感謝はしてると思うわ」




「……記憶は残ってるの?」




ヘラは少しだけ沈黙し、目にかすかな哀しみを宿す。




「さあね……死とは複雑なものよ。私にとってもね」




突然、洞窟の入口で低い唸り声が響いた。


炎のような目を持ち、剣より長い牙を備えた巨大な黒犬が、静かに近づいてくる。




「失礼します、女王」


ガルムが低く重たい声で言った。




「何かしら、ガルム?」




「重要な報告です。どうか、こちらへ」




「今じゃだめ?」




「申し訳ありません。すぐに」




ヘラは小さくため息をつき、立ち上がる。




「まったく、面倒ね……すぐ戻るわ」




「うん……」




闇の中へ、ヘラとガルムの姿が消える。


エデンは暖かい料理の残りを見つめ、肘をついたまま独り言のように呟いた。




(ここに来てから……変わった気がする。前より強くなった。前より……はっきりと見える。でも……今、どれくらいの時間が経った? 太陽も月もないこの場所で……他の奴らは無事だろうか)




──その頃、側室の奥。青い炎が揺れ、ささやき声が反響する空間で。




ヘラは骨の祭壇の前で立ち止まった。




「つまり……約束は守られなかったのね?」




「はい、女王」


ガルムは即答した。


「すべて……彼の父の思惑通りに進んでいます」




ヘラは目を閉じる。


重苦しい沈黙が落ちる。




「……地上はどう?」




「徐々に崩れ始めています。冬は……予想より早く訪れました」




ヘラの手が肘掛けを強く握る。


乾いた音が指から響いた。




「そう……


なら、間もなくね」




「……はい」




海の波音が、まるで儀式のようにゆっくりと、そして絶え間なく岸を打っていた。


丁寧に彫られた一艘の船が砂の上に静かに佇み、その上にはただの遺体ではなく、崩れかけた世界の重みが載っていた。




数十の神々が無言で集まっていた。


涙を隠す者、隠せない者、虚空を見つめたまま言葉を失った者たち。


船の先頭には、まるで眠っているかのような静けさをたたえたバルドルの遺体が、彼の馬といくつかの愛用品と共に横たわっていた。




ヘモルドは、花の彫刻が刻まれた石の傍で膝をつく女性に近づいた。


「ご愁傷様です、ナンナ…」


ナンナは顔を上げた。目は腫れていたが、すでに涙は出なかった。


「ヘモルド…もう無理よ。彼のいない世界で生きる意味なんてない。彼の声も、笑顔も、“おはよう”も…何もかもが消えてしまった…」


「バルドルは…きっと君に生きてほしいと願っていたはずだ」


「生きてどうするの?彼がいない朝を迎えて、強いふりをして…心の中は壊れたままなのに?」




ヘモルドは手を差し出したが、ナンナは静かに身を引いた。


「ごめんなさい…少し、一人になりたいの」


「…分かった」




その頃、ニョルズは紫色のアイリスの花を手に、不器用に岩の斜面を登っていた。


彼の前には名前すら刻まれていない、ホズルの墓。


「こんな形で終わってしまって、本当に残念だ。みんなはお前を許さなかったが…私は許す。理解してくれるといいが…」


「何やってるんだ、ニョルズ!」タイールが麓から叫んだ。「今すぐ降りてこい!」


「今行くさ…」




ニョルズは花を石の隙間にそっと置いた。


「どうか、お前の周りに花が咲くように…。もっとお前を助けるべきだった。すまない」




一方その頃、オーディンは船の前に立ち、息子の金髪を静かに撫でていた。


「私の息子よ…まさかお前をこんな形で見送ることになるとはな…もっと一緒に過ごせばよかった。父親として、本当にすまなかった」


銀の指輪を外し、バルドルの手にそっと乗せた。そして耳元に顔を寄せた。


「必ずお前を連れ戻す。何があっても…」




