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第31章:三匹の獣

世界が息を止めているように見える時があります。


歴史が止まる瞬間…それは平和のためではなく、差し迫った悲劇の予告のためだ。


9つの世界の最も忘れられた片隅で、氷が割れ、溶岩が目覚め、そして、これから何が起こるかを知っているかのように影が震える。古い鎖は物理的にだけでなく、精神的にも断ち切られます。なぜなら、自由の本当の重みは、解放するものではなく、解き放つものにあるからです。


王座に誇りを持つ神々は、根本的なことを忘れている。閉じ込められたものはすべて、いつかは逃げ出すのだ。そして恐れられていることはすべて、遅かれ早かれ戻ってくる。


今日、バランスは崩れつつあります。


かつて伝説と言われた名たちが、今再び歩き出す。


なぜなら、時間にも神にも従わない獣がいるからだ。


そして、3人が一斉に立ち上がると、響き渡るのはただの叫び声ではなく…


…それは終わりへの前兆です。



————————————————————————————————————————————————————————————————


――アアアアアアアアッ……!!!




洞窟の奥深くに響くその叫びは、痛みそのものが形を持ったかのようだった。


高く、長く、途切れることのない苦悶の声。




ロキの身体は、拘束されたまま震えていた。


毒の雫がゆっくりと額に落ちるたびに、


それは肉体だけでなく、彼の尊厳すら焼き尽くしていく。




「……このクソヨトゥン、いつまで叫んでんだよ」


洞窟の入口に立つ衛兵の一人が、腕を組んだまま呟く。


「殺しちまえばいいのによ……まぁ、報酬は悪くねぇが」




その時――




暗闇の中から、か細い声が響いた。




「……ロキ……ロキ……」




ロキは苦しげに目を開ける。


その視界には、揺れるシルエットが浮かび上がった。




「……シギュン……? お前……」




彼女がそこにいた。




「来ちゃダメだ……見つかったら……罰を受けるぞ……」




「構わないわ」


シギュンはきっぱりと言った。


「あなたが苦しみ続けるのは、私にはもう耐えられない」




彼女はひざまずき、両手に持った器をそっと差し出す。


毒が落ちるその瞬間を見計らい、器でそれを受け止める。




その手は震えていた。


だが、その決意は一片の曇りもなかった。




「……あなたを、ここから……連れ出す方法を探すわ」




「無理だ……」


ロキの声はかすれ、深く沈んでいた。


「この鎖は……強力な呪詛でかけられてる……


外の者には……絶対に破れない……」




「それでも……諦めない」


シギュンの声が震える。




ロキは俯き、目に深い罪悪感を湛える。




「……すまない、シギュン……」




「何が?」




「……俺は……“父親”として、何もできなかった……


息子は……俺のせいで死んだんだ……俺が――」




その言葉を遮るように、シギュンの唇が彼の唇に触れた。




「……息子の死は、あなたのせいじゃない」


囁くように言った。


「悪いのは……オーディンよ。あの男だけ。」




「……シギュン……」




彼女は立ち上がり、眉をひそめて鎖に拳を叩きつける。




――ガンッ! ガンッ! ガンッ!




一度、二度、三度……


だが、鎖はびくともしない。魔力が彼女を拒絶していた。




「……絶対に……連れ出す……!」




その瞬間――




――ズブゥッ!!




銀色の閃光が空気を裂き、


剣が彼女の胸を貫いた。




「……ッ!!」




ロキの目の前に、血飛沫が舞い、


その顔に赤い滴が散った。




「ここは“面会自由”じゃねぇんだよ」


冷たく言い放ちながら、衛兵は剣を引き抜く。




「シギュン!!」




ロキの絶叫が響く。




シギュンの身体が、彼の隣に倒れ込む。


まだ生きていた。だが、血が止まらない。




(……何だ……これ以上……何を望む……?)




(神よ……お前は……俺から……何を奪うつもりだ!?)




衛兵がかがみ込み、


シギュンの顔を手で持ち上げた。




「綺麗な女だな……


なんでこんなクズと一緒にいんだか」




そして、ロキに向かって唾を吐いた。




「最後は……クズと一緒に死ぬんだな。哀れなもんだよ」




だが――




その時。




シギュンの手が動いた。




――パァン!!




