世界が息を止めているように見える時があります。
歴史が止まる瞬間…それは平和のためではなく、差し迫った悲劇の予告のためだ。
9つの世界の最も忘れられた片隅で、氷が割れ、溶岩が目覚め、そして、これから何が起こるかを知っているかのように影が震える。古い鎖は物理的にだけでなく、精神的にも断ち切られます。なぜなら、自由の本当の重みは、解放するものではなく、解き放つものにあるからです。
王座に誇りを持つ神々は、根本的なことを忘れている。閉じ込められたものはすべて、いつかは逃げ出すのだ。そして恐れられていることはすべて、遅かれ早かれ戻ってくる。
今日、バランスは崩れつつあります。
かつて伝説と言われた名たちが、今再び歩き出す。
なぜなら、時間にも神にも従わない獣がいるからだ。
そして、3人が一斉に立ち上がると、響き渡るのはただの叫び声ではなく…
…それは終わりへの前兆です。
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――アアアアアアアアッ……!!!
洞窟の奥深くに響くその叫びは、痛みそのものが形を持ったかのようだった。
高く、長く、途切れることのない苦悶の声。
ロキの身体は、拘束されたまま震えていた。
毒の雫がゆっくりと額に落ちるたびに、
それは肉体だけでなく、彼の尊厳すら焼き尽くしていく。
「……このクソヨトゥン、いつまで叫んでんだよ」
洞窟の入口に立つ衛兵の一人が、腕を組んだまま呟く。
「殺しちまえばいいのによ……まぁ、報酬は悪くねぇが」
その時――
暗闇の中から、か細い声が響いた。
「……ロキ……ロキ……」
ロキは苦しげに目を開ける。
その視界には、揺れるシルエットが浮かび上がった。
「……シギュン……? お前……」
彼女がそこにいた。
「来ちゃダメだ……見つかったら……罰を受けるぞ……」
「構わないわ」
シギュンはきっぱりと言った。
「あなたが苦しみ続けるのは、私にはもう耐えられない」
彼女はひざまずき、両手に持った器をそっと差し出す。
毒が落ちるその瞬間を見計らい、器でそれを受け止める。
その手は震えていた。
だが、その決意は一片の曇りもなかった。
「……あなたを、ここから……連れ出す方法を探すわ」
「無理だ……」
ロキの声はかすれ、深く沈んでいた。
「この鎖は……強力な呪詛でかけられてる……
外の者には……絶対に破れない……」
「それでも……諦めない」
シギュンの声が震える。
ロキは俯き、目に深い罪悪感を湛える。
「……すまない、シギュン……」
「何が?」
「……俺は……“父親”として、何もできなかった……
息子は……俺のせいで死んだんだ……俺が――」
その言葉を遮るように、シギュンの唇が彼の唇に触れた。
「……息子の死は、あなたのせいじゃない」
囁くように言った。
「悪いのは……オーディンよ。あの男だけ。」
「……シギュン……」
彼女は立ち上がり、眉をひそめて鎖に拳を叩きつける。
――ガンッ! ガンッ! ガンッ!
一度、二度、三度……
だが、鎖はびくともしない。魔力が彼女を拒絶していた。
「……絶対に……連れ出す……!」
その瞬間――
――ズブゥッ!!
銀色の閃光が空気を裂き、
剣が彼女の胸を貫いた。
「……ッ!!」
ロキの目の前に、血飛沫が舞い、
その顔に赤い滴が散った。
「ここは“面会自由”じゃねぇんだよ」
冷たく言い放ちながら、衛兵は剣を引き抜く。
「シギュン!!」
ロキの絶叫が響く。
シギュンの身体が、彼の隣に倒れ込む。
まだ生きていた。だが、血が止まらない。
(……何だ……これ以上……何を望む……?)
(神よ……お前は……俺から……何を奪うつもりだ!?)
衛兵がかがみ込み、
シギュンの顔を手で持ち上げた。
「綺麗な女だな……
なんでこんなクズと一緒にいんだか」
そして、ロキに向かって唾を吐いた。
「最後は……クズと一緒に死ぬんだな。哀れなもんだよ」
だが――
その時。
シギュンの手が動いた。
――パァン!!
