翌朝、祠の跡地には静かな霧が漂っていた。
だが、その霧はただの自然現象ではなかった。
それは、封印が再び成された証だった。
札が残されていた地面に近づくと、そこにはもう一つの影があった。
漣だった。
彼は、息をしていた。
目を閉じて、祠の跡に伏していた。
“何もなかった場所”から、“確かに帰ってきた”のだった。
「……夢の中にいた。
あっちは、音も光もない場所だった。
ただ“名前の残滓”だけが渦巻いてた。
でも、志乃の声が、引き戻してくれた」
彼はゆっくりと立ち上がる。
「“写し世”って、ただの異界じゃなかった。
“名を与えられなかったもの”たちの、失われた居場所だったんだ」
伽羅が、小さくうなずいた。
「俺、思うんだ。“封印”って、忘れるためじゃない。
“名前をそのままにしておくこと”かもしれない。
誰にも壊されない場所に、名前だけを置いておく。
だから、“誰かが呼ばない限り”、そこは平和だった」
志乃は、残された札を見つめながら言った。
「……名前は、呪いになる。
でも同時に、“誰かを思い出す鍵”にもなる。
漣が戻ってこられたのは、きっとその両方が働いたから」
彼らは祠の跡地に、小さな石碑を立てた。
名前は刻まれなかった。
ただ、“祠の形”だけを模した印。
その下に、逆印の札が静かに埋められた。
封印は、終わった。
だが、彼らの中には、もう“この世”と“写し世”の境界があることを知ってしまった記憶が残る。
それは、決して恐怖ではない。
ただ――“存在しなかったはずの何か”が、
確かに一度、人の名前でこの世界に現れたという記録。
それを忘れずにいること。
それが彼らにできる、“最後の封印”だった。
■
その夜、志乃は自室の机に風鈴を置いた。
鳴らないように、窓は閉じた。
けれど、風のない部屋で、
一度だけ――小さく、風鈴が鳴った。
チリン。
それは警告ではなく、
どこか懐かしい、“名残りの音”だった。
完