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第30章:裏切り

世界が静かに崩壊する時があります。


爆発も叫び声も衝突音もありません。ほんの少しひねりを加えただけです。誰にも聞こえない呪われたささやき。しかし、それはすべてを変える。時々、傷つけるのは剣そのものではなく、剣に寄せられた信頼なのです。そしてそれが壊れると、拾うべき破片はなくなり、空虚だけが残ります。


都市を凍らせるのは氷だけではない。言葉にできない言葉、隠された決断、信じていた顔…これらすべてがどんな嵐よりも致命的になり得るのです。敵がマスクを着用せず、自分の制服を着用している場合、名誉を持って戦える戦いはもう存在しないからです。


そして、その傷があなたに手を差し伸べた人から来たものだったらどうなるでしょうか?


裏切りが地獄からではなく、忠誠を誓った側から来たとき、あなたはどの神に祈るのですか?


職務の場において、裏切りの代償は死ではない。


自分が流した血は敵の血ではなく、自分の兄弟の血であることを知りながら生きることです。


————————————————————————————————————————————————————————————————


攻撃前の沈黙は、常に偽りに満ちている。




アイザックは、雪に覆われた集落を丘の上から見下ろしていた。


その目は、フードの影に隠れたまま、一瞬たりとも瞬かない。




彼の隣には、“29番”と呼ばれるフードの男が腕を組んで立っていた。




「……緊張してるか?」


その男がにやりと笑みを浮かべて問う。




「全くな」


アイザックは視線を逸らさずに応じる。


「だが……こいつらに“本当の力”を見せるのは、これが初めてだ」




* * *




一方その頃、少し離れた場所で――




エデンは、霜で覆われた家の前に立ち止まっていた。




「ここまで付き合ってくれて、ありがとう。


……サラ、もう戻ってくれ。アスガルドへ。


あとは俺がやる」




「やめといた方がいい」


サラはきっぱりと返す。


「何が起こるか、私たちはもう知ってるはず。


一緒にいたほうがいい」




エデンは彼女の腕の傷に目を向ける。




「でも……その傷――」




「大したことない」


遮るように彼女が言う。


「もっと酷いの、経験してる。行くわよ」




エデンはわずかに頷く。


だが、胸の奥の不安は拭えなかった。




その時だった――




「――戦槍いくさのやり」




アイザックの低い声が風に乗る。




空が金に染まり、神罰のような光の槍が大地に降り注いだ。




「危ない!!」


エデンが叫び、サラを抱きしめて覆いかぶさる。




――ドオオォン!!!




激しい爆発が辺りを吹き飛ばし、家屋は瓦礫に変わる。


衝撃波が地面を抉り、巨大なクレーターを生み出した。




遠くからそれを見ていた“29番”が苦笑する。




「……お前、ほんとにイカれてるな」




瓦礫の中から、エデンが現れる。


片足を引きずりながら、サラに支えられて立ち上がる。




「大丈夫!?」


サラが焦りながら声をかける。




「……ああ。でも、お前こそ……」




「平気よ。問題は、あんたの足の方よ」




「これくらい、どうってことない」


歯を食いしばりながら立つ。


「……それより、もっとヤバい問題が出てきた」




「――悪魔ぁぁあ!!」




空を裂くような咆哮。




アイザックの声だった。




エデンの顔から血の気が引く。




「……アイザック? まさか……」




「さあ出てこいよ、悪魔。時間を無駄にさせるな」




陰の中から見つめるエデン。


その目には、驚きと緊張が交錯していた。




「……間違いない。だけど……この力……前とは別人だ。シュウと同じか、それ以上……」




「出てくると思うか?」


“29番”が問いかける。




「出てくるさ。俺にはわかる。


どうすれば“奴”が動くか……知ってる」




アイザックが声を張る。




「――取引しよう、悪魔。


出てきてくれれば、その女は殺さないでやる」




「取引?」


29番が訝しげに睨む。




「バカじゃないなら分かるだろ?


お前ら二人がここから生きて出られる可能性なんてない。


それに……もし拒めば、あの避難所の子供たちを狙う。


それでいいのか?」




「……っ!!」


怒りに震えるエデン。


拳が震え、爪が手の平に食い込む。




「サラ、行け」




「え?」




「いいから戻れ。


こいつは……本気で誰も残さないつもりだ」




「でも……!」




「信じてくれ。俺が必要なようだが……


お前は、そうじゃないかもしれない。


アスガルドへ戻って……シュウたちに伝えろ。


“アイザックは裏切った”って」




サラの目に、痛みがにじむ。


だが――頷いた。




「……わかった」




その瞬間――




キィン――!