衛兵の頬に、最後の力で平手打ちを食らわせる。
「……そんなこと……言うな……私の……夫に……」
その言葉を最後に、力尽きるように崩れ落ちる。
「この……アマが……!!」
衛兵は激昂し、彼女を何度も、何度も殴りつける。
ロキは――何も言わなかった。
だがその瞳の奥で、何かが壊れていく音がした。
(……そうか……)
(そういうことか……)
(――これが“俺の運命”ってわけだな)
衛兵が、血まみれのシギュンの顔に唾を吐いた。
「クズと一緒に、クズらしく終わったな」
その瞬間――
ズズン……ッ
地面が震える。
「……な、なんだ……!?」
衛兵が後退る。
鎖が――きしみを上げる。
ロキが、顔を上げた。
その瞳は、もう泣いていなかった。
冷たく、何も映さぬまま、ただ一言。
「殺してやるよ……全部だ……全員な。」
――パキィン!!
一つ目の鎖が砕けた。
――ガシィィン!!
二つ目、三つ目と、順に砕けていく。
「……ありえない……! 報告しなきゃ……!」
衛兵が逃げようとした瞬間――
――ビュンッ!!
腕が、空を飛んだ。
ロキの視線は虚無。
冷たく、静かで、容赦がなかった。
「黙れ」
彼は、指一本で――舌を引きちぎった。
衛兵は声も出せず、のたうち回る。
「痛いか?」
ロキが耳元で囁く。
「嬉しいよ。もっと泣け。もっと喚け」
――グシャッ!
片足を引き裂いた。
衛兵が絶叫する。
ロキの表情に感情はなかった。
ただ――復讐の焔だけが、彼を動かしていた。
「その目だ……その絶望が、たまらない」
――ズブッ!
腹に剣を突き立て、
最後に、一言。
「二度と……誰にも触れるな。
お前も、……お前みたいな奴も、誰もな。」
――バシュッ!!
その胸から、心臓が引き抜かれた。
シギュンの身体は、岩の上で静かに横たわっていた。
ロキはまだ膝をついたまま、ゆっくりと彼女に近づいた。
それはまるで、この現実を認めたくない者の動きだった。
彼女の頭をそっと抱き上げ、膝の上に乗せる。
その指が震えながら、彼女の頬を撫でる。
「……ごめん……ごめんよ……」
何度も、何度も呟きながら。
血まみれの顔を、
震える手で何度も拭う。
まるで、そうすれば壊れたものが直ると信じているかのように。
髪を整え、額にキスを落とし、
服の乱れを優しく直す。
毒も、罰も、痛みも――
すべての苦しみが、今の彼にはもうなかった。
ただ、彼女だけがいた。
「……許してくれ……」
すすり泣きながら、言葉を重ねる。
「本当に……ごめん……」
そしてロキは――泣いた。
それは、ヘルヘイムで誰も聞いたことのない涙の音だった。
すべてを失った神の、最期の慟哭だった。
* * *
その頃――
九つの世界のどこか、遠く離れた地で。
――ドォォン!!
大地が、轟音と共に激しく揺れた。
「な、なんだ!? 何が起きてる!?」
衛兵が叫びながら、地にしがみつく。
その時――
ジャラ……ガシャァァァンッ!!
鎖が、音を立てて砕けた。
魔法で封じられていた巨大な鎖の残骸が、地面に散らばっていた。
「……いない……!?」
衛兵が絶句する。
その肩に――ぬるりと何かが落ちる。
見上げたその瞬間、
見えたのは――
巨大な顎。
「ガブッ!!!」
それだけで、男は真っ二つにされた。
「……久しぶりの食事ってのは、最高だな」
フェンリルが、血まみれの舌で唇を舐めた。
その目が、赤く光りながら遠くを見つめる。
「どうやら……俺の息子たちも、よくやってくれたようだ。
さて――次は俺の番か」
ドドドドドドッ!!