数歩下がり、トールに目を向けた。


「準備は整った」


「よし、船を押せ!」




何人もの神がかり集まり、全力で船を押した。だが、船はびくともしなかった。


「くそっ…!」タイールが唸った。「予想以上に重すぎる…!」


「こんなのじゃダメだ!」トールも歯を食いしばった。「意味がない!」




その時、森の奥から巨大な影が現れた。


巨人ヒュルロキン。表情は無機質で、声も静かだった。


「私に任せなさい」


彼女はまず押し…反応がないと見るや、船体に強烈な蹴りを放った。




船は空を滑り、波の上へ。だが砂との摩擦で火花が散り、数秒で炎に包まれた。


「お前…なにをしてるんだ!?」トールが怒鳴った。


「す、すみません…」


近くのドワーフが取りなそうとした、その瞬間——


怒りに駆られたトールの蹴りが、ドワーフを船の火の中へと弾き飛ばした。




「この巨人女め…殺してやる!」


「やめよ!!」オーディンの声が雷鳴のように響いた。




「バルドル!」ナンナの叫びが響く。


彼女は炎に包まれた船へと走り出し、そのまま身を投げた。


「ナンナ!!」ヘモルドが叫ぶ。


誰もが凍り付いた。目を見開いたまま動けずにいた。




オーディンは目を閉じ、歯を食いしばる。


トールの周囲に雷が集まり、怒りが暴発寸前だった。


「もうやめろ!!バルドルが望んでいるのは…こんな殺し合いじゃない!!」




トールの目は空虚だった。ただ、その内側で光が揺れていた。


フリッグがそっと手を乗せる。


「…息子よ」


「必ず殺す…犯人を見つけたら…絶対に殺す…」




神々は泣き崩れた。


船は火に飲まれ、海の彼方へと消えていった。残ったのは灰と、虚無だけ。




その後、アスガルドの大広間でフリッグは屈強な戦士たちを呼び集めた。


「なぜ私たちを?」ヘモルドが尋ねる。


フリッグは厳かに立ち上がった。


「お願いがあります。バルドルをヘルヘイムから連れ戻した者には、どんな願いでも私が叶えましょう」




騒めきが決意の叫びへと変わり、剣が空に掲げられた。


「ヘルヘイムの彼女を…どう説得すれば…」


ヘモルドは心中で苦悩する。




だが彼は、馬にまたがった。


氷の風が吹く地平へ向かって。




——待っていてくれ、バルドル。


死の世界からでも、必ずお前を連れ戻す。たとえこの命に代えても。




ガルムの鋭い爪が、エデンの身体に衝突した瞬間、嵐のような衝撃が彼を襲った。


若者の身体は闇のように黒い壁に叩きつけられ、深い亀裂を残した。




まだ塵が舞い落ちぬうちに、ガルムの唸り声が洞窟を震わせた。


「さあ来い、坊主。全力でかかってこい!」




ふらつきながら立ち上がるエデン。その眼光は燃え上がり、全身を闇のオーラが包み始めていた。


(くそっ… あの大きさなのに、なんて速さだ。隙を見つけなきゃ…)




連続する閃光のような攻撃を繰り出す。だがガルムはそれをまるで踊るかのように躱し、一撃でエデンの腕を噛みつき、再び壁へと投げ飛ばした。地面は砕け、衝撃が響いた。


「遅すぎるな」ガルムが低く唸った。




血が滴る右腕。骨の軋む音が響く。


だがその腕は、ゆっくりと再生し始めた。




(…ヘラの言っていた通りだ。こいつの再生能力は常軌を逸している。倒すには、限界を超えさせるしかない…)




額から汗が滴り落ちる中、エデンは片腕に闇のエネルギーを集中させる。


(…バレバレすぎるな。そんな一撃、通じないぞ)ガルムが見抜く。




(10秒しかない。成功しなければ、終わりだ)


疾風のように突進し、拳を振り抜くエデン。


だが、ガルムは牙でその攻撃を受け止める。




(捕らえた…いや、違う。エネルギーが…消えている!?)