衛兵の頬に、最後の力で平手打ちを食らわせる。




「……そんなこと……言うな……私の……夫に……」




その言葉を最後に、力尽きるように崩れ落ちる。




「この……アマが……!!」




衛兵は激昂し、彼女を何度も、何度も殴りつける。




ロキは――何も言わなかった。


だがその瞳の奥で、何かが壊れていく音がした。




(……そうか……)




(そういうことか……)




(――これが“俺の運命”ってわけだな)




衛兵が、血まみれのシギュンの顔に唾を吐いた。




「クズと一緒に、クズらしく終わったな」




その瞬間――




ズズン……ッ




地面が震える。




「……な、なんだ……!?」




衛兵が後退る。




鎖が――きしみを上げる。




ロキが、顔を上げた。




その瞳は、もう泣いていなかった。


冷たく、何も映さぬまま、ただ一言。




「殺してやるよ……全部だ……全員な。」




――パキィン!!




一つ目の鎖が砕けた。




――ガシィィン!!




二つ目、三つ目と、順に砕けていく。




「……ありえない……! 報告しなきゃ……!」




衛兵が逃げようとした瞬間――




――ビュンッ!!




腕が、空を飛んだ。




ロキの視線は虚無。


冷たく、静かで、容赦がなかった。




「黙れ」




彼は、指一本で――舌を引きちぎった。




衛兵は声も出せず、のたうち回る。




「痛いか?」


ロキが耳元で囁く。


「嬉しいよ。もっと泣け。もっと喚け」




――グシャッ!




片足を引き裂いた。




衛兵が絶叫する。


ロキの表情に感情はなかった。


ただ――復讐の焔だけが、彼を動かしていた。




「その目だ……その絶望が、たまらない」




――ズブッ!




腹に剣を突き立て、


最後に、一言。




「二度と……誰にも触れるな。


お前も、……お前みたいな奴も、誰もな。」




――バシュッ!!




その胸から、心臓が引き抜かれた。




シギュンの身体は、岩の上で静かに横たわっていた。




ロキはまだ膝をついたまま、ゆっくりと彼女に近づいた。


それはまるで、この現実を認めたくない者の動きだった。




彼女の頭をそっと抱き上げ、膝の上に乗せる。


その指が震えながら、彼女の頬を撫でる。




「……ごめん……ごめんよ……」


何度も、何度も呟きながら。




血まみれの顔を、


震える手で何度も拭う。


まるで、そうすれば壊れたものが直ると信じているかのように。




髪を整え、額にキスを落とし、


服の乱れを優しく直す。




毒も、罰も、痛みも――


すべての苦しみが、今の彼にはもうなかった。




ただ、彼女だけがいた。




「……許してくれ……」


すすり泣きながら、言葉を重ねる。




「本当に……ごめん……」




そしてロキは――泣いた。




それは、ヘルヘイムで誰も聞いたことのない涙の音だった。




すべてを失った神の、最期の慟哭だった。




* * *




その頃――


九つの世界のどこか、遠く離れた地で。




――ドォォン!!




大地が、轟音と共に激しく揺れた。




「な、なんだ!? 何が起きてる!?」


衛兵が叫びながら、地にしがみつく。




その時――




ジャラ……ガシャァァァンッ!!




鎖が、音を立てて砕けた。




魔法で封じられていた巨大な鎖の残骸が、地面に散らばっていた。




「……いない……!?」


衛兵が絶句する。




その肩に――ぬるりと何かが落ちる。




見上げたその瞬間、


見えたのは――




巨大な顎。




「ガブッ!!!」




それだけで、男は真っ二つにされた。




「……久しぶりの食事ってのは、最高だな」


フェンリルが、血まみれの舌で唇を舐めた。




その目が、赤く光りながら遠くを見つめる。




「どうやら……俺の息子たちも、よくやってくれたようだ。


さて――次は俺の番か」




ドドドドドドッ!!