兵士たちが次々と現れ、数十、数百の兵が周囲を囲む。
「……反応が早いな」
フェンリルが笑う。
「悪くねぇ。……だったら――まとめて喰ってやるよ」
――ドォンッ!!!
信じられない速さで突撃。
爪が、肉を裂き、骨を砕き、
顎が、兵士たちをバリバリと噛み砕く。
血が雪を染め、
叫び声は、フェンリルの咆哮にかき消された。
そして――静寂。
生き残ったのは、一人の兵士だけだった。
彼は震えながら、膝をつき、祈る。
「……神よ……助けてください……」
フェンリルがゆっくりと口を開いた。
だが――そのとき。
ズゥゥゥゥゥン……
頭の奥に響く、テレパシーの声。
(……こんな時に呼ぶとはな、オヤジ……)
舌打ちを一つ。
遠く、赤い空を背に立つ、ロキの姿が見えた。
「……フェンリルよ。時が来た。
――戦場が、我らを待っている」
フェンリルは、ゆっくりと頭を垂れた。
(……了解。すぐに向かう)
彼は、まだ震えている兵士を一瞥する。
「……運が良かったな、人間。
その命、無駄にするなよ」
そう言って、霧の中へと姿を消した。
兵士は、呆然としたまま、
そして次の瞬間――
――グシャッ!!!
上から落ちてきた岩が、
彼の身体を潰した。
「……助かった……俺は……」
その言葉を最後に、彼の意識は潰えた。
* * *
その頃、ノークの氷の海岸。
海がざわめき、氷が砕け始めていた。
「……何が起きてる……?」
スランゲモルダー船長が、海を見つめる。
そして――
漆黒の海の奥から、“赤い目”が開いた。
* * *
一方その頃――
ロキが囚われていた洞窟。
その入口に、オーディンの姿が現れる。
血まみれの衛兵の死体。
そして――砕かれた鎖。
「……まさか……」
その目が、怒りで燃える。
ドクンッ――!
オーディンの身体から、暗黒の気配が噴き出す。
「ふざけるなぁぁぁッ!!!!」
大地がうねり、空気が死を孕むほど重くなる。
グングニルの槍が、虚空を貫く。
「……終わらせる。すべてを、ここで」
その瞬間――
ヨルムンガンドの目が開き、
フェンリルが咆哮し、
ロキが山を下る――風を背に受けて。
“戦争”が、今、始まる。
時の流れと寒さにひび割れた木造の小屋。
大地が揺れる。
それはただの地震ではなかった。
世界そのものが、真っ二つに割れようとしていた。
スランゲモルダーは、ブーツ越しに伝わる振動に歯を食いしばる。
「……クソが……今度は何だ……?」
彼が呟いたその瞬間、
氷の下が赤く光り始めた。
そして――
それは**“眼”だった。**
血走った巨大な目玉が、地の底からゆっくりと開いていく。
「船長!! 見てくださいっ!!」
ダンの叫びが響く。
スランゲモルダーが振り返った時――
氷の下から、無数の海の死骸が浮き上がってくる光景があった。
腐敗しきった魚、獣、何かの骸骨……それらが氷に激突しながら蠢いている。
「……なんだ、これは……?」
――だが、思考する時間はなかった。
次の瞬間、
ズガァァァァン!!!