ガルムの瞳が大きく見開かれる。エデンの右腕は既に破損していた。そこに力はなかった。




真の一撃は——


左拳だった。




「闇術・逆衝破!」




凝縮された闇の爆発が、星のように輝きながらガルムを貫くはずだった。


ガルムは辛うじて身を翻した。




拳は地面を砕き、修練場全体が崩れ落ちる。岩は宙を舞い、壁はひび割れ、その衝撃音はヘルヘイムの奥深くまで響いた。




遠くからその光景を見ていたヘラの目が細まる。


(まったく無茶を…片腕を囮にし、本命を隠すなんて…エデン・ヨミ、お前には驚かされてばかりだ)




ゼエゼエと荒く息をつきながら、ガルムが彼女の隣に現れた。


(もしあの拳が直撃していたら…今頃俺はこの世にいなかっただろう。あのガキ、化け物だ)




地面に膝をつくエデン。汗が滴り、左腕のオーラが揺らいでいた。


(…遅かった。仕留めきれなかった。もっと速く…もっと正確に…)




「闇術——」その言葉を残し、力尽きて崩れ落ちた。




ヘラが静かに歩み寄り、彼を見下ろす。


「もういい。今日はここまで。休みなさい」




「…了解」エデンがかすかに答える。




「ずいぶん成長したな。最初はただの生意気なガキだったのに。今では…ただの強いガキになったな」




「…ありがとう」エデンが笑みを浮かべた。




「礼を言うのはまだ早い。私とガルムを倒せてから言いなさい」




「その時は…もう“ガキ”なんて言わせない」




「ふふ…その時が来たら、考えてあげる」




二人は静かに笑い合う。


その一瞬、死の女神ではなく——誇り高き師の顔がそこにあった。




その時、ガルムの耳が動いた。


「どうした?」とヘラが問う。




「お客様です」




「行ってらっしゃい」




「はっ」




——氷の空気を裂くような蹄の音が近づく。


風にマントをなびかせ、ヘモルドがヘルヘイムの門に姿を現した。




待ち構えていたガルムが、鋭い目を向ける。


「何用か。我らが女王に予定された訪問者などいない」




「貴様と話している暇はない。世界が、崩壊の淵にある」




「我らには関係のない話だ」




「今や、無関係では済まされない。何もしなければ、九界すべてが滅びる。ここも例外ではない」




高台からその様子を見下ろすヘラが声を放つ。


「通しなさい、ガルム。話を聞いてみたくなった」




「御意」




ヘモルドはまっすぐ王座へと進む。


その目に恐れはなかった。ただ…絶望が宿っていた。




「また来たのね、ヘモルド…」


「察しているだろう。頼みがあって来た」




「エデン、あとはガルムと鍛錬を続けて」




「はい…」




後ろを振り返りながら、エデンの目がふと曇る。


(…一体、何が起きた?)




ヘラが玉座を降りる。その影は、これまでになく長かった。




「さて…今回は何を望む?」




「もうご存知のはずだ。バルドルが…死んだ」




沈黙が場を包む。




「…あの子は知ってるの? 彼は、バルドルのことを大切に思っていたはず」




「いや。まだだ。今伝えれば、修練に支障が出る」




「ふぅん…珍しく気にかけているのね」




「別に。泣き虫な子供にうろつかれては困るだけだ」




「はいはい…それで、今回は何を差し出すつもり?」




「父なる神は、ヴァルハラの魂百体を、さらに自身の魂と私の魂も含めて…差し出す用意がある」




ヘラの瞳が細くなる。


「…あのオーディンの魂まで? それは…興味深いわね」




「それで…了承してくれるか」




「簡単に返事できる話じゃないわ。死に属する魂を戻すには…契約以上の条件が必要」




「それも覚悟の上だ」




「いいわ。バルドルの魂、返してあげる。その代わりに——九つの世界すべての者が彼の死を悲しまなければならない」




「それは…難しいな」




「高位の魔法っていうのは、そういうものよ」




「やってみせる」




「一週間だけよ。それ以上は許さない。もし、たった一人でも泣かぬ者がいれば…魂は永遠に私のものになる」




「……了解した」




地から現れた透明な鎖が、二人の腕を結ぶ。




「契約パクト」




鎖は火花を散らし、灰となって消えた。




「ありがとう、ヘラ」




返事はなかった。


ヘモルドは振り返ると、馬に乗り、霧の向こうへと消えていった。




彼の背を見送りながら、ヘラはただ、静かに心の中で呟いた。




(…幸運を祈るわ、ヘモルド。その運に、全てが懸かってる)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?