兵士たちが次々と現れ、数十、数百の兵が周囲を囲む。




「……反応が早いな」


フェンリルが笑う。


「悪くねぇ。……だったら――まとめて喰ってやるよ」




――ドォンッ!!!




信じられない速さで突撃。


爪が、肉を裂き、骨を砕き、


顎が、兵士たちをバリバリと噛み砕く。




血が雪を染め、


叫び声は、フェンリルの咆哮にかき消された。




そして――静寂。




生き残ったのは、一人の兵士だけだった。




彼は震えながら、膝をつき、祈る。




「……神よ……助けてください……」




フェンリルがゆっくりと口を開いた。




だが――そのとき。




ズゥゥゥゥゥン……




頭の奥に響く、テレパシーの声。




(……こんな時に呼ぶとはな、オヤジ……)




舌打ちを一つ。




遠く、赤い空を背に立つ、ロキの姿が見えた。




「……フェンリルよ。時が来た。


――戦場が、我らを待っている」




フェンリルは、ゆっくりと頭を垂れた。




(……了解。すぐに向かう)




彼は、まだ震えている兵士を一瞥する。




「……運が良かったな、人間。


その命、無駄にするなよ」




そう言って、霧の中へと姿を消した。




兵士は、呆然としたまま、


そして次の瞬間――




――グシャッ!!!




上から落ちてきた岩が、


彼の身体を潰した。




「……助かった……俺は……」


その言葉を最後に、彼の意識は潰えた。




* * *




その頃、ノークの氷の海岸。




海がざわめき、氷が砕け始めていた。




「……何が起きてる……?」




スランゲモルダー船長が、海を見つめる。




そして――




漆黒の海の奥から、“赤い目”が開いた。




* * *




一方その頃――




ロキが囚われていた洞窟。




その入口に、オーディンの姿が現れる。




血まみれの衛兵の死体。


そして――砕かれた鎖。




「……まさか……」




その目が、怒りで燃える。




ドクンッ――!




オーディンの身体から、暗黒の気配が噴き出す。




「ふざけるなぁぁぁッ!!!!」




大地がうねり、空気が死を孕むほど重くなる。




グングニルの槍が、虚空を貫く。




「……終わらせる。すべてを、ここで」




その瞬間――




ヨルムンガンドの目が開き、


フェンリルが咆哮し、


ロキが山を下る――風を背に受けて。




“戦争”が、今、始まる。




時の流れと寒さにひび割れた木造の小屋。




大地が揺れる。


それはただの地震ではなかった。


世界そのものが、真っ二つに割れようとしていた。




スランゲモルダーは、ブーツ越しに伝わる振動に歯を食いしばる。




「……クソが……今度は何だ……?」




彼が呟いたその瞬間、


氷の下が赤く光り始めた。




そして――




それは**“眼”だった。**




血走った巨大な目玉が、地の底からゆっくりと開いていく。




「船長!! 見てくださいっ!!」


ダンの叫びが響く。




スランゲモルダーが振り返った時――


氷の下から、無数の海の死骸が浮き上がってくる光景があった。


腐敗しきった魚、獣、何かの骸骨……それらが氷に激突しながら蠢いている。




「……なんだ、これは……?」




――だが、思考する時間はなかった。




次の瞬間、


ズガァァァァン!!!




氷が裂け、空間が爆ぜるように砕けた。




そこから現れたのは――




“終末の大蛇”ヨルムンガンド。




氷を紙のように破り、


一隻の船ごと、そこにいた全員を丸呑みにした。




咆哮が、空を引き裂く。




大地が震え、空が萎縮する。




「な、なんだあれは……!?」




一人のヴァイキングが、恐怖で動けず叫ぶ。




スランゲモルダーは、その巨体を凝視しながら答える。




「……ヨルムンガンドだ。


終末をもたらす大蛇――あれが伝説の存在だ」




「嘘だ……ただの昔話だったはずだ……!」




「もし“昔話”なら――」


スランゲモルダーは苦笑しながら、答える。


「じゃあ、今この地獄をどう説明する?」




氷がきしみ、


その音が不吉さを増していく。




スランゲモルダーは一瞬、目を閉じて思考を巡らせた。




(全員で逃げれば……氷が耐えられず、全滅する)