氷が裂け、空間が爆ぜるように砕けた。
そこから現れたのは――
“終末の大蛇”ヨルムンガンド。
氷を紙のように破り、
一隻の船ごと、そこにいた全員を丸呑みにした。
咆哮が、空を引き裂く。
大地が震え、空が萎縮する。
「な、なんだあれは……!?」
一人のヴァイキングが、恐怖で動けず叫ぶ。
スランゲモルダーは、その巨体を凝視しながら答える。
「……ヨルムンガンドだ。
終末をもたらす大蛇――あれが伝説の存在だ」
「嘘だ……ただの昔話だったはずだ……!」
「もし“昔話”なら――」
スランゲモルダーは苦笑しながら、答える。
「じゃあ、今この地獄をどう説明する?」
氷がきしみ、
その音が不吉さを増していく。
スランゲモルダーは一瞬、目を閉じて思考を巡らせた。
(全員で逃げれば……氷が耐えられず、全滅する)
「……みんな」
彼は静かに、だが力強く言った。
「これは理不尽だ。こんな結末、誰も望んでいないだろう。
だが――最後に、俺と一緒に戦ってくれないか?」
最初に頷いたのは、年長のヴァイキングだった。
「……もちろん、船長」
スランゲモルダーはダンへと向き直る。
「お前はダメだ。ここには残れ」
だが少年は首を振った。
「いいえ……真のヴァイキングは、危険の前から逃げません。
俺も、戦います」
「……お前は、まだヴァイキングじゃない」
スランゲモルダーが一喝する。
「お前は、まだ子供だ!」
「……ダン、言う通りにしろ」
他の戦士が口を挟む。
「仲間になりたいなら、まず命令に従うことを学べ」
ダンは悔しげに俯いた。
拳は固く握られたまま。
その時――
遠くの船から、一人の男が飛び出し走り出した。
「無理だ!! あんなのに勝てるわけがない!! 死ぬだけだ!!」
「バカ野郎ッ!!」
「逃げるしかねえんだよッ!!」
「……俺もだッ!!」
次々と叫びながら、数人が脱走を始めた。
「……くそどもめ……」
副長が唸る。
だがスランゲモルダーは手を伸ばして止める。
「放っておけ。
彼らも……守りたいものがあるんだろう。責めるつもりはない」
「船長……」
逃げ出した彼らを、
ヨルムンガンドの視線がとらえる。
――にやり。
それは明らかに“笑み”だった。
「なっ……!? 何をする気だ……?」
スランゲモルダーの目が大きく見開かれる。
その瞬間、氷が砕けた。
逃亡者たちは次々と水へと落ちていく。
だが――
彼らを殺したのは冷水ではなかった。
ヨルムンガンドの体から溢れ出す、緑の液体。
それが触れた者の肉を溶かし、骨まで露わにする。
――アアアアアアアッ!!!
――ギャアアアアアア!!!
絶叫が響き、残った者たちは嘔吐した。
スランゲモルダーは、震える顎を食いしばる。
そして静かに、鎧を身に着け始めた。
剣が、毒の霧の中でわずかに光る。
「……どうやら、伝説に残る戦いになりそうだな。
“終末の大蛇”よ……」
その言葉を、ヨルムンガンドは理解したかのように、
再びにやりと笑った。
圧倒的な存在感が、辺りを支配する。
その場に残った兵の一人が、黙ったままスランゲモルダーを見つめた。
(……何が……お前をそこまで立たせるんだ、船長……?)
その中で、十数人の人々が外の世界から身を隠していた。
風に軋む壁。
わずかな灯りの蝋燭が、闇をかろうじて追い払う。
沈黙の中で、ヴァイキングの船長・スランゲモルダーが声を上げた。
「……もう限界だ。外に出るぞ。
このままじゃ、飢え死にする」
疲れ切った目ともじゃもじゃの髭を持つ男が、ゆっくりと頷く。
「今日動かなければ……皆を生かしておくのは不可能だ」
スランゲモルダーは男の胸を軽く拳で叩き、
ぎこちない笑みを浮かべる。
「必ず、生かしてみせる。
誰にも、人類の未来を奪わせはしない」
「船長……」
男の目に、静かな感動がにじむ。
スランゲモルダーは扉の方へ向き直る。
「俺たちが食料を探してくる。
ここにいろ。俺たちが戻るまで……絶対に出るな」
その時、奥の暗がりから若い声が響いた。
「船長! 俺も行きたい!」
ダン――グループで最年少の少年。
まだ少年らしさの残る細身の体、だが目には強い決意が宿っていた。
「ダメだ」
スランゲモルダーは即答した。