一閃。


剣が空気を裂き、アイザックの頬に薄く傷を残す。




「……抵抗するつもりか」




アイザックの前に、エデンが現れる。まるで影のように。




「読めてたぞ」


アイザックは、その拳を素手で受け止める。




だが、衝撃は想定を超えていた。


彼の体がわずかに揺らぐ。




「ぐっ……!」




エデンはその一瞬を突き、アイザックの剣を奪い取る。




しかし――




スッ……




彼の喉元に、鋭い刃が当てられる。




「……いい動きだったな」


耳元で“29番”が囁く。


「だが、それじゃまだ足りない」




アイザックは、拳を見つめた。


焦げついた掌からは、かすかに煙が立ち上っていた。


痛みは鋭く、現実そのものだった。




「……なんだ、今のは……?」


歯の隙間から漏れる、怒りを孕んだ低い唸り。




隣に立つフードの男――“29番”は、焼けた傷を冷たく見下ろす。




「力はあるが……経験が足りんようだな」


皮肉混じりに言い放つ。




「……チッ」


アイザックは拳を握り締めた。




「クソが……あの女、殺してやる。俺に逆らった報いだ」




「やめておけ」


“29番”の声が鋭く割り込む。


「時間がない。……少年を“引き渡す”のが先だ」




その頃――




エデンは荒い息をつきながら、アイザックから目を離さなかった。




「……お前、一体何を企んでる……アイザック。


そいつは誰だ?」




「……答える義理はない」


冷え切った声。


「素直に従えば、楽になれる。無駄に抵抗するな」




エデンの眉がひくつく。




「やっぱり……お前か。そうだろ?」




「……何の話だ?」




「“ブラック・ライツ”の兵士たちを通したのは――お前だろ」




アイザックは、少しも表情を変えなかった。




「……ああ。そうだ。それがどうした?」




「この野郎ォォ!!」


怒号と共に、エデンが飛びかかる。




「お前のせいで……皆が危険に晒されたんだぞ!!


ユキまで!!」




「……で?」




その一言が――最後の導火線だった。




エデンが渾身の力で拳を振り上げた瞬間、


ドガッ!!




アイザックの拳が顔面に命中。


一撃でエデンは意識を失い、地に沈んだ。




「……鬱陶しいガキだ」


手を振りながら、吐き捨てる。




ゴォオオ……ッ!




重く、低く、空間が唸る。




その場に――“裂け目”が現れる。




空間が引き裂かれ、禍々しい“扉”が開かれる。




「行くぞ」


“29番”が呟き、その裂け目の中へと消えていった。




* * *




――数時間後、ヘルヘイムの深層にて。




二人は、“死の大地”を歩いていた。




赤黒く染まった地面。


生臭い血の匂いが、空気を重たくしていた。




「……ようやくだな」


アイザックが吐息まじりに呟く。


「ようやく、この仕事も終わりだ」




「お前にとっては、な」


“29番”が鼻で笑う。


「俺はまだ“ボス”に仕える身だ。


……お前と違ってな。もう、お前と行動する必要がなくなるだけでも嬉しいよ」




「殺すぞ」


アイザックが皮肉げに笑う。


「冗談抜きで、そろそろうんざりしてきたんだよ、てめぇの声には」




だが――




ピタリと、二人の足が止まる。




空気が変わった。冷たく、重い何かが迫ってくる。




「この気配は……?」


アイザックの背中に、戦慄が走る。




そこにあったのは――




倒れ伏すガルムの亡骸。




その隣にいたのは、瀕死のヘラ。


ボロボロの衣、血で濡れた肌。意識はかろうじて保たれていた。




「……ここで、何が……」




呟くアイザック。




そして、闇の中から姿を現す“者”。




その声は、甘く、そして死神のように冷たい。




「ようこそ……こんな姿で迎えてしまって、すまないね。


ちょっと“遊びすぎた”みたいだ」




――現れたのは、“26番”の男。




アイザックは、無意識に一歩後退する。




(なんでこんな奴が……


“ボス”は、なんでこんな危険人物と取引を……?)