「……みんな」




彼は静かに、だが力強く言った。




「これは理不尽だ。こんな結末、誰も望んでいないだろう。


だが――最後に、俺と一緒に戦ってくれないか?」




最初に頷いたのは、年長のヴァイキングだった。




「……もちろん、船長」




スランゲモルダーはダンへと向き直る。




「お前はダメだ。ここには残れ」




だが少年は首を振った。




「いいえ……真のヴァイキングは、危険の前から逃げません。


俺も、戦います」




「……お前は、まだヴァイキングじゃない」


スランゲモルダーが一喝する。


「お前は、まだ子供だ!」




「……ダン、言う通りにしろ」


他の戦士が口を挟む。


「仲間になりたいなら、まず命令に従うことを学べ」




ダンは悔しげに俯いた。


拳は固く握られたまま。




その時――




遠くの船から、一人の男が飛び出し走り出した。




「無理だ!! あんなのに勝てるわけがない!! 死ぬだけだ!!」




「バカ野郎ッ!!」




「逃げるしかねえんだよッ!!」




「……俺もだッ!!」




次々と叫びながら、数人が脱走を始めた。




「……くそどもめ……」


副長が唸る。




だがスランゲモルダーは手を伸ばして止める。




「放っておけ。


彼らも……守りたいものがあるんだろう。責めるつもりはない」




「船長……」




逃げ出した彼らを、


ヨルムンガンドの視線がとらえる。




――にやり。




それは明らかに“笑み”だった。




「なっ……!? 何をする気だ……?」




スランゲモルダーの目が大きく見開かれる。




その瞬間、氷が砕けた。




逃亡者たちは次々と水へと落ちていく。




だが――


彼らを殺したのは冷水ではなかった。




ヨルムンガンドの体から溢れ出す、緑の液体。


それが触れた者の肉を溶かし、骨まで露わにする。




――アアアアアアアッ!!!




――ギャアアアアアア!!!




絶叫が響き、残った者たちは嘔吐した。




スランゲモルダーは、震える顎を食いしばる。


そして静かに、鎧を身に着け始めた。




剣が、毒の霧の中でわずかに光る。




「……どうやら、伝説に残る戦いになりそうだな。


“終末の大蛇”よ……」




その言葉を、ヨルムンガンドは理解したかのように、


再びにやりと笑った。




圧倒的な存在感が、辺りを支配する。




その場に残った兵の一人が、黙ったままスランゲモルダーを見つめた。




(……何が……お前をそこまで立たせるんだ、船長……?)