「外は地獄だ。お前はまだ子供だ」
ダンは一歩前に出て、しっかりと船長を見据えた。
「……俺、もう十五になりました。
もし世界がまともだったら、今日が俺の初任務だったはずなんです。
ここで何もせずに座ってるだけなんて、俺は嫌です」
「世界はもう“まとも”じゃない」
スランゲモルダーの声が鋭くなる。
「だからこそ、外は今まで以上に危険なんだ」
「……邪魔はしません。
もし足手まといになったら、置いていって構いません」
「……船長」
別の戦士が口を挟む。
「こいつ、根性はある。少しはチャンスをやっても……」
スランゲモルダーは大きく息をついた。
ダンを見つめ、失った命の数を思い出すような重たい目で言った。
「……いいだろう。来い」
「っしゃぁあああ!!!」
ダンが笑顔で拳を握った。
「お前たち三人はここに残れ。皆を守れ」
「了解、船長!」
そして一行は、吹雪の中へ踏み出した。
動きを遮る雪。
顔まで覆う毛皮とマント。
それでも、寒さは骨を貫いた。
「……こんなの、無理だ……」
一人が手を擦りながら呟く。
「五十年以上生きてきて、こんな寒さは初めてだ……
それに、太陽が出ない……ずっと夜だ」
誰もが黙る中――
スランゲモルダーだけが、静かに歯を食いしばる。
「もう、何日目かもわからん……
最後に“光”を見たのは……いつだったか……」
ようやく、一行は海辺にたどり着いた。
だがそこにあったのは――
“海”ではなく、“氷の荒野”だった。
白い板氷に閉ざされた海面に、数百の船が凍りついていた。
スランゲモルダーは槍で氷を突く。
感触が柔らかい。
(……まだ下に水がある。
ってことは、まだ……魚がいるかもしれない)
その時、別の男が呼んだ。
「船長! 見てください!」
彼が指差したのは、雪に半ば埋もれた一隻の船。
その中に――
完全に氷漬けになったヴァイキングの遺体があった。
顔は穏やかで、まるで眠るように――
「……これが、あいつらの末路か……」
スランゲモルダーが跪き、静かに呟く。
「苦しまずに逝けたようです」
仲間がつぶやいた。
船長は視線を逸らす。
(なぜ……生き残ったのが、俺なんだ)
「船長、こちらの船は空です」
別の者が報告する。
「戻る途中で力尽きたんでしょう」
スランゲモルダーがうなずく。
「他の船はどうだった?」
「……ダメでした。何もない」
――ギリッ。
スランゲモルダーの拳が、凍った木の手すりを握り締める。
「……クソッ……!」
その時――
ドォォォン……ッ!!
地面が揺れた。
「なっ……!? 何だ……!?」
スランゲモルダーは即座に叫ぶ。
「――全員、船に戻れ!! 早く!!」
足元の氷が、不気味な音を立てて割れ始める。
何かが――
氷の下で、うごめいていた。
ゴォォォォォン……ッ!!
それは、まるで神の宣告のようだった。
ヨルムンガンドの咆哮が空を裂き、
残されたすべての戦士たちの骨を、内側から震わせた。
スランゲモルダーの手は剣の柄を握り締め、
その脚は震えていた――
それは寒さのせいではなかった。
骨髄の奥底から這い上がる、“恐怖”だった。
(……この剣で、本当に届くのか?)
彼は、自らの武器を見つめる。
黄金と竜鱗で鍛えられた剣。
それでも、あの化け物を――傷つけられるのか?
振り返り、彼は部下たちに叫んだ。
「毒に触れるな! 一滴でも……即死だ!!」
だがその警告と同時に、
ヨルムンガンドは動いた。
蛇の巨体が弧を描き、槍のように飛来する。
その牙は、槍以上の長さで、
地面に影を落としながら降ってきた。
スランゲモルダーは反射的に剣を振るい、牙を弾いた。
巨体は笑い声を漏らしながら後退したが、すでに――
「ぐっ……!!」
左手が、触れた“毒”で焼けただれていた。
――ヒリヒリと焼ける音が、氷の上に響く。
しかし戦いは止まらない。
ヨルムンガンドは舞うように暴れ回り、
戦士たちはその巨大さに圧倒されながらも必死に応戦した。
しかし――刃は、ほとんど通らない。
「くそっ……! まったく効かねぇ……!」
一人の戦士が歯を食いしばる。
スランゲモルダーは、無力感に襲われる。
(……どうすれば、奴に傷を……?)
