それは、“笑った”。
だが、その“笑い”には意味がなかった。
喜びでも、愛しさでもない。
単に、“名前を与えられたことへの反応”だった。
志乃は思わず一歩下がる。
地面の影が、彼女の足元にまとわりつくように広がってくる。
「“あれ”、このまま名前を確定させようとしてる……!」
漣が言った瞬間、祠の中からもう一つの影が出現した。
それは、先ほどのものと異なり、“顔がある”。
だが――
その顔は、志乃の顔と全く同じだった。
「……っ!?」
志乃が息を呑むと、その影は口を開いた。
──あなたが わたしを “写した”
──だから わたしは “あなたの名”を借りる
「やめろ……!」
志乃は叫ぶが、影の“自分”は微笑み続けた。
──ナオミ、じゃない
──わたしは シノ
──それが いちばん きれいに うつる
「……私の名前を、持っていかないで……!」
次の瞬間、志乃の胸の中に**“名の違和感”**が走った。
まるで、自分の名が“外にある誰かのもの”になっていくような――
名前と人格の接着が剥がれていくような感覚。
「シノ……って、あれ、“名前を重ねて確定させようとしてる”んだ」
伽羅の震える声。
「つまり、あいつはもう“人”として完成しようとしてる!」
「なら、“名を戻せばいい”んだな?」
漣が低く言って、懐から懐中札を取り出した。
それは、村に伝わる「逆印(さかさふだ)」と呼ばれる呪具。
書かれた名の力を**“否定”する**ための札だった。
「“写し世”がこの世界に定着する条件は、
“名前を受け入れたまま、記憶される”こと。
ならば、俺たちが“その名を拒否し、忘却する”」
漣は札を志乃の額に押し当てながら、はっきりと言った。
「お前は志乃じゃない。
お前はナオミでもない。
お前は――“名前を持たない存在”だ」
すると影は、一瞬だけピクリと揺れた。
笑っていた口が、逆に裂けた。
──わたしは わたしじゃない
──でも わたしでありたかった
──なのに なのに また
──また “なまえ”を わすれさせようと する
祠の地面に亀裂が走る。
まるで、世界の“表皮”そのものがはがれようとしていた。
伽羅が叫ぶ。
「これ、まずい! あの影、“世界と名の接合点”を壊してる!
このままいくと、“写し世”が“こっちに上書き”されるぞ!」
「じゃあ、どうするの!?」
志乃の声に、漣は一瞬黙ったあと――言った。
「一つだけ方法がある。“俺たちのうち誰かが、自分の名前を渡して、身代わりになる”」
静まり返る空気。
「でもそれは、“その名でその人が上書きされる”ってこと。つまり、“元の人格は消える”」
影が、嬉しそうに両手を広げた。
──ダレガ クレルノ?
──ダレノ ナマエヲ ワタシガ カエリミチニ スルノ?
志乃が、一歩前に出た。
「私がやる。……私が呼んだんだから。私が“写した”んだから」
だが、そのとき――漣が、志乃の前に立った。
「……ダメだ。お前は、“呼んだだけ”だ。
“連れてきた”のは、俺だ」
志乃の目が、漣を見つめる。
「あなた……まさか……!」
「最初に“名前を書いた”のは、俺だ。
夢の中で、“写し世”に手を伸ばした。
そして、あれが俺の心に答えたんだ」
静かに、漣は影に近づく。
「――いいか。“お前の名は、俺が持つ”」
そう言った瞬間、影が志乃の顔を溶かし、
漣の顔になった。
そして――笑った。