その中で、十数人の人々が外の世界から身を隠していた。




風に軋む壁。


わずかな灯りの蝋燭が、闇をかろうじて追い払う。




沈黙の中で、ヴァイキングの船長・スランゲモルダーが声を上げた。




「……もう限界だ。外に出るぞ。


このままじゃ、飢え死にする」




疲れ切った目ともじゃもじゃの髭を持つ男が、ゆっくりと頷く。




「今日動かなければ……皆を生かしておくのは不可能だ」




スランゲモルダーは男の胸を軽く拳で叩き、


ぎこちない笑みを浮かべる。




「必ず、生かしてみせる。


誰にも、人類の未来を奪わせはしない」




「船長……」




男の目に、静かな感動がにじむ。




スランゲモルダーは扉の方へ向き直る。




「俺たちが食料を探してくる。


ここにいろ。俺たちが戻るまで……絶対に出るな」




その時、奥の暗がりから若い声が響いた。




「船長! 俺も行きたい!」




ダン――グループで最年少の少年。


まだ少年らしさの残る細身の体、だが目には強い決意が宿っていた。




「ダメだ」


スランゲモルダーは即答した。


「外は地獄だ。お前はまだ子供だ」




ダンは一歩前に出て、しっかりと船長を見据えた。




「……俺、もう十五になりました。


もし世界がまともだったら、今日が俺の初任務だったはずなんです。


ここで何もせずに座ってるだけなんて、俺は嫌です」




「世界はもう“まとも”じゃない」


スランゲモルダーの声が鋭くなる。


「だからこそ、外は今まで以上に危険なんだ」




「……邪魔はしません。


もし足手まといになったら、置いていって構いません」




「……船長」


別の戦士が口を挟む。


「こいつ、根性はある。少しはチャンスをやっても……」




スランゲモルダーは大きく息をついた。


ダンを見つめ、失った命の数を思い出すような重たい目で言った。




「……いいだろう。来い」




「っしゃぁあああ!!!」


ダンが笑顔で拳を握った。




「お前たち三人はここに残れ。皆を守れ」




「了解、船長!」




そして一行は、吹雪の中へ踏み出した。




動きを遮る雪。


顔まで覆う毛皮とマント。


それでも、寒さは骨を貫いた。




「……こんなの、無理だ……」


一人が手を擦りながら呟く。




「五十年以上生きてきて、こんな寒さは初めてだ……


それに、太陽が出ない……ずっと夜だ」




誰もが黙る中――


スランゲモルダーだけが、静かに歯を食いしばる。




「もう、何日目かもわからん……


最後に“光”を見たのは……いつだったか……」




ようやく、一行は海辺にたどり着いた。




だがそこにあったのは――




“海”ではなく、“氷の荒野”だった。




白い板氷に閉ざされた海面に、数百の船が凍りついていた。




スランゲモルダーは槍で氷を突く。


感触が柔らかい。




(……まだ下に水がある。


ってことは、まだ……魚がいるかもしれない)




その時、別の男が呼んだ。




「船長! 見てください!」




彼が指差したのは、雪に半ば埋もれた一隻の船。




その中に――




完全に氷漬けになったヴァイキングの遺体があった。


顔は穏やかで、まるで眠るように――




「……これが、あいつらの末路か……」


スランゲモルダーが跪き、静かに呟く。




「苦しまずに逝けたようです」


仲間がつぶやいた。




船長は視線を逸らす。




(なぜ……生き残ったのが、俺なんだ)




「船長、こちらの船は空です」


別の者が報告する。




「戻る途中で力尽きたんでしょう」


スランゲモルダーがうなずく。




「他の船はどうだった?」




「……ダメでした。何もない」




――ギリッ。




スランゲモルダーの拳が、凍った木の手すりを握り締める。




「……クソッ……!」




その時――




ドォォォン……ッ!!




地面が揺れた。




「なっ……!? 何だ……!?」




スランゲモルダーは即座に叫ぶ。




「――全員、船に戻れ!! 早く!!」




足元の氷が、不気味な音を立てて割れ始める。




何かが――


氷の下で、うごめいていた。




ゴォォォォォン……ッ!!




それは、まるで神の宣告のようだった。




ヨルムンガンドの咆哮が空を裂き、


残されたすべての戦士たちの骨を、内側から震わせた。




スランゲモルダーの手は剣の柄を握り締め、


その脚は震えていた――


それは寒さのせいではなかった。


骨髄の奥底から這い上がる、“恐怖”だった。




(……この剣で、本当に届くのか?)


彼は、自らの武器を見つめる。




黄金と竜鱗で鍛えられた剣。




それでも、あの化け物を――傷つけられるのか?




振り返り、彼は部下たちに叫んだ。




「毒に触れるな! 一滴でも……即死だ!!」




だがその警告と同時に、


ヨルムンガンドは動いた。




蛇の巨体が弧を描き、槍のように飛来する。




その牙は、槍以上の長さで、


地面に影を落としながら降ってきた。




スランゲモルダーは反射的に剣を振るい、牙を弾いた。


巨体は笑い声を漏らしながら後退したが、すでに――




「ぐっ……!!」




左手が、触れた“毒”で焼けただれていた。




――ヒリヒリと焼ける音が、氷の上に響く。




しかし戦いは止まらない。


ヨルムンガンドは舞うように暴れ回り、


戦士たちはその巨大さに圧倒されながらも必死に応戦した。




しかし――刃は、ほとんど通らない。




「くそっ……! まったく効かねぇ……!」




一人の戦士が歯を食いしばる。




スランゲモルダーは、無力感に襲われる。




(……どうすれば、奴に傷を……?)