その答えを探す前に――悲劇は訪れた。
ヨルムンガンドの口から放たれた一滴の毒。
それは緑色の閃光のように、宙を走り――
「うっ……ああああああッ!!」
胸に命中した戦士が、一度だけ叫び、
そのまま“溶けて”消えていった。
皮膚も、筋肉も、骨すらも――
すべてが一瞬で“無”になった。
「……嘘だろ……?」
スランゲモルダーが呟いた。
激怒した別の戦士が、咆哮をあげて突撃した。
その刃は、かすかにヨルムンガンドの頬を裂いた――
が、次の瞬間。
グシャッ!!
巨体の“足”で、戦士を地面に叩き潰した。
ヨルムンガンドは舌を這わせ、血を舐める。
「……つまらん虫けらどもだ」
深く、冷たい声が響く。
“初めての言葉”――
その存在が、**“言葉を話す”**という事実に、
戦士たちは凍りつく。
(……体が……動かない……)
(……これが、“恐怖”か……?)
ヨルムンガンドはその目を細める。
その二叉の舌に、毒が滴る。
「……がっかりだ。
あの“槌の男”のような者は、一人もいないのか。
だがまた会おう。楽しみにしているぞ」
ブォンッ!!!
巨体の尾がうねり、
戦場を一掃する。
血飛沫と叫び。
肉体は飛び散り、雪は紅く染まり――
スランゲモルダーは、ひとり残された。
「……俺に……何ができる……?
本当に……こいつを倒せるのか……?」
その時――
「船長ッ!!」
ダンの声が、風に乗って届く。
振り返ると、
少年が必死に走ってくる。
「ダン! 来るな!!」
だが遅い。
ヨルムンガンドも、ダンに気づいていた。
「……退屈だ」
そう呟くと、最後の突撃に入る。
槍のような体が、スランゲモルダーを狙って突き進む。
その瞬間――
「うわあああああッ!!」
ダンが船長を突き飛ばした。
彼の体は空中へ飛び、
巨体はそのまま通り過ぎた。
(何が起きた……?)
立ち上がったスランゲモルダーの視界に――
「……ダン……?」
地面に倒れていたのは、
体を真っ二つに裂かれた少年。
血が雪を濡らし、温もりが失われていく。
「嘘だろ……やめてくれ……」
まだ、彼の目は輝いていた。
「……船長……」
かすれた声。
「ダン!! ダメだ……俺が守るべきだった……!」
「……だいじょうぶ……
皆が、帰りを待ってるから……」
「お前は……これからの未来があるんだ……!」
震える手が、スランゲモルダーの肩に触れる。
「……戦って、死ねた……
本物の戦士として……ありがとう、船長……」
そして――
彼の呼吸が、止まった。
「ダァァァァァァン!!!」
スランゲモルダーの叫びが、
絶望を裂くように響き渡った。
彼は、
最後の“弟”を失った。
古き伝承が語る――
ヴァイキングの戦士が人の限界に達したとき、
内なる何かが目覚める。
それは魔法ではない。
神の恩恵でもない。
――“怒り”だ。
純粋で、原始的で、神聖な憤怒。
人と獣の境界を打ち破るその姿を、
人々はこう呼んだ――
ベルセルク。
スランゲモルダーの咆哮が空に響き渡る。
その叫びと共に、大地が震え、海がうねり、
氷が砕け、空が裂けた。
闇と狂気のエネルギーが彼の体から溢れ出し、
空気そのものが戦慄する。
高みからその光景を見下ろしていたヨルムンガンドが、
目を細め、舌なめずりする。
「……ほう、まだ隠していたか。
面白いぞ、ヴァイキング」
「ぶっ殺してやる……ッ!!」
声は人間のものではなかった。
全身が漆黒の鎧に包まれ、
瞳は虚無の闇へと変わる。
それは、まさに“夜”そのものを纏った戦士。
「来いよ、人間」
ヨルムンガンドが嗤う。
だが次の瞬間――
ブゥゥゥゥン……!