「……で、持ってきたか?」


男が問う。




アイザックは無言で、エデンの体を地面に放り投げた。




「……こいつだ」




“26番”がしゃがみ、エデンの顔をじっと見つめる。




「……ふふ……


そっくりだな。あいつに」




その言葉に、アイザックが苛立ちを露わにする。




「近づくな。引き渡しは“ボス”が来てからだ」




――ゴゴゴゴゴ……ッ




地鳴りのような振動。


ヘルヘイムの壁が軋み始める。




「何だ……?」


アイザックが槍に手をかける。




「心配するな」


“26番”が微笑む。


「待ってるだけだ。……俺は“契約”は守る」




アイザックはエデンのそばに膝をつく。


そして、黒く光る鎖を取り出し、彼の体を岩にしっかりと縛り付けた。




その時――




エデンの瞼が、微かに揺れた。




「……目を覚ますぞ」


“26番”が口角を上げる。


「少しだけ、二人きりにしてくれないか?」




「は? 冗談だろ……」


アイザックが警戒を強める。




「構わないさ」


“29番”が遮るように言った。




「……お前、何を――」




「もしこいつが本気なら、最初から奪ってたさ。


だが、そうはしなかった。つまり――“まだ”その時じゃない」




アイザックは数秒黙り、そして渋々頷いた。




「……わかった。だが、手短にな」




二人がその場を離れる。




“26番”がゆっくりと、目を覚ましかけているエデンの顔に顔を近づけた。




「ようやく……会えたね、“エデン”」




「……ここは……どこだ……?」




かすれた声で、エデンが呟いた。


ゆっくりと瞼を開くと、そこには地獄の光景が広がっていた。




薄暗いヘルヘイムの光が照らしていたのは、


血と影に染まった――ガルムとヘラの亡骸だった。




「……なんだ、これは……?」




エデンの心臓が、一瞬だけ停止する。




「嘘だろ……嘘だろ……! ヘラッ!! ガルムゥゥ!!」




絶叫が響く。


怒りと絶望が混ざり合い、エデンの呼吸が荒れる。




「……貴様だな……! このクソ野郎!! お前がやったんだなッ!!」




彼を拘束する黒い鎖が、怒気に反応して震え始める。


痛みにも構わず、腕を引きちぎるような力で暴れた。




――キィィィッ!!




「落ち着け……」


低く、冷ややかな声が闇の中から響いた。




「……あぁ? 落ち着けだと? お前を殺してやるッ!!」




エデンの身体が火花のように発光し始める。


怒りが、炎に変わりかけたその時――




「……どうやら、ゲンはお前にちゃんと教えなかったようだな」




――ピタリ。




その名が、エデンのすべてを止めた。




「……ゲン……?」




声が震えた。


その名前が、心の奥底に突き刺さる。




「なんで……その名前を知ってる……!?


お前……誰だよ……ッ!!」




闇の中から一歩、影が前へと進み出る。




その顔は、人間のものだった。




だが、瞳だけが違っていた。


暗闇を宿し、それでいて懐かしさと痛みを含んだ視線。




「……その怒りっぽい性格。だが、目の奥には炎がある。


間違いない……お前はあの人の子だ」




エデンの顔が、恐怖と混乱と拒絶で染まる。




「……っ、もう一度聞く。


お前は、誰なんだよ……ッ!!」




その影は、エデンの前で静かに膝をついた。




そして――


風のように優しく、哀しげな声で名乗った。




「突然でごめんなさい。


私はイース……かつてアルテミスに仕えていた戦士。


でも、ある者にとっては――


“イース・ヨミ”と呼ばれていた存在。」




「……っ!」




エデンの瞳が限界まで見開かれる。




呼吸が止まり、時間さえも凍りついたかのようだった。




血の巡りが止まり、声も出なくなる。




「ヨミ……?」


口の中で、その名を反芻する。


思考が追いつかない。




「ええ」


彼女は静かに頷いた。




「私は――あなたの母親よ」




沈黙が、永遠のように空間を支配した。




エデンは、言葉を発せられなかった。




ただ――




祖父、ゲンの笑顔が脳裏をよぎり、


その後ろに広がる、想像を絶する“真実”の影が――




星ひとつない夜のように、


彼の心を覆い尽くした。

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