その答えを探す前に――悲劇は訪れた。




ヨルムンガンドの口から放たれた一滴の毒。


それは緑色の閃光のように、宙を走り――




「うっ……ああああああッ!!」




胸に命中した戦士が、一度だけ叫び、


そのまま“溶けて”消えていった。




皮膚も、筋肉も、骨すらも――


すべてが一瞬で“無”になった。




「……嘘だろ……?」


スランゲモルダーが呟いた。




激怒した別の戦士が、咆哮をあげて突撃した。


その刃は、かすかにヨルムンガンドの頬を裂いた――




が、次の瞬間。




グシャッ!!




巨体の“足”で、戦士を地面に叩き潰した。




ヨルムンガンドは舌を這わせ、血を舐める。




「……つまらん虫けらどもだ」


深く、冷たい声が響く。




“初めての言葉”――


その存在が、**“言葉を話す”**という事実に、


戦士たちは凍りつく。




(……体が……動かない……)




(……これが、“恐怖”か……?)




ヨルムンガンドはその目を細める。


その二叉の舌に、毒が滴る。




「……がっかりだ。


あの“槌の男”のような者は、一人もいないのか。


だがまた会おう。楽しみにしているぞ」




ブォンッ!!!




巨体の尾がうねり、


戦場を一掃する。




血飛沫と叫び。


肉体は飛び散り、雪は紅く染まり――




スランゲモルダーは、ひとり残された。




「……俺に……何ができる……?


本当に……こいつを倒せるのか……?」




その時――




「船長ッ!!」




ダンの声が、風に乗って届く。




振り返ると、


少年が必死に走ってくる。




「ダン! 来るな!!」




だが遅い。


ヨルムンガンドも、ダンに気づいていた。




「……退屈だ」


そう呟くと、最後の突撃に入る。




槍のような体が、スランゲモルダーを狙って突き進む。




その瞬間――




「うわあああああッ!!」




ダンが船長を突き飛ばした。




彼の体は空中へ飛び、


巨体はそのまま通り過ぎた。




(何が起きた……?)




立ち上がったスランゲモルダーの視界に――




「……ダン……?」




地面に倒れていたのは、


体を真っ二つに裂かれた少年。




血が雪を濡らし、温もりが失われていく。




「嘘だろ……やめてくれ……」




まだ、彼の目は輝いていた。




「……船長……」




かすれた声。




「ダン!! ダメだ……俺が守るべきだった……!」




「……だいじょうぶ……


皆が、帰りを待ってるから……」




「お前は……これからの未来があるんだ……!」




震える手が、スランゲモルダーの肩に触れる。




「……戦って、死ねた……


本物の戦士として……ありがとう、船長……」




そして――




彼の呼吸が、止まった。




「ダァァァァァァン!!!」




スランゲモルダーの叫びが、


絶望を裂くように響き渡った。




彼は、


最後の“弟”を失った。




古き伝承が語る――


ヴァイキングの戦士が人の限界に達したとき、


内なる何かが目覚める。




それは魔法ではない。


神の恩恵でもない。




――“怒り”だ。




純粋で、原始的で、神聖な憤怒。




人と獣の境界を打ち破るその姿を、


人々はこう呼んだ――




ベルセルク。




スランゲモルダーの咆哮が空に響き渡る。




その叫びと共に、大地が震え、海がうねり、


氷が砕け、空が裂けた。




闇と狂気のエネルギーが彼の体から溢れ出し、


空気そのものが戦慄する。




高みからその光景を見下ろしていたヨルムンガンドが、


目を細め、舌なめずりする。




「……ほう、まだ隠していたか。


面白いぞ、ヴァイキング」




「ぶっ殺してやる……ッ!!」


声は人間のものではなかった。




全身が漆黒の鎧に包まれ、


瞳は虚無の闇へと変わる。




それは、まさに“夜”そのものを纏った戦士。




「来いよ、人間」


ヨルムンガンドが嗤う。




だが次の瞬間――




ブゥゥゥゥン……!




空気が震え、動きが止まった。




「……なに?」


ヨルムンガンドが小さく呟く。




遠くの山頂から、ある声が響き渡った。




「――ヨルムンガンド。


時だ。出陣せよ」




ロキの声だった。




「……親父……?


今かよ……ちょうど面白くなってきたのに……」


巨蛇が舌打ちする。




「遊びは終わりだ。


今すぐ、戦場に向かえ」


ロキの声には冷たさしかなかった。




ヨルムンガンドは不満そうに溜息をつき、


スランゲモルダーを見下ろす。




「……悪いな、人間。続きはまた今度だ」




だが――




スランゲモルダーはそれを許さなかった。




「逃げられると思うなよ、化け物が!!」




瞬間、彼の姿が消え――




現れたのは、ヨルムンガンドの背上。




「うおおおおおおおおおっ!!」




剣が振り下ろされる。


鋭く、速く、重く――




だが、その刃は巨蛇の牙で受け止められた。




「……悪くない」


ヨルムンガンドが呟く。




その直後――




バァン!!!




尾の一撃が炸裂。


スランゲモルダーの体が宙を舞い、


岸辺に叩きつけられる。




「また会おう……人間」




そう言い残し、


ヨルムンガンドは海へと消えていった。




スランゲモルダーは血に染まりながら、必死に立ち上がる。




「……くそが……逃げるな……!


まだ終わってねえぞ……っ!!


全部、てめぇのせいなんだ……!!


戻って来い、ヨルムンガンドォォォォ!!!」




その時だった。




バリバリバリバリッ!!!




空が裂け、雷が地を貫く。




その光の中に、


一人の男が立っていた。




巨大な体躯。


腰に下げた**“槌”**。


雷を纏い、髪が揺れる。




「……まったく……遅かったな」




スランゲモルダーは警戒しながら問いかけた。




「……お前、誰だ?」




その目を見て、男は呟く。




(……黒い瞳、燃えるオーラ……


これは“ベルセルク”か)




「よう、戦士。


俺の名は――トール。


雷の神だ」




「……トール? 神?」




「信じがたいか?」




スランゲモルダーは乾いた笑いをこぼす。




「はは……さっきの光景を見た後なら……


蟻が喋りかけてきても信じる気になれるさ」




トールは海を見渡す。




「……酷い有様だな。まるで、前例のない虐殺だ」




「頼む……」


スランゲモルダーが、膝をついて叫ぶ。




「ヨルムンガンドを倒す手伝いをしてくれ……


あいつのせいで、すべてを……奪われたんだ……」




トールは静かに頷いた。




「……わかった。


もともと奴は俺の獲物だった。


だが今――お前のおかげで、“理由”が増えた」




手を差し出す。




スランゲモルダーは涙を浮かべながら、その手を握る。




「……ありがとう……」




「……お前だけか、生き残ったのは?」




「いや……近くの小屋に、生存者がいる」




トールはエーテルの鏡を取り出す。


青白い光が広がる。




「どうした、父?」


ナイの声が鏡越しに響く。




「郊外の村に、生存者がいた。座標を送る。


すぐに救助隊を送れ」




「了解」




鏡を閉じ、トールはスランゲモルダーを見た。




「もう安心しろ。


彼らは、**“守られる者”**になる。


……そして、お前は“戦う者”だ」




スランゲモルダーは、血と泥にまみれながら立ち上がる。




「……ああ」




その瞬間、また一つの雷が落ちた。




――ズドォォォォォンッ!!!




光に包まれた二人の戦士は、


その場から姿を消した。




* * *




遥か遠く――


炎と灰に包まれた王国。




その中で、巨人の足音が響く。




「……愛しき人よ。


軍は、出陣の準備が整ったわ」




火山の嵐の中から響く声。




それは――シンモラ。




彼女の言葉に、


燃える岩の玉座に座る男が、目を開く。




50メートルを超える巨体。


暗黒のごとき肌。


その息は――炎そのもの。




――スルト。




「……よし」




その瞳が、世界の終焉を映すかのように燃え上がった。

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