空気が震え、動きが止まった。
「……なに?」
ヨルムンガンドが小さく呟く。
遠くの山頂から、ある声が響き渡った。
「――ヨルムンガンド。
時だ。出陣せよ」
ロキの声だった。
「……親父……?
今かよ……ちょうど面白くなってきたのに……」
巨蛇が舌打ちする。
「遊びは終わりだ。
今すぐ、戦場に向かえ」
ロキの声には冷たさしかなかった。
ヨルムンガンドは不満そうに溜息をつき、
スランゲモルダーを見下ろす。
「……悪いな、人間。続きはまた今度だ」
だが――
スランゲモルダーはそれを許さなかった。
「逃げられると思うなよ、化け物が!!」
瞬間、彼の姿が消え――
現れたのは、ヨルムンガンドの背上。
「うおおおおおおおおおっ!!」
剣が振り下ろされる。
鋭く、速く、重く――
だが、その刃は巨蛇の牙で受け止められた。
「……悪くない」
ヨルムンガンドが呟く。
その直後――
バァン!!!
尾の一撃が炸裂。
スランゲモルダーの体が宙を舞い、
岸辺に叩きつけられる。
「また会おう……人間」
そう言い残し、
ヨルムンガンドは海へと消えていった。
スランゲモルダーは血に染まりながら、必死に立ち上がる。
「……くそが……逃げるな……!
まだ終わってねえぞ……っ!!
全部、てめぇのせいなんだ……!!
戻って来い、ヨルムンガンドォォォォ!!!」
その時だった。
バリバリバリバリッ!!!
空が裂け、雷が地を貫く。
その光の中に、
一人の男が立っていた。
巨大な体躯。
腰に下げた**“槌”**。
雷を纏い、髪が揺れる。
「……まったく……遅かったな」
スランゲモルダーは警戒しながら問いかけた。
「……お前、誰だ?」
その目を見て、男は呟く。
(……黒い瞳、燃えるオーラ……
これは“ベルセルク”か)
「よう、戦士。
俺の名は――トール。
雷の神だ」
「……トール? 神?」
「信じがたいか?」
スランゲモルダーは乾いた笑いをこぼす。
「はは……さっきの光景を見た後なら……
蟻が喋りかけてきても信じる気になれるさ」
トールは海を見渡す。
「……酷い有様だな。まるで、前例のない虐殺だ」
「頼む……」
スランゲモルダーが、膝をついて叫ぶ。
「ヨルムンガンドを倒す手伝いをしてくれ……
あいつのせいで、すべてを……奪われたんだ……」
トールは静かに頷いた。
「……わかった。
もともと奴は俺の獲物だった。
だが今――お前のおかげで、“理由”が増えた」
手を差し出す。
スランゲモルダーは涙を浮かべながら、その手を握る。
「……ありがとう……」
「……お前だけか、生き残ったのは?」
「いや……近くの小屋に、生存者がいる」
トールはエーテルの鏡を取り出す。
青白い光が広がる。
「どうした、父?」
ナイの声が鏡越しに響く。
「郊外の村に、生存者がいた。座標を送る。
すぐに救助隊を送れ」
「了解」
鏡を閉じ、トールはスランゲモルダーを見た。
「もう安心しろ。
彼らは、**“守られる者”**になる。
……そして、お前は“戦う者”だ」
スランゲモルダーは、血と泥にまみれながら立ち上がる。
「……ああ」
その瞬間、また一つの雷が落ちた。
――ズドォォォォォンッ!!!
光に包まれた二人の戦士は、
その場から姿を消した。
* * *
遥か遠く――
炎と灰に包まれた王国。
その中で、巨人の足音が響く。
「……愛しき人よ。
軍は、出陣の準備が整ったわ」
火山の嵐の中から響く声。
それは――シンモラ。
彼女の言葉に、
燃える岩の玉座に座る男が、目を開く。
50メートルを超える巨体。
暗黒のごとき肌。
その息は――炎そのもの。
――スルト。
「……よし」
その瞳が、世界の終焉を映すかのように燃え上がった。