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第26話

 それは一瞬だった。

 影の顔が志乃から漣へと変わり、

 その輪郭が“こちらの世界”の空気と同化するように沈んだ。

“それ”は、もうこちらの世界で形を持つ。

“名前”と“顔”と“存在の土台”を得て――この世に留まれるようになった。

 ──ワタシハ レン

 ──レン ハ ワタシ

 ──ナマエ アリ

 ──イマココニ

 笑顔は――もはや“笑顔”ではなかった。

 口の形は合っていても、目が笑っていない。

 仕草も声も漣に似ているが、“完全に同じ”ではない。

 志乃は、静かに尋ねた。

「……あなたは、本当に“漣”なの?」

“それ”は首をかしげた。

「俺は、レンだよ」

 その言い方が、不自然だった。

 人間は、自分の名前をそんな風に口にしない。

“他人から借りた音”を読むような、ぎこちなさ。

「……あんた、“漣の記憶”を持ってる?」

「持ってるよ。“漣”の知識、“漣”の声、“漣”が見てきた世界。

 でも……“レン”の想いもある。

 “呼ばれたから”、来たんだ。

 “祠が壊されたから”、来たんじゃない。“開けられたから”、来た」

「じゃあ、漣はどこに……?」

 その問いに、“それ”は言った。

「さあ。たぶん、祠の中。

 名前を奪われたまま、“写し損ね”として……残ってる。

 “うつしよ”ってそういう場所だから」

 伽羅が泣きそうな声で叫んだ。

「……そんなのってあるかよ……!

 お前、こっちに来たかっただけだろ!?

 名前が欲しくて、誰でもよかったんだろ!!?」

“それ”はうっすらと笑った。

「違う。俺は“忘れられなかった”んだ。

 ずっと前に、“名を与えられかけた”のに、忘れられた。

 だから、“名が残ってた”。

 それが祠に封じられて、“呼ばれるのを待ってた”」

 志乃が静かに言った。

「……それでも、“ここにいてはいけない”。

 あなたの存在は、“人間の時間”に干渉しすぎる。

 “生きていた人間”を踏み台にするなら、それはもう“命”じゃない」

“それ”は黙った。

 風鈴が、どこからか響いた。

 その音に重なるように、空の色が変わる。

 夜のはずの空が、墨を落としたようににじんでいく。

“写し世”が、この世界の空をなぞろうとしていた。

「戻って」

 志乃が祈るように呟いた。

「“漣”は、自分の意志で“あなたに名前を渡した”わけじゃない。

 あなたは“漣になった”つもりかもしれないけど、

 本当の“漣”は、そんな風に“人の上に立つ形”を選ばない人だった」

“それ”がぴたりと動きを止めた。

 その顔が、不安定に揺れはじめた。

 目の高さがずれる。口の位置が変わる。

 骨格が一瞬だけ、“志乃のもの”と重なる。

 ──……なぜ “漣”を しってる

 ──……なぜ “漣”を そういえる

 ──……“あなた”は だれ?

 志乃が、はっきりと言った。

「私は“志乃”。あなたに名を与えようとした“観測者”」

「だから今、“名前を返す”。」

 その瞬間、志乃の手に、逆印の札が現れた。

 漣が残した札。

 その裏には――漣自身の“筆跡”が残されていた。

 ──もし俺が“名前を与えた”なら、

 ──それを“否定する者”がいてほしい。

 ──名前が存在を作るなら、否定もまた救いだ。

 志乃は札を突きつけた。

「お前の名は、“レン”じゃない。

 お前は――“名前を与えられなかった者”。

 そして、“それでいい”」

“それ”が、崩れるように叫んだ。

 声ではない。

 形のない、“否定された名”の反響。

 風鈴の音が止まり、

 祠の跡地が、静かに光に包まれる。

 そしてそこには――一枚の札だけが残っていた。

 その札には、こう書かれていた。

 ──水守 漣

 ──存在、確認済

 ──写し世より回収